今はまだ、同じ速度で 38


 ふあ、とソキはあくびをした。ふああぁ、と大きくのびをしながらもう一度あくびをして、閉じた瞼を開かないまま、のそのそと伏せていた体を持ち上げる。座りこんでしまえたことに、意識が違和感を覚えた。

 あれ、と首を傾げ、無意識に体をロゼアにくっつけようと体重を移動させて、ソキはそのままころんっ、とソファの上に背から転がった。ぱちっと目を開き、ソキはぱたぱたと手脚を動かしてやああぁああっ、と声をあげる。

「いやぁいやぁあああっ! ろぜあちゃあぁああん!」

 瞬間、音を立てて扉が開かれる。涙がいっぱいの目でそちらを向いて反射的に両手を伸ばし、ソキは心底がっかりした顔で、そのままソファに倒れ伏した。

「おにいさまですぅ……」

 どこかへ行くか、あるいは帰ってきた所なのだろう。レロクは白いやわらかな布で作られた上下に、淡い金となめらかな碧の糸で花と植物模様の縫いつけがされた服を着ていた。当主の祝い着だ。

 上着を脱いでそのままぽいと執務机の上に放っているので、用事が終わって戻ってきたようだった。レロクは呆れた顔で伏せたまま顔をあげもしないソキを眺め、ラギが差し出した普段着に袖を通しながら息を吐く。

「どうしてお前は、ほんの数秒で起きるのだ……」

「ろぜあちゃぁん……! おにいさま、またソキからロゼアちゃんとったぁ……メグちゃんもいないです。ソキ、おにいさまにいじわるされてるです。ラギさん、ラギさん。おにいさま、ソキに、いじわるするです。おこって? しかって? めってしてぇ……!」

 レロクを椅子に座らせ、てきぱきとした動きで釦をしめていくラギに、ソキは涙でうるうるの目を向け、鼻をすすりながら訴えた。ラギはレロクの頬に手をあて、首筋に指先を滑らせながら困ったように微笑する。

 待てどくらせどラギがレロクを叱ってくれないので、ソキはやあぁん、と悲しげな声をあげてソファにへしょりと突っ伏した。

「ラギさんもソキにいじわるするぅ……!」

 ソキはぺちぺち、ソファを手で叩きながら訴えた。

「ソキ、ひとりで眠るの、きらぁいでーすぅー……! 起きた時に、ひとりなの、もぉ、きらい、で、すぅーっ! んもおおおおぉ、んもおおぉおぉー……ロゼアちゃんはぁ、どして、ソキをおいてちゃったです……? ソキ、連れてって欲しかったです。ろぜあちゃん、おこしてくれなかったです……。……えいえいえい」

「ソキさま、ソファを蹴らない……!」

「ぷぷ。ちがぁう、ですぅー。ソキ、蹴ったりしてないですー。ソキは、あしのちょーし、どうかなって、してるだけ、で、すぅー。ソキねぇ、最近あんまり、歩けてないですから、ぱたぱたってしないとー、いけないんですよー?」

 爪先でソファの端をふにふにしながらそう言い張って、ソキはぷーっと頬をふくらませた。歩く時間や期間がすくない時、脚を動かさなければいけないのは本当のことなのだ。

 なにかにつけてソキの髪をひっぱる案内妖精に半切れ口調で言い聞かせられているし、ロゼアも朝食前と就寝前に丁寧にマッサージをしてくれる。ロゼアに手間暇をかけてもらうのは、ソキはとってもとっても好きなのだが。

 そのあたたかでやさしいてのひらがじっくりと触れて行く、脚のケアだけは。マッサージだけは、ちょっぴり、にがてで、やなのである。

 ソキがぁ、じぶんでぱたぱたちゃんとした、っていえば、きっと今日はしないですぅ、とソファの端を拗ねてけりけりしながら言う『花嫁』に、ラギはゆるりと微笑んだ。

 今日もソキさまはいっしょうけんめいソファを蹴っておられました、という報告は絶対にしなければなるまい。

 お前のせいでまた俺が怒られるだろうやめぬか、と呻くレロクに頬をぷううううっと膨らませ、ソキはべちっとソファを手で叩いた。

「おにいさまそきからろぜあちゃんとったからそきゆーこときかないです! ……おてていたいです」

「それみたことか……! ラギ!」

「はい、レロク。……失礼致します、ソキさま。御身に触れる御許可を頂いても?」

 だいたいお前、今日は静かにそこにいろとロゼアに言われていたのではなかったのかとねちねち言ってくるレロクから顔を背け、ソキは足早に歩み寄り、眼前に跪いたラギにこくりと頷いた。

 促されるままに片腕を差し出すと、ごく慎重に、ラギが指先だけでソキの腕と手首、てのひら、手の甲、指先に触れてくる。

「……ひねってはいませんね。よかった。……ソキさま?」

「ごめんなさいです……ソキもう静かにしているです……。ラギさん、ロゼアちゃん怒らない……?」

 ええ、と微笑み、ラギは頷いた。ソキはほっとしたように笑い、胸元に手を引き寄せてちょこん、と首を傾げる。

「ロゼアちゃんに、ないしょにしてくれるです?」

「いいえ?」

 にこ、とソキは笑って、反対側にちょこ、と首を傾げる。

「ラギさん? ラギさんー。おねがい、おねがいです」

「はい。私にできることであれば、なんなりと」

「ロゼアちゃんに、ソキがおてて、ぺちぃってしたの。ないしょ、です。なぁいしょ」

 言ったらだめですよってソキはおねがいしています。ね、ね、とにこにこ笑うソキの前から立ち上がって、ラギはしっとりと響くやわらかな声でないしょですね、と囁いた。

「分かりました。それでは、そのように致しましょう。ソキさまが、ないしょ、と仰っていたと」

「……んん?」

 えっとぉ、あれ、と考え込むソキが正解に辿りつくよりはやく、室内にあくびの音が響きわたる。ラギがさっと身をひるがえして歩んで行く先では、レロクが眠たそうに目をこすりながら、本棚に背を預けて瞬きをしていた。

 レロク、とやや笑みに崩れた声が静かにソキの兄を呼ぶ。お眠りになりますか、と囁かれ、レロクは不機嫌な顔でふるふると首を横に振った。

 思い切り嫌そうに相手を睨みつけるその面差しも、ソキが思わずじーっと見つめてしまうくらい、うつくしい兄。すいと持ち上げられたてのひらが重みのないものを払うような仕草で、ラギの頬を打った。

「終わったら眠る、と何度言わせるつもりなのだ、お前は……。ラギ」

「はい、レロク」

 ひどく疲れた風に息を吐き出し、レロクはやわらかに身を屈めた。一度だけ、ラギの肩に額をすり寄せた頭が離れるよりはやく、ぽんぽん、と撫でられる。ラギは、とてもしあわせそうに見えた。

 かつての己の『花婿』に触れられることも、触れることも。ぱちりと瞬きをして、ソキは唐突にそれに気が付いた。ソキが、ロゼアのソキさま、と呼ばれているのと同じで。

 レロクも昔は、ラギのレロクさま、と呼ばれていた筈なのだ。ソキがそう呼ばれるようになった時には、すでにレロクは『若君』であり、『若様』であり、この『お屋敷』の跡継ぎであったからそれを耳にした記憶などないのだけれど。

 ラギこそがレロクの『傍付き』。『花婿』の永遠の恋の相手だった。あっけなく身を離し、レロクはぴしりと部屋の扉を指差した。

「俺はソキと話がある。二人で、だ。扉の外にいることは許す」

「はい、レロク。おはなしのお時間は?」

「……一時間」

 わずかばかり悩んだ末に呟いたレロクの手を引いてゆっくりと導き、ソキの転がるソファの端に座らせた。

「それではお迎えに上がるまでこちらから立ち上がらず、みだりに動かず、暴れず、もちろんなにかを蹴ったり、投げたり、決してなさいませんよう。三十分後にお迎えにあがります。扉の外におりますので、なにかあれば、すぐに」

 薄手の上着を脱ぎ捨て、それをレロクに着せかけながら微笑むラギに、ソキはくてんと首を傾げ、レロクは目を細めて鼻を鳴らしてみせた。

「ラギ。俺は一時間と言った筈だが?」

「そうですね。私は、一時間は許可できません、と申し上げています……もう数分で鐘が鳴りますよ、レロク」

「お前それをはやく言わぬか……! ああ……いいか、ソキ。落ち着いて聞け」

 ラギが開いた扉が閉じるのを待たないで、慌てて告げられた言葉だった。

「ミルゼは今日嫁ぐ」

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