今はまだ、同じ速度で 36
こく、こくん。こくん、と飲んで湯呑みを空にしたソキに、ロゼアはあまく喜びに満ちた微笑みで、偉いな、と頬を撫でてくれた。
「偉いから、ソキはなにか食べられるな。食べながら、お茶も、もうすこし飲めるよな?」
「えへん。ソキ、ちゃぁんとご飯食べてぇ、おちゃだって、飲めるんですよ?」
「さすがはロゼアのソキさまです! さあソキさま。ソキさまのお好きなヨーグルトにされますか? すりりんごもありますわ。それに……」
できあがっていたわよ、とメグミカの囁きに、ロゼアがちいさく頷いた。片腕でソキを抱いたまま、もう片方の手が布のかかった小皿を取りあげる。なんですか、それなぁに、と不思議がるソキの顔の前で、小皿にかかっていた布が取り払われた。
そこに乗せられていたものに。ソキはあっと目を見開き、はしゃぎきった声できゃあああぁっ、とさけぶ。
「ろぜあちゃんの! おいわいの、お干菓子、です!」
「うん。約束したろ、ソキ。俺が十五の時に」
来年も、その次も。新しい年になるたびに。しあわせそうに笑いながら囁くロゼアに、ソキは瞳を涙でうるませ、こくん、と頷いた。十五の成人を迎えた者を祝う風習は、どこの国でもあるものだ。
砂漠の、特に『お屋敷』のそれは本人が祝福を贈られるのみではなく、周囲に対する感謝を捧げる日でもある。砂漠の、首都住まいの者には数え年が採用されているから、年が明けるのに合わせてそれは行われ。
『お屋敷』では成人となった『傍付き』が、周囲に祝い菓子をふるまい歩くのが習わしだった。ただしそれは『傍付き』に限られ、原則的に十五までには嫁いで行く『花嫁』には関わりのないものである。
だからその風習の、詳しい意味や内容までは、ソキにはよく分からないものなのだが。
差し出されたのは、ロゼアの祝いの干菓子である。それは小ぶりな花の形をしている。八重咲きの密な花が形を成すそれは繊細な砂糖菓子。琥珀を溶かしこんだ発泡酒のような淡い色合いは、ソキの髪色にとてもよく似ていた。
花に添え、飾られるようにつけられたちんまりとした緑の葉も、口に含めばとろりと溶ける砂糖細工である。ロゼアは花のひとつを摘みあげ、ソキの口元にそっと差し出してよこした。
あむ、と口に含めば、すぐにとろとろざらりと砂糖細工は溶け崩れ、品のいいやわらかな、喉にひっかからない甘みが広がっていく。あむあむ。こくん。と飲み込んで、ソキはなんども目を瞬かせた。
そうしなければ泣いてしまいそうだった。
「おいしいか? ソキ」
「うん……。うん、おいしい、です。あまぁいです」
「もうひとつ食べられる? それとも、りんごのほうがいい? ヨーグルトにするか?」
小皿の上にのせられたちいさな愛らしい砂糖菓子は、全部で三つあった。いまひとつ食べてしまったので、残りはふたつ。
ソキはちょっと眉を寄せてロゼアを見つめ、微笑みかけるメグミカを見て、砂糖菓子を見て、ロゼアを見て、もう一度砂糖菓子を見つめたのち、ロゼアをうるうるした目で見つめ、きゅぅん、と喉を鳴らした。
「ろぜあちゃぁん……」
「うん?」
「ロゼアちゃんと、メグミカちゃんと、ソキのです? ソキの、もうないです。ソキがまんできるです……!」
ロゼアの祝い菓子は、特別なものであるという。『傍付き』それぞれが特別な注文をして年始にだけ作られるものであるから、数も限られるのだと聞く。つまり、恐らく、小皿に乗っているものだけで全部なのだ。
めぐちゃんとロゼアちゃんのです、ソキがまんです、と頷くソキに、メグミカは微笑みながら囁いた。
「いいえ。すべてソキさまのものですわ。……そうよねロゼア」
「そうだよ。決まってるだろ? ソキのだよ。ソキのだから、食べたかったら食べていいんだ」
拗ねたように、しょんぼりとうなだれるソキの頬を、指の背で撫でて。ロゼアは満ちた息を吐き出して、ゆるく、ソキの体を抱きしめ直した。
「ソキはこれ、好き?」
「すき。です。……ソキの? これソキのです? ほんとです?」
「うん。ソキ、ソキ……でも、そうだな。りんご、食べられる? すってあるから、あまくて、ふわふわで、食べやすいよ。りんご食べて……ヨーグルトも、すこし、食べられるといいな。それで、そうしたらもうひとつ、これを食べような。もうひとつは、ゆっくり眠って、起きて、お茶を飲んで。その時に食べようか」
引き寄せられる腕の中が、じわじわとした熱が染み込んでくるようで、ほんとうに気持ちいい。くたん、として体を全部預けて、預け切って、目を閉じてすりすりすり、と頬を寄せて甘えるソキの髪を、ロゼアの手がそぅっと撫でていく。
繊細な壊れものを扱う手つきで。やわらかなそれを、決して歪ませはしないのだと囁くように。触れて、撫でて、癒して行く。閉じたまぶたを、くすぐるように、指先が触れた。
「ねむいか? ソキ。……頭痛いか?」
じわり、じわり。逃げていく夕陽を暗闇が染めていくように。奥底に沈んでいたけだるさが浮かび上がってくるのを、ソキも感じ取っていた。のた、のた、瞬きをして、あくびをして、ソキがゆるく首をふる。
「大丈夫なんですよ……ソキ、りんご、たべるぅ、です」
「うん。うん、いいこだな、ソキ。気持ち悪くなったら、途中でやめにしような。無理して食べないでもいいからな」
だいじに、だいじに、やわらかく。ぎゅううぅ、とソキのことを抱きしめた腕が、くるんと体を反転させ、膝の上に座り直させる。
先程からソキはロゼアの腕の中でくるくる向きを入れ替えるだけで、ちっともシーツの上に降ろされる気配もなく、寝台から移動する素振りもない。
はいこっち、とロゼアに背をくっつけるように体重を後ろに流されて、ソキはころん、と膝の上で転がった。
「ふにゃぁ……! ろぜあちゃ? ろーぜーあー、ちゃー、んー?」
「うん?」
よいしょ、とソキを抱き支えて座り直させながら、ロゼアが不思議そうに首を傾げる。
メグミカがてきぱきとした動きでソキの膝の上に布をひき、すったりんごにふわふわに削った氷を混ぜ入れているのを眺めながら、『花嫁』はくてん、と力なく首を傾げてみせた。
「おひざのうえー、で、たべてー、いい、ですぅー……?」
「んー……うん。あーん、てしような、ソキ」
頬を撫でた手が首筋に押し当てられ、ロゼアの眉が寄せられる。その手にすりよりながら、ソキはふあふあした気持ちで、けふん、とごく軽い咳をした。なんだか、喉がちょっとごろごろするような、かゆいような、重たいような、へんな感じだ。
んー、んんぅー、とむずがって瞬きをするソキの口元に、ちいさなちいさな木の匙にすくい取られたふわふわのりんごと、溶けきっていない氷が差し出された。それを、あむ、と口に含んで。
もむもむもむ、こくん、と飲み込み、ソキはふにゃりと力ない笑みを浮かべた。
「つめたくー、てー、あまぁい、で、すぅー……!」
「うん。ソキ、もうひとくち」
「あむぅ。……んく。ねえねえ、ロゼアちゃん? ねえねえー……?」
ちたぱた脚を動かして、こぉら、とたしなめられながら、ソキは差し出される木の匙にあむっと食いついた。ゆっくり、ゆっくり飲み込んでから、りんごがですねー、とほわほわした声を響かせる。
「お風がですねぇ、ふわぁんってして、くるくるってして、きゃぁってするんですけどぉー。おひさまのね、ぽかぽかのねぇ、きもちいのもね、いっしょでねぇ? ソキね、んとねぇ、んとぉ……。んと、んと、それでね、りんごがね、ふわふわでね、あまくってね、つめたくって、おいしいんですけどぉ。おかぜが、んとぉ、ナリアンくん? みたいな、きもちい、ふあふあの、おかぜでね。おひさまがぽかぽかです!」
「……ナリアンのと、俺の魔力?」
「りんごはぁ、なりあんくん、なんですけどぉ。ロゼアちゃん、くっついてると、なでなでしてくれるですし、ぎゅぅってしてくれて、ぽかぽかで、ソキはとってもきもちいです……」
ソキの説明というのはだいたいからして非常に分からないが、体調が悪いとその限界をやすやすと突破して行く、からお前ホントどうにかしておけよ、とロゼアは長期休暇の前も寮長に言われていたことを思い出し、不愉快げに眉を寄せた。
わからない方がおかしい。きゃあきゃ、とはしゃぎながらすりリンゴを食べるソキの口から木の匙を引き抜いて、ロゼアはふ、とゆるく微笑んだ。
ナリアンから、俺のかわいい妹が倒れたと聞いて、というかなんで俺は花舞から離れられないんだろう長期休暇ってなんだっけ休暇ってなんだっけ休みってなんだっけうふふあははそうだ花舞の女王陛下の御為に、とやたらと混乱した洗脳されかかった近況を報告する手紙つきで、お見舞いとして送られてきたのが、このりんごだった。
それから、ナリアンの魔力を感じる、とソキはいう。やさしく包み込み、悪いものを押し流し、癒して行く祝福の魔力を。
ロゼアのそれも、助けてくれているから。気持ちいいです、大丈夫です、と。お熱があるけど気持ち悪くならないんですよ、とご機嫌に笑ってすりりんごを食べきったソキを、その腕の中に抱いて。
ロゼアは満ちた息を吐き出し、ソキ、ソキ、と囁いた。ソキは、その日、ゆっくりと。風に撫でられる花のように、まあるく満ちていく月のように、安らぎ。ちいさな鳥籠に飾られた宝石のように。
揺りかごで眠る幼子のように、あたたかく、ゆらゆらと。気持ちのいい熱につつまれて、眠った。
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