今はまだ、同じ速度で 19


 いずれ『花嫁』と呼ばれる少女が恋をする相手は、傍付き候補の中の異性であると限られている訳ではない。同性を『傍付き』として求める者もいる。

 どうすることもなく、己の意志など関係なく落ちてしまう恋の相手に。ソキが選んだのはロゼアだった。淡い想いが、胸をときめかせるそれが、どうすることもできない恋なのだと。自覚し、くちびるで触れた相手が、ロゼアだった。

 どうしてロゼアにそう思ったのかは分からない。ただ、息を吸い込むことが、震えるほど苦しいと。想うだけでひたひたと胸を満たすあまい感情を。恋だと思わせたのは、ロゼアだった。他の、誰でも、なかったのだ。

 メグミカはソキの傍付き候補だった。傍にいるだけで幸福になれる、きらきらした喜びを、教えてくれる相手だった。そして、それは今も変わってはいない。

 繋いだ手からじわじわと染み込んでくるようなしあわせに、ソキはふにゃん、とあまい笑みを浮かべて視線を持ち上げる。

「めぐみかちゃん、めぐみかちゃん!」

「はい、ソキさま」

「めぐみかちゃんだいすき。すきすきだいすき、だぁいすきです」

 ソキねえメグミカちゃんに会いたかったです、とってもですよ、ほんとうになんですよ、とふあふあした笑顔で告げるソキに、メグミカはとび色の目をうるませながら、穏やかな仕草で頷いた。

「ソキさま……メグミカも、ソキさまのことが、とてもとても好きです」

「ほんとっ? めぐちゃん、ほんとう……?」

「はい、もちろん。本当です」

 きゃぁ、とはしゃいだ声をあげて繋いだ手にきゅぅと力を込め、ソキはてち、てちっとゆっくり廊下を歩いて行く。足取りは不安定で危なっかしく、すぐにも転んでしまいそうだったが、メグミカとしっかり繋いだ手がなんとかソキを歩かせていた。

 んと、んと、と考えながら、ソキはてちっと足を踏み出し、んんぅ、と眉を寄せて首を傾げる。

 歩く、ということがあんまり久しぶりで、ラーヴェを追いかけた時はあんまり急いでいたので気にもならなかったのだが、ちゃんとできているかどうかが分からなくなってしまったのだ。

 んとぉ、とまた危なっかしくてちてちと歩き出すソキに、メグミカはやわらかな笑みを崩さないままつき従って行く。いまは傍にいないロゼアの代わりに。

 ソキはロゼアの不在を思い出してしまい、ぐずっと拗ねた風に鼻を鳴らすと、ろぜあちゃんいつかえってくるですかぁ、としょんぼりした声で問いかけた。

「お屋敷ついちゃったですから、ロゼアちゃんもうしばらくかえってこなぁ……です……?」

「いいえ、ソキさま。そのようなことは決して。ロゼアは用事を済ませたら、すぐにソキさまの元に戻りますわ」

 ちょっと離れるけど、すぐに戻ってくる。ロゼアもそう言っていたでしょう、と穏やかな声で囁くメグミカに、ソキは目をうるうるさせながらくちびるを尖らせた。

「……そきがまんできるぅ、です、よ」

「はい、ソキさま」

「うー、うぅー……! もおぉ……! ソキ、おにいちゃんきらいきらいですぅ! おにいちゃ、いいぃっつもロゼアちゃんいじめるぅ……!」

 例え用事があったとしても、レロクが追い払ったりしなければ、もうほんのちょっとだけロゼアは傍にいてくれたかも知れないのに。もぉー、もおぉっ、とぷりぷり怒りながら、ソキはきっと眼前に広がる、見知らぬ場所を睨みつけた。

 レロクと再会した当主の為の部屋はすでに背に遠く、ソキは自分の部屋に帰る最中なのである。どこもかしこも、お屋敷をろくに歩いたことのないソキには見覚えのない景色ばかりであるが、不安はまったく覚えない。

 メグミカが一緒にいてくれるからだった。手を繋いで、隣にいてくれるからだった。メグミカは絶対に、ソキに悪いことをしない。怖いことも痛いことも。悲しいことも、辛いことも、絶対にしない。ロゼアがそうであるように。

 ねえねえメグミカちゃん、と隣から囁かれる道順通りにてちてち歩きながら、ソキは不思議そうに首を傾げた。

「メグミカちゃん、お仕事、なにしてるですか……? ソキの……ソキのお世話は終わっちゃったです」

「ソキさまがお戻りの間、メグミカは常のようにお傍におりますよ」

「ほんと……っ? ソキ、うれしいです……!」

 お前は嫁いだことになっている、とレロクは告げた。ロゼアは『花嫁』を嫁がせたあと、外勤に異動したことになっている。その上でロゼアは魔術師として『学園』に招かれ、学んでいるとされているが、ソキも同じなのだと知るのはごく少数である。

 ソキの身の回りの世話をしていたほんの数人と、ロゼアと同年代以上の『傍付き』たち。そして屋敷の上層部にしか、それを知らせていないのだとレロクは、『お屋敷』の跡継ぎは言った。

 ロゼアはともかく、ソキはそうするしかなかったのだと。最優の『花嫁』であったソキは無事に嫁ぎ、しあわせになった。

 その事実が『お屋敷』にはどうしても必要だったのだと、レロクは舌打ちしながら告げ、ラギにはしたないとたしなめられていた。それをうるさがりながら、ただし、ともレロクは言った。

 ある程度なんとかすればお前が屋敷にいてもバレはしないと思うがな、と。

 その理由が、ソキが歩けることにある。例えてちてちちまちました動きであろうとも、『花嫁』は基本的に、歩けるようにはつくられない。

 屋敷内であればほぼ常に傍にある『傍付き』がまずそれを許さないし、『花嫁』も自ら動こうなどということは、考えるものでもないのだった。ソキは歩ける。その脚で、どこへも行けると、もう知っている。

 だから顔さえ隠してしまえば、あるいは出歩くことも可能だろう、とレロクは言った。

 ただしロゼアかメグミカのどちらかは供につれて行けお前はすぐ転ぶのだろうからな、と言い放たれて、ソキはおにいさまなんて嫌いですソキもうお部屋にもどります、と頬を膨らませた。

 ソキの住んでいた区画。『花嫁』の部屋に、である。

 複雑な屋敷を、恐らくは人の目を避けて進んでいたであろうメグミカの気配が、ふと柔らかくなったのは長い廊下を抜けた後のことだった。そこでようやく、ソキはわぁ、と顔を輝かせる。どこにいるのか、ソキにも分かった。

 等間隔に取りつけられた灯篭の金具は、金と碧。ゆるく循環する空気に、さわやかな花の匂いが染み込んでいる。廊下には一面、毛足の長いじゅうたんが敷き詰められ、万一の事態に備えられていた。

 磨き上げられた壁や天井は一面の白。真珠の光沢をもつやわらかな白色が続いて行く廊下に、ひかりが満ちている。『花嫁』の区画。ソキの区画だった。すこしだけだるかった脚が、回復魔術も使っていないのに、痛みを忘れて前に踏み出す。

 ソキさま、と淡く呼ぶ声にメグミカを見上げ、ソキは満面の笑みでくちびるをひらいた。

「メグミカちゃん。……ただいまです」

 この場所はいつか、他の『花嫁』のものになる。それでも今はまだ、ここが、ソキの、帰ってくる場所だった。何度も何度も旅行に出され、そのたび、ここへ戻ってきたように。メグミカは言葉なく目をうるませ、一度、しっかりと頷いて。

「おかえりなさいませ、ソキさま」

 囁いてくれた言葉に、ソキは繋いだ手を頬にくっつけて。すりすり甘えながら、うん、としあわせに頷いた。この場所が永く、帰ってくる場所だった。この先、必ず失われてしまうものだとしても。その光景をずっと、忘れはしないだろう。

 しあわせにみちた空気と、ひかりと。

 そこで、待っていてくれたひとのことを。

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