今はまだ、同じ速度で 18

 ソキの生まれ育った場所は『お屋敷』と呼ばれている。大きな屋敷だからそう呼ばれているのではない。

 それは『花嫁』たちを育成する機関の総称であり、広大な敷地に密に咲く花弁のような形につくられた無数の建物の総称であり、その場所そのものの呼び名であった。

 他国には中々理解しがたいものなのだというそれを、手っ取り早く理解させる為に、だいたいはこう説明される。王の住まう城や庭、敷地の総称として『王城』と呼ぶのと同じ感覚で、砂漠の民はその場所を『お屋敷』と呼ぶ。

 『花嫁』と『花婿』が育まれ、彼らに献身を尽くす『傍付き』を育成する為の場所があり、生活させる為の棟があり、当然、その他の使用人たちが暮らす住居もそこへ含まれる。『お屋敷』とは砂漠が有す小規模な国である。

 そう受け止めるのが他国には一番分かりやすいのだ、となにかでソキは耳にしたことがあった。

 ソキはその中の最深部で生まれ、ごく限られた区画の中で育った。普段の生活は『花嫁』に与えられたその区画の中、上空から見れば密に咲く花弁のひとひらに相当するであろう建物の中で過ごし、そこから外へ出ることはない。

 だからこそソキは、己が生まれ育った『お屋敷』が具体的にどれくらいの広さで、どこになにがあって、誰がどこにいて、というのをまったくもって知らなかったし、いまも分からないままである。

 ソキが分かるのは、正面玄関から入った時の当主の部屋までの道順と、そこからソキの区画へと帰る道筋。ソキの区画から、一番近くの出入り口へ向かい、外へ、市外へ向かう行き方。その三つである。

 その三つですら、かろうじて、なんとなく、分からないこともないというか思い出せないこともないというか迷わないで行けない気がしなくもない、というとてつもなくあやふやなくらいである。

 『花嫁』は己の足で出歩かないし、道は覚えなくて良いものだ。白雪から戻る旅の最中、ソキがまっすぐに『お屋敷』を目指し辿りつけたのは、真正面からオアシスに入り、馬車道をそのまま辿ったからである。

 屋敷から迷わず外へ飛び出して行けたのは、部屋から出た廊下に、等間隔に飾り灯篭が火を揺らしていたからだ。それを辿るだけで、外に出ることができたのである。案内妖精がいたことも大きいだろう。

 行く道は、ただ導かれてそこにあった。ソキが選んで考えたのとは、すこし違うのだ。

 王都の城門前で駱駝から乗り換えた、ゆっくりと揺られる馬車から眺められる道にも、すぐに興味を失ってしまった。

 城から『お屋敷』まではすぐ近く、ということくらいソキも知っていたし、分かっているのだが、どうもいまひとつどの辺りにいるのか分からないせいでつまらない気持ちになってくる。

 馬車より駱駝の方が楽しかったです、とソキはロゼアの腕の中でうとうとしながら考えた。もうちょっと。もうほんのすこしで、お屋敷なので。そうしたらきっとだっこも終わりだし、そうしたら、もう、ロゼアは。

 本当の、ほんとうに。傍付き、を。ソキの、ソキだけの、それを。やめて、おわりにしてしまうかも、しれない。

 だってロゼアは、ソキの傍付きじゃないよ、と言ったので。




 言う訳なかろうが考え直せ真剣にだ、と呆れ果てた顔でこそりと吐き捨てたのは、屋敷の一室で再会した、兄レロクだった。

 『お屋敷』の次期当主でもある兄はすでに全権を掌握していながらも、なお次期と呼ばれ若君と呼び慕われているが、その細かい理由はソキには分からないままだ。

 なにやら複雑な手順と、もうすこしばかりやりこなさなければいけないことが残っているとのことだが、ソキは知っている。

 『学園』に呼ばれ、この『お屋敷』に立ち寄った時にはまだこの建物のどこかに住み、存命していた前当主を、ソキとレロクの血の繋がっているであろう父親を、追い出し弑逆してのけたのは、他ならぬこのうつくしい青年であることを。

 ソキの兄は、その中でも唯一血の繋がっているレロクは、最優の花嫁の目から見てもひどくうつくしい。

 その、なにをしてもなにを言っても許されてしまうような磨き整えられきったうつくしさ故に、常に常に上から目線でものを言ってくるレロクに対して、ソキは説明しきれない複雑な思いが、それはもうたくさんあるのだが。

 それでも実のところ、大好きな兄のひとりである。久しぶりの再会で、すこしばかり甘えた気持ちで、ぷぷぷ、と頬をふくらませ、ソキは腕組みをしてちょこり、首を傾げてみせた。

 ソキの傍にいるのはレロクだけで、二人は次期当主の為の執務室に運び込まれた、特別上質なソファに腰をおろして向き合っていた。

 開け放たれた窓からはさわりと風が吹きこんでくる。『お屋敷』特有の、花と水と、緑の香りがする、瑞々しく懐かしい香りに染められた風が。それをするりと喉に吸い込みながら、ソキは咳き込むことなく言葉を紡いだ。

「言ったですよぉ、ロゼアちゃん。……ソキに……いったです。いったもん。いったぁ!」

「言う、わけ、ない、と、言っておろう、が……!」

「やぁんや! やぁんやぁん! おにいちゃん、いじわるぅ、やぁんやぁ……! ラギさんー! ラギさぁん! おにいちゃ……おにいさまがぁ、ソキのこと、いじめるんですよぉ! 指でほっぺぷにぷにってぇ、してくる、ですよぉ!」

 怒って怒って、ねえねえっ、と視線で訴えるも、次期当主の側近であり、花婿であったレロクの傍付きである男は、やわらかな響きの声で青年の名を一度、呼ぶだけでその場に留まった。

 部屋にいるのはそのラギと、男の前に立つ青年と少女、そしてソキとレロクの五人だけだった。ロゼアの姿はない。ほんのすこし前、ロゼアはソキのことを少女に託し、部屋を出て行ってしまったからだ。

 その原因も、おおまかに、ソキの目の前にいるこの兄である。んもおおおおおにいさまはほんとうにもおおおお、とむくれるソキに、ラギの傍らにいる少女が微笑みかけてくれる。

 もうすこしですからお待ちくださいね、と告げる、温かで親しげな笑みだった。

 きゃああメグミカちゃんっ、と数秒前の怒りをぽいっと捨てたごきげんな声で少女に向かって手をふるソキに、レロクはすこしばかりもの言いたげな目を向けてきた。お前はなんで俺にはちゃんと懐かぬのだ、と言わんばかりの視線だった。

 そんなのは決まっている。ロゼアを数ヶ月解雇、未遂、したのが、他ならぬこのレロクだからである。視線をぷいっとばかり無視すれば、傍らからは深々と息が吐き出された。

「ロゼアは、言わぬ。……それは本当にロゼアが、お前に、そう告げたのか? 己を、お前の、傍付きではないのだと」

「言ったぁ……です……?」

 なんだか、そんなに否定されると、ソキにも自信がなくなってくる。確かにロゼアはそう言った気がするのだが。すごくすごくするのだが。

 ソキに明確にそう告げたのはメーシャであって、ロゼアは、ソキの傍付きではない、とは言わなかった気がする。『花嫁』じゃないよ、と言っただけで。

 涙目でそう訴えるソキに、だーかーらー、とレロクは額に指先をそえて息を吐き出した。

「それも、本当にそう言ったのか、と聞いているのだ」

「ほんとに? そう? です?」

「あれが? ……あんなに、傍付きの領域を踏み越えてお前を手折りそうだったロゼアが? お前を花嫁ではないと? ……言う訳なかろうが……! どうせまたお前がひとのはなしをちゃんと聞かないで、勘違いしているか思いこんでいるだけだろうよ。言ったとしても、まあ……『花嫁』だった、あたりが限度だろう。それにしても職業的な区分であって、厳密には『花嫁』『花婿』は職業ではないにせよ……お前は魔術師のたまごだ、ソキ。世界においてはそちらが優先されるし、お前はもう『砂漠の花嫁』として何処へ嫁ぐ必要がないし、ロゼアはそれを送り出すことがない。おおかた、そういう意味での『だった』であろう。そういう意味でロゼアが、お前を、離す理由が……離れられる訳がない」

 あれは『傍付き』だ、と。『学園』なら誰も言わないであろう決定的な、静かな断定の口調で、レロクは言い切った。

「己の『花嫁』の、『花婿』の傍に……なにを捨てても、なにを壊しても、どんなことをしても、別れがくるその瞬間までは、誰よりも傍にい続けたいと、願って、努力して……そして完成するのが『傍付き』だ。俺たちと同じように、あれらもつくられる。教育され、整えられる」

「じゃあ、なんでいま、ロゼアちゃんどこかへ行っちゃったですかぁ……!」

 いまですよ、いま。ソキは今のおはなしをしてるです、とすねすねにすねきった声で呟かれ、レロクはソファに座ったまま、ふんぞりかえって言った。

「俺がロゼアを嫌いだからしっしってしたに決まっているだろうが。お前も見ていたくせに、なにをいまさら」

 なにせソキとロゼアが部屋に辿りついた瞬間に、もういいぞお前は帰れ、と告げたくらいなのである。んもおおおおっ、とソキが同じくソファに座ったまま、じたばたじたばたと暴れ出す。

 ロゼアちゃんどっか行っちゃったですううううっ、と半泣き声が、ふあふあと響かず、空気を震わせた。


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