今はまだ、同じ速度で 10
お昼でも星がみえる、とソキが告げた意味を、ロゼアは天文台に足を踏み入れすぐに理解したことだろう。建物の内部は、一面の黒で統一されていたからである。
柱に等間隔に灯される火の明りがなければ、漆黒の闇の中へ突き落された、とも感じるに違いない。そこへ宿されていたのは夜だった。
穏やかに塗りつぶされ、それでいてそこかしこでひそひそと声をひそめた楽しげな囁きが聞こえてきそうな、わくわくと心弾ませる祝祭の夜。その夜の、漆黒だった。
一瞬、脚をとめて立ち止まったロゼアの腕の中で、ソキはうっとりと目を細めながら息を吐き出す。
「だいじょうぶですよ、ロゼアちゃん」
「うん。……ソキ、ソキ」
本当に、と眼差しで問うてくるロゼアに、ソキは肩に頬を擦りつけるようにして頷いた。ソキは夜が怖い。ごく正確にするのなら、明りの灯されていないくらやみ、というものをとても怖く思っている。
そのことをロゼアがちゃんと忘れていなかったことが嬉しくて、ソキはゆったりと瞬きを繰り返した。それだけで、どうして、泣きそうなくらい胸が満ちてしまうのだろう。しあわせなのに。うれしいのに。
気持ちを落ち着かせる為に、胸一杯に息を吸い込みながら、ソキはここは怖くないんですよ、と囁いた。この天文台に満ちているのは、夜であって闇ではない。ソキを連れ去り、閉じ込め、壊して粉々にしたあの日々の、七日間の、闇ではないのだ。
ロゼアはソキをじっと見つめたのち、駄目そうだったらすぐに帰ろうな、と言い添えて、トン、と靴音を響かせた。ロゼアがソキを抱きながら、足音を立てるのはひどく珍しい。建物に入るよ、という合図も兼ねたのだろう。
周囲にいる観光客と、それを入口から第一の間まで連れて行く案内係の、心地いいざわめきを聞きながら、ソキはゆるゆると視線を持ち上げ、天文台のつくりを瞳にうつす。
棟と棟を繋ぐ廊下は、硝子作りで光を取りこみ眩いくらいであるが、建物それ自体はなめらかな黒が床から壁、天井までをも覆い尽くしていた。時折、ふわり、黒の中に光が灯る。
星明り。眠りに落ちた星の瞬き。囁くように輝き揺れる光点は、まさしく、夜空に広がる星そのもののようだった。
いくつもの棟が群れなすつくりの、その入口から各棟への分かれ道となるのは、廊下を渡った先にあるひとつめの部屋だ。
受付で飴玉ひとつ分程度の、ほんのささやかな料金を支払い、ある程度の人数がまとまった所で案内役の女性がこの部屋へと導くのだ。女性は十数人の観光客の中で、ロゼアとソキに目を止めると、あら、と言わんばかり好意的に笑った。
以前なら分からなかっただろう。けれどもソキには、なぜ女性がそうしたのか分かった。案内役の女性は、魔術師である。受付に座っていた少女も、物珍しげに目を瞬かせて微笑んだだけで、なにも言わなかったけれども。
同朋の訪れを喜ぶ占星術師の、あたたかな歓迎の魔力が、ふわりと空気に滲みでて、輝く。星のひかりのようだった。とてもとても、綺麗な、導きの灯のようだった。
ロゼアとソキと共に、分岐点となる部屋へ立ち入った者たちに向け、案内役の女性が説明を語り出す。
「この天文台はどの建物、どの部屋も夜空を模した黒で統一されており、埋め込まれた石が星のように光ります。この入口の棟と合わせて、皆さまに解放された棟は五つ。流星の夜の王都の空、春、夏、秋、そして冬の星空を見ることができる作りになっております。どうぞ、星のまたたきに耳を傾け、きよらかな時をお過ごしくださいますように」
説明が終わるとひとりにひとつ、火の代わりにほの甘い輝きだけが封じられた灯篭が手渡されて行く。足元に気をつけて、と囁きながら差し出されたそれを、ソキはロゼアにぎゅっと抱きついたまま、ふるふるふると首を横に振って断った。
ソキ、ロゼアちゃんが持ってくれてるので、いいです。それともひとりで立って、歩いた方がいいのだろうか。ロゼアをちらりと見上げると、なに、とばかり微笑みが返される。
なんでもないです、とぴと、とくっつきなおし、ソキはロゼアが受け取った灯篭を見つめた。魔術師であるなら、誰もがすぐに気がつくだろう。それは魔術具だった。火の代わりに封じられているのは、光属性で編まれた灯りだろう。
火のようにゆらゆらと揺れているから、注視しようと、魔力を持たない者にはきっと分からないのだが。ソキも以前、訪れた時には、分からなかった。ような気がする。
んー、と興味深そうに灯篭を注視するロゼアの腕に、絡みつくように両腕を伸ばして。くいくい、とあまえるように引っ張りながら、ソキはおぼろげな記憶に触れ、それを囁いた。
「建物もね、ロゼアちゃん。一緒なんですよ……ぜんぶ、ぜんぶ、魔術具なんです」
「……全部?」
「柱も、壁も、床も、天井も……全部魔術具で作られてるです。床で、星が光るのも、ぜんぶ。光ってるのは、いま生きてる、魔術師の守護星です。魔術師として目覚めると、一緒に、ここのどこかで星が目を覚ますんですよ。それまでね、ずぅっと、眠ってるです……」
だからソキのも、ロゼアちゃんのも、ナリアンくんのも、メーシャくんのも。みんな、どこかで、もう光っているんですよ。やや驚いた視線を向けてくるロゼアに告げながら、ソキは静かに息を吸い込んだ。
かつてこの場所を訪れた記憶はおぼろげで、どう感じたかまでは覚えていない。けれども魔力を感じなどはしなかった筈だ。いまは、違う。群成して建つ各棟から、おびただしい程の魔力を感じていた。
数十人、もしかすれば三桁にすら及ぶであろう魔術師たちの魔力が織り込まれ、そら恐ろしいほど精密に整えられ、ゆったりと建物を巡っている。魔力は、ぜんぶ、占星術師さんのものですよ、とソキはロゼアに向かって囁いた。
かつて案内役が、なぜかソキにだけ、そっと告げて教えてくれた言葉を。あわい思い出の中からひとつひとつ、丹念にひろいあげて、くちびるに乗せた。
「この、けがされぬ星の館に、魔力を灯して占星術師は一人前だって聞いたです。……ロゼアちゃん?」
どうかしたですか、とちょこんと首を傾げるソキとロゼアの周囲に、いつの間にか誰も居なくなっていた。それぞれ、目当てとする棟を見に行ったのだろう。ロゼアはソキになんでもないよ、と告げたあと、珍しく言葉に迷うようすでいや、と口ごもった。
「それは……『学園』で教わったこと?」
「ちがうです。まえに……来た時に、んと、ソキだけ、そぉっと、教えてもらったんですよ」
『学園』で教わるのは、この館がけがされぬ星の館と呼ばれ、占星術師はいつか必ずそこへ招かれる、ということだけだった。
もしかすれば占星術師たちにはもうすこし詳細な説明がなされるのかも知れないが、適性のない魔術師に与えられる知識は、基本的にはそれだけである。ソキも、『学園』で教わった知識はロゼアが持つものといっしょで、もしかすればそれよりすくないくらいだった。
体調不調で座学の欠席が続いたソキは、同年入学の三人と比べて、魔術師の基礎的な知識にすら遅れが出ている。だからこそ、ロゼアはそれが不思議だったのだろうか。
じっと見つめてくる赤褐色の瞳に、ちょっぴりドキドキしながら、ソキはあのね、とやや早口で言った。
「りょこのときにですね、んと、『同行』のひとと、候補のひともいたですけど、ソキだけなんでかね、ちょっとおいでってね、案内のおんなのひとがね、ちょっとだけ離れてね、それでですね、んと、おじいちゃん、みたいなひとがですね、ソキにね、教えてくれたんですよ」
「この館のこと?」
「もっかい来る時までだぁれにもないしょって言われてたです。だからソキ、ないしょないしょで、あんまりちゃんと覚えてないようにしてたです……んん? もっかい、来たですから、ロゼアちゃんにないしょにしてなくて、もうだいじょぶです……?」
ふあんふあんとしたったらずにあまく響くソキの声は聞きとりにくいだろうに、耳元でささやかれながら、ロゼアはすこしくすぐったそうに笑うだけで、聞きかえすことも意味が通じないことも、ないようだった。
ソキは遠い記憶を手繰り寄せ、ようやく長い旅をひとつ終えたような、穏やかに落ち着いた気持ちで、ふぅと息を吐き出した。
「ねえねえ、ロゼアちゃん」
「うん? なに、ソキ」
こてり、と肩に頭を預けて甘えながら、ソキは幸福そうな声で囁いた。
「ソキ、夏の棟に行きたいです」
「うん、いいよ。行こうな」
「ソキね、そこのお星さまがいちばん……いちばん、好きなんですよ。ロゼアちゃんに見てもらいたいお星様がね、あるです」
ふわり、空気が揺れ動く。足音も振動も響くことのない守られきった移動に、ソキはうっとりと目を閉じながら身を任せていた。どんなにか、この幸福を望んだことだろう。ロゼアの腕の中は、ソキのしあわせそのもので満ちている。
二人は灯篭のあかりを頼りにしながら、ゆっくりと、またたく星の、夜の海を渡っていく。それは流星の夜のようだった。歌声で星を下ろしたあの日を、どうしても思い出させた。ソキは頬をロゼアの肩にすりつけ、ゆっくりと瞬きをした。
ひとりで歩かない魔術師を、星はもしかしたら怒るかもしれないけれど。あの日からずっと、ずっと、ソキは頑張っていたのだ。もうすこしだけ。もうちょっとだけ。せめて、砂漠の『お屋敷』につくまでの、この旅の間は。
もうしこしだけ、しあわせを、許してほしい。
やがて、ふたりは夏の夜空が封じ込まれた一室に辿りつく。真冬の風が通り過ぎる外とは、季節が間逆であるからだろう。広々とした空間に、人影はごくわずかだった。
部屋には不規則に一人掛け、あるいは二人掛けの椅子やソファが置かれており、手元を明るく照らす出す器具も用意されていた。ここで本を読んだりすることもできるつくりだ。ロゼアはそのひとつ、ふかふかのソファを選び、そこへ腰を落ち着けた。
ソキはロゼアの腕の中から離れないままで膝立ちになり、んと、んと、と記憶を探りながら夏の夜空に視線を彷徨わせる。あの星はどこで輝いていただろう。あの星。おぼろげな記憶の中でたった一つ、鮮明に輝く、あの。
砂漠に沈む夕日のように、赤く光っていた星は。
「あっ……! あれ! あれです! あのお星さま……!」
「うん? どれ」
「きらきらしてるの、赤いの……!」
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