ささめき、よすがら、そして未来と引き換えに 31

 ひかりを背に、その男は佇んでいた。背の高い痩身の男。リトリアと同じく閉じ込められていた筈だが、弱々しい印象を感じることはやはり、なかった。細身の、研ぎ澄まされた刃そのもののような印象があるからだろう。

 男はその足元に座り込んだ青年と、その腕に抱かれて眠るうつくしい少女をやわらかな眼差しでひと撫でしたのち、ストルに連れられてでてきたリトリアを振り返る。

「やア、リトリアちゃん。おヒサシぶりだネ?」

「シークさん。……お久しぶりです、こんにちは」

 あの鉄柵越しに引きあわされた日と変わらず、歪んでいびつに響く声はすこしばかり聞き取りにくい。不思議と、怖い、とは思わなかった。あんなに怖かった筈なのに。もうなにに怯えていたのかすら思い出せない。

 ストルと手を繋いだまま、ごく自然に微笑むリトリアに、シークはくすくすと肩を震わせて笑う。幸福そうな、満足げな微笑だった。ストルはリトリアの肩に手をまわして守るように歩かせると、シークの前に立っていぶかしげに眉を寄せる。

「彼は……ロゼアは、どうしたんだ? ソキも。魔力がだいぶ……」

 無くなっているように感じるが、とストルの声は咎める響きを持っていて、自然とリトリアの目が青年と、少女に向けられる。ロゼアと、ソキ。その名には聞き覚えがあった。何度か。何度も、ナリアンの口から聞いた名だ。

 ともだちだ、と言っていたような気がする。それとも、ともだちになりたい、だっただろうか。褐色の肌をした青年は、ふわふわとした印象の愛らしい人形めいた少女をかたく抱きしめたまま、廊下に座り込んで眠っているように見えた。

 起すのも忍びない。視線を持ち上げてあたりを見回すリトリアの耳に、ストルとシークの会話が漏れ聞こえてくる。

「ボクのお人形さんタチには一仕事してもらったダケさ。キミが安心してお迎えに行けるようニネ? ダイジョウブ、怪我なんてさせてないヨ。ロゼアクンにも、お人形サンにもネ。ボクがそんなヘマをするとでも?」

「それにしても、魔力が減りすぎだろう。……なにかあったのか?」

「ウウン。お人形サンがネェ……泣いちゃったんだよねぇ……。怖かったんじゃないカナ」

 まじゅつしさんこわいこわいです、ろぜあちゃん、ろぜあちゃんをとるひと、そき、きらい。きらいきらいみんなきらいやあぁああっ。叫ぶ。声が。魔力の形が。あまりに鮮明に、廊下には焼きついていた。

 シークたちの他には誰もいない、高い位置からの光さすばかりの廊下に。乾いた血のにおいは風に流され、一瞬、鼻先を掠めただけで感じ取れなくなってしまった。ぴしゃん、ぴちゃん、とどこかで水の音。

 重たく朝露に濡れた葉が、一滴ずつ、その恵みを湖に返す音。血のにおいがしているのに。死の匂いがしているのに。廊下はどこもかしこも、きれいなままだった。それはまるで幻のように、描かれたもののように。

 記憶をなぞった夢のようにある、静寂とうつくしさ。

 誰かが、リトリアのことを掠れた声で呼んだ。ぐら、と意識が揺れ動く。目に映る世界が、ぐしゃぐしゃに乱れた瞬間だった。

「リトリアちゃん」

「リトリア。……リトリア、リトリア。俺のかわいい、俺の、リトリア」

 苦笑するシークに呼ばれ、視線を向けた瞬間にストルの腕の中に絡め取られる。おなかに回された腕がリトリアのことをぎゅっと抱き寄せて、てのひらが瞼ごと覆うように視界すべてを覆ってしまう。

 耳元で声が囁いた。ストルの、占星術師の、夢に酔わせるに長けた魔術師の、やさしく甘い笑い声。

「なにも見ないで、なにも聞かないでいればいい。……ここには誰もいない。俺たち以外には、誰も。花舞の王宮は、リトリアが知るままの場所だ。記憶の中と同じ。おなじ、だ、リトリア。……俺の言うことが聞けるね?」

「ストルさん……」

「……知ってイタけド、キミはどう考えてモ嫉妬深いよネ?」

 はぁ、と呆れた溜息で天を仰ぐシークに、ストルは穏やかに笑みを深めて囁いた。

「恋人を独占したいと思うのは、男として当然の感情だと思うが?」

「キミたち砂漠出身者のソレは度が過ぎてイルと言ってるんダヨ……」

 なんのことだか分からないな、と心底不思議がって首を傾げるストルから視線を外し、シークが生温い目でソキを抱きしめたまま、座り込んで眠るロゼアへと移動させた。

 己の『花嫁』を守るように、どこへも行かさないと告げるように、その腕は脆い少女を抱き寄せたまま、決して解かれる気配がない。

 シークは無言で頷いたのち、ストルの腕の中でぱちぱちと、眩しげに瞬きを繰り返すリトリアを、ほんの僅か同情的な視線で眺めやった。ふぁ、とあくびをするリトリアの目を覗き込むように腰を屈め、シークがそっと問いかける。

「さてと、お人形ちゃん。ストルだけいればイイかナ?」

「ストルさん、だけ……?」

「キミがホシイのはストルだけでイイノ?」

 その問いに、リトリアは無心にふるふるふる、と首を横に振った。

「ツフィアを。……私、ツフィアを助けに行かなくちゃ。シークさん、ストルさん。私、ツフィアも一緒がいいの。ツフィアも、一緒に、連れて行っていい……?」

 キミが。キミたちだけが。予知魔術師だけが。くらやみで囁かれた言葉がリトリアの中で反響する。この砕かれて残った五ヶ国だけの世界に存在する魔術師たちのうち、予知魔術師だけに、それは可能なこと。

「この世界の外側に。もう誰も、私たちを閉じ込めたりしない……大切なひとと、引き離したりしない。一緒にいたら、駄目だって、誰も言わない、外側の世界に……ツフィアも一緒に、行くの。だから、ツフィアを助けたら、そうしたら私、ちゃんと、シークさんの言う通りに……」

 ちからを、かしてあげる。この世界の外側に行く、その為の力を。だからツフィアを迎えに行くの、と告げるリトリアに、ストルはやや諦めたような息を吐き、抱くその腕に力をこめ。

 シークは分かっていたヨと笑いながら、眠るロゼアを揺り起こし、立ち上がらせた。やや眠たげなロゼアの腕の中で、ソキは目覚める気配もなくまぶたを降ろし、すうすうと寝息を響かせていた。

 ロゼアはソキを起こすつもりがなく、シークもそれでいいと思っているのだろう。ロゼアとシークがなにごとかを小声で会話しているのを聞き流し、ストルはリトリアに問いかける。

「ツフィアの居場所は分かるのか? リトリア」

「うん。……場所、は、分からないけど、でも。こっち、っていうのなら」

 予知魔術師が拒絶しなければ、言葉魔術師がそれを断ち切らなければ。本能的に引かれあうように、その二つは作られている。だから案内、ちゃんと出来ます、と笑いながら、リトリアは廊下を軽やかに歩んで行った。

 国と国を繋ぐ『扉』へ向かって。その背に弱々しく、まるで今にも息だえてしまいそうな風に、誰かがリトリア、と呼んだ気がしたのだけれど。立ち止まって振り返った先に、なにもみえなかったので。

 リトリアは首を傾げてストルと手を繋ぎ直し、踊るような足取りでその場を立ち去って行った。

 倒れ伏す魔術師たちも。廊下一面に広がる血の海も。なにもその瞳に映すことはなく。




 おなかの前で組んだ手に柔らかく抱き寄せられ、リトリアはツフィアに背を預けながらきよらかな声で歌を紡いでいた。

 そのツフィアの隣に座り込んだストルが、己の片翼たる言葉魔術師の女性の無事に安堵と喜び半分、リトリアを取られて明らかに面白くない顔つきでいるものだから、シークはそっと視線を反らし、こみあげてくる笑いをすこしだけ堪えた。

 焚き火の熱と光がゆらゆらと、それを囲む魔術師たちに投げかけられている。街道から外れた森の中はしんと静まり返っていて、虫の鳴き声と木のはぜる音の他には、他にはリトリアの歌しか耳に触れるものはない。

 歌声は気まぐれにふつりと途切れ、あまくとろけきった名を紡ぐ囁きを挟んで、また柔らかく編みあげられている。透明に澄みきった祝福が空気には満ちていた。

 その祝福がくらやみの恐怖と押しつぶされそうな不安を遠ざけ、逃げる者を追う瞳を曇らせている。

「ツフィア、ツフィア。ねえ、本当に痛いところはない? 気持ち悪かったり、怪我は、していない?」

「ええ。本当に大丈夫よ、リトリア。……リトリア」

「うん。なぁに? ツフィア。なに? なぁに……?」

 背中をくっつけて、体を預けきって、この上なく甘えた様子でリトリアが目をとろけさせて笑う。ぎゅぅ、とリトリアを抱きしめる腕に力をこめ、満たされた息を吐き出し、ツフィアはなんでもないわ、と囁いていた。

 なんでもないわ。ただ。あなたが無事で、本当によかった。リトリアは泣きそうに目をうるませ、後ろ頭を擦りつけるようにしてツフィアに甘えた。その腕の中にいられることこそ夢のようだと。

 幸福にほんのりと赤く染まる頬が物語っている。あまりに幸せそうな様子に、当面の奪還を諦めたのだろう。腕の中を寂しそうにさせながら、ストルがすいと視線を持ち上げ、シークをみた。

 ぼんやりと佇むようすで立っている男の、その足元でまるくなって眠る少年と少女。ロゼアとソキを心配そうに一瞥して、問う。

「座らないのか? シーク」

「……うまく座れそうにナイんだヨ」

「どういう……?」

 ことだ、と訝しげに首を傾げるストルに苦笑して、シークは無言で己のローブの端を指差した。その方向を辿って、ストルは思わず微笑した。ソキのてのひらが、きゅむっ、とばかりシークのローブの端を握りこんでいる。

 肩を震わせながら、ストルはよかったじゃないか、と囁いた。

「懐かれて」

「……たまたま手に触ったから握っちゃっただけダヨ。赤ん坊の反射と一緒サ。ソキちゃんがボクに懐くだなんてコトは、ありえないよ……」

「そう確信するだけの理由が?」

 ある。そう告げるようにシークは笑みを深め、ストルはそれに肩をすくめて答えにした。

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