ささめき、よすがら、そして未来と引き換えに 30

 行くのか、とそのひとは言った。はい、とだけロゼアは答えた。怯えてロゼアにぴたりと体をくっつけ、震えるばかりのソキに、そのひとは溜息をついてなにかを言ったのだけれど。それを音として聞き流したソキに、言葉が届くことはなかった。

 ただ慰めるようにソキの髪を撫でるロゼアの手が温かくて、気持ち良かったことだけを覚えている。そのひとはロゼアの邪魔をしなかった。ソキに、怒りもしなかった。

 背を預けていた扉から体を離し、それを、外へ向かって開けてくれた。ロゼアはゆっくりと歩く。ソキの体に、すこしの振動も与えないように。ゆっくり、ゆっくり歩いて、扉の前で一度だけ立ち止まった。

 ロゼアはそのひとを見る。ソキもこわごわ、そのひとのことを、見た。

「……寮長」

 ロゼアが、そのひとに呼びかけるのを聞いて、ソキはぱちぱちと目を瞬かせた。それは何度か聞いた覚えのある響きだ。ロゼアはすこしだけ目を伏せ、はにかみながら囁いた。

「寮長、すみません。ありがとうございました。……どうか、お元気で」

「感謝はしなくて良い。お前たちが行ったらすぐ……五王に、逃亡の連絡をするのも、俺なんだから」

「寮長が……ガレンさんや、メーシャ。ユーニャ先輩たちが……咎められないといいと、思っています」

 なにも知らない。俺ひとりでしたことです。呟くロゼアに静かに頷き、その男の瞳が怯えるソキを見た。まじゅつしだ。こわい、と怯えられるのに苦笑しながら、シルは手に持っていた白いレースのショールを、ソキの頭にかけてくれた。

 ぱちぱち、目を瞬かせるソキから一歩離れ、シルは満足げに目を細めて笑う。

「持って行け。俺の女神からの祝いだ。……お前たちに」

「ロリエス先生、が……?」

「風の祝福を帯びた糸で編んだものだと聞いた。……本当は、ナリアンの卒業祝いに。ニーアの服にでも仕立てるつもりだったらしいんだが」

 代わりで悪いな、と告げるシルに、ロゼアはいいえ、と言って首をふった。それ以外、どうしても、声が出ない様子だった。ソキはきゃぁっとはしゃいでショールの端を手で握り、花嫁さんみたいです、と言って笑った。

 うん、とロゼアは頷いてソキを抱きしめ直す。さあ、とシルが促した。

「行け、ロゼア。……ソキ」

 うゅ、と不安げな声をあげながら視線だけを向けたソキに、シルは苦く笑って囁いた。

「自由であれ。魔術師でありながら、魔術師にもなれず、ただこの場所にいたお前だけは……なににも囚われず、ただ朽ちて行く花のようであっても、咲いていた、お前だけは……」

 自由であれ。幸福であれ。最後の時まで。どうか。痛みを堪えるように、告げられた言葉は祝福のようで。はきとしてソキに届き、響いて、消えて行った。分からないまでも頷いたソキを抱き、ロゼアはゆっくりと歩き出す。

 寮を背に、『学園』を囲む森の中へ。瑞々しい空気と、肌を撫でて行く風。緑と土と花と、水のにおい。ソキはロゼアの腕の中で、脚をふらふらと動かして笑った。

「ロゼアちゃん、ロゼアちゃん!」

「うん? なに、ソキ」

「砂漠とは全然違うです。森、ですよ! ……あ、おはな! おはな、咲いてるです。おはな!」

 あれは梔子くちなしと。告げるように風がふわりと、ソキの頬に触れて、何処へ吹き消えて行く。一度だけ立ち止まって、ロゼアが不思議そうに、ほんの僅か泣きそうに、震える声でナリアン、と名前を呼んだのだけれど。応える声はなく。

 風がただ、吹いていた。背を押すように。それでいて、脚を絡めてその場に立ち止まらせるように。姿なく、かたちなく。風が吹いていた。




 聞き覚えのある、懐かしい音で扉が叩かれたような気がして、リトリアは身を伏せていた寝台から体を起した。あたりはどこかうすぼんやりとしてほのあまく明るく、夜明け前なのか、それとも陽が沈んでしまう前なのか、よく分からない。

「ナリアンさん……?」

 思わず立ちあがって、目をこすりながら、リトリアは首を傾げて息を吸い込んだ。もう一度、呼ぶ。

「……ナリアンさん、でしょう? ……わたし、に」

 会いに来てくれたんでしょう、と掠れた声で問うよりはやく、ふわり、と風が吹いた。すこしだけ悪戯っぽく、笑うような響きで。いつかの記憶と同じ声が囁く。

『君を連れて行くよ。……この『棺』の外へ』

「ナリアンさん、どこ……? 扉の向こうに、いるの? ナリアンさん……? ね、どこ……!」

『俺が、じゃないけど。ほら、リトリアちゃん』

 おむかえ、きたよ。ぎゅ、と抱きしめられるような感覚が一瞬だけして。火が吹き消されるように、なにかがそこから消えてしまったのが、リトリアには分かった。ナリアンさん、と呼ぶ声に返事はない。

 かなしくて。うるっと目に涙を浮かべ、うつむいた時だった。足音がした。彼方から、ここへ向かってくる足音。なに、と思う間もなく、扉が開かれる。そこへ立っていたひとに。

 リトリアは声もなく両腕を伸ばし、泣きながら抱きついた。

「ストルさん……」

 ほの甘く、血の匂いがする腕で。くらやみに囚われた者の瞳で。ストルは幸福そうにリトリアを抱き、その名を何度も囁き呼んだ。その存在を確かめるように。もう二度と離さない、と告げるように。




 さあおいでと差し出された手に運命を委ねることに、なんのためらいも戸惑いもなかった。そこにあるのは触れ合えるという幸福だけで、この『棺』から出てはいけないという決まりごとすら、覚えていても立ち止まる理由にはならなかった。

 体が軽い。呼吸がとても楽だった。思考を鈍くしていた魔法使いの魔力の糸はいつの間にか切れていて、体中を巡る血のようにまとわりついていた水の封印も溶けてなくなってしまっていた。

 ストルからは血のにおいがした。夥しい血のにおい。怪我をしているの、と一度だけ問いかけたリトリアに、ストルはくすりと目を細めて笑った。俺はしていないよ、と告げられたのが答え。そう、とリトリアは頷いた。

 それなら、いいの。ストルさんが痛いのでなければ、いいの。くらやみの中で響いた声を思い出す。ストルに必ず会わせてあげる、だからキミの力を。乞う声に応えて、リトリアの中から魔力が消えた。

 封じられていた筈の、動かせない筈のそれがごそりと音を立てて消え去ったのはいくらか前のこと。それがなにに使われたのか、リトリアは結局知らないままだった。けれど、ストルは怪我をしていない、という。

 泣きそうな気持ちで、リトリアは繋がれ、引かれて行く手を己の額まで引き寄せた。誓いのように、祈りのように、目を伏せて囁く。私の魔力はあなたを確かに守り切りましたか。

 ストルは笑ってリトリアの頬を撫で、そのくちびるにそっと口付けをくれた。それが答えだ。こびりついた血のにおいが消えないで漂う。ストルさん。手を引かれて歩きながらリトリアが囁く。

 後悔、していませんか。していないよ。穏やかな声でストルは囁いた。していない。どうして。花散らす雨のような声が囁く。

 どうして。こんな風になってしまったんだろう。『棺』から逃れるまっすぐな道を手を引かれて歩きながら、リトリアは立ち止まれずに考える。ストルにはたくさんの友人がいた筈だ。

 男性も女性も、年上も年下も。うつくしい顔をした、リトリアの保護者めいたふるまいをやめない、それでいて己のものだと執着してやまないこの男のことを、それでも誰もが慕っていた。

 周囲の女性たちは呆れながらも見離すことはなく、男たちは苦笑いをしながらはやし立てていた。それをリトリアは知っている。ストルは決して、ひとりではなかった。

 それをどうしてもうまく繋げられず、手紙というか細い手段に頼るしかできなかったリトリアと違って。いくつかの事情を持ち、さびしく思いながらも自らそれを遠ざけたツフィアと違って。ストルは繋がっていた。

 けれどもすべて断ち切ってしまった。そうでなければストルが、ここで、リトリアの手を引ける筈がない。

 外へ出る、『棺』から逃れる階段の、最後の一段に足をのせながらストルが囁く。リトリアの悲しみをすべて理解しているような声で。それでも、俺は、どうしても。

「君を諦めることが、できなかったんだ。……リトリア」

 なにを失っても、なにを手放しても。どうしても君を奪われたままでは生きて行けず。取り戻したかった。微笑んでストルはリトリアを振りむき、片腕をゆるく広げながら、己の恋へ囁いた。

「さあ、おいで、リトリア。……おかえり」

 最後の一段に足をかけ、リトリアはストルの胸元でただいまと囁く。なにを失わせても、なにも手放してここへいたとしても。そのぬくもりが、声が、うれしかった。眩しい光に目を細めながら、リトリアは笑う。

 くらやみのなかはひとりで、ずっとずっとさびしかったけれど。もう、ひとりじゃない。ストルさん、と呼ぶとリトリア、とすぐ声がかえってくる。しあわせだった。

 そのしあわせが永遠にならないと、もう分かっていたけど。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る