ささめき、よすがら、そして未来と引き換えに 22


 リトリアはそこにいた。木の影で大人しく本を読んでいた幼子が、王たちに愛称を呼ばれ、ぱぁっと顔を輝かせ駆け寄っていく様を、中庭にいる誰もが見つめていただろう。

 薄紫の姫君は花舞の女王をおねえさま、と呼び。楽音の国王をおにいさま、と呼んだ。誰かがエノーラの傍で囁く。あれは行方をくらませた先王方の血を継ぐ姫君であると聞く。

 花舞の姫君と、楽音の若君の。あの手に手をとって何処へと姿を消したあのお二方の。そんな方がなぜ白雪に。聞くところによると嵐の夜、彼の姫君と若君が城を訪れ、そのまま我が子を託されて行ったのだと聞くけれど。

 花舞も、楽音も、幼い姫君が身を置くにはまだなにかと落ち着いていない。その間は我が白雪や、星降、砂漠に身を寄せているのだと聞く。

 さわさわさわ。花を震わせる淡い風のように、囁く声はきっと届いていたのだろう。楽音の国王は幼子の手を引き、膝をついて座り込みながら、きれいに響く声でリィ、と呼んだ。

 リィ、おうちに、かえりましょうか。幼子は目をうるませ、うん、と頷いて王たる青年に抱きついた。それは優しい光景だった。なんの曇りもない幸福であるとは、思えなかったけれど。

 どうしてそれを忘れていたのだろう。思い切り殴られたように痛む頭に手をそえ、よろりと立ち上がるエノーラに、白雪の女王は溜息をついて告げた。

『王族は……たった一人の相手、というのがいるのよ、エノーラ。私は、それを……剣、と呼ぶの。私の剣。わたしの……『傷つけぬ剣』と』

 その言葉に。魔術師が感じ取ったのは、怖気立つほどの祝福だった。魔力とは違う。魔術的な祈りの込められた祝福、ではない。王族だけにね、と白雪の女王は静かに微笑む。

『許された……残された、かな。言葉なのよ、エノーラ。私に扱えるのはこのひとつきり。各国の血にひとつ、それはあって、各々で言葉は違うものなのだけれど……その、言葉を捧げられる相手、というのがね、いるの。必ずいるの。この世界のどこかに、いて、巡り合った瞬間に私たちにはそれが分かる。このひとだ、と思うの。心が……魂が確信する。このひとが、私の唯一。たったひとり。『傷つけぬ剣』なのだと』

 一番分かりやすく言うと運命の恋の相手かな。同性であることも珍しくはないけれど、と笑い、白雪の女王は囁く。それはこの砕かれた世界に残された王家に対する、世界からの愛で呪いで祝福で守護。

 そのひとを見つけられることが。そのひとを得られることが。

『……リィにはそれがふたり、いたの』

『ストルと……ツフィア……?』

『忘れてると……思ってた。忘れてるから、きっと、そんなんじゃないって……お父さんと、お母さんみたいって、言ってるって聞いてたから。あの二人の、代わりに……両親、みたいに。愛して。愛して欲しがってて、愛してもらって、そういうのだけだと思って……期待してた、のに』

 魔力を封じられ五王の前に連れ出されて、リトリアは半狂乱で叫んだのだという。かえして。ストルさんとツフィアをかえして自由にしてなにもしないでさわらないでおねがいやめてやめてやめてかえしてっ。

 あのひとはわたしの『透明な水』、あのひとはわたしの『輝ける歌』。わたしの、たましい、しゅくふく、なにもかも、すべて。だからおねがいやめて。じゆうにして。

『……ストルの軟禁は、監視に切り替えることくらいなら出来た。でも、ツフィアは……ツフィアが、せめて……言葉魔術師でさえ、なければ。あのこの願いは叶えられた! 自由だってあげられた! なのに、なんで……っ! なんで言葉魔術師なの……なんで、リィが、予知魔術師だったの……!』

 どちらも。自由にしてしまうにはあまりに危険で。そして、たくさんの事件が、起き過ぎていた。祈るように両手を組み合わせて握り、白雪の女王はエノーラに告げる。

 ツフィアを、言葉魔術師を自由にすることはできない。どうしても、どうしても。なぜならあれは言葉魔術師。砂漠の『花嫁』を穢し惑わし、そして予知魔術師をも言葉巧みに操って私たちに刃を向けさせた魔術師と、同一の適性を持っているから。

 そして、予知魔術師も。その力が不安定だからこそ自由を与えること叶わず、危険であるからこそ、安定させ完成させてしまうことも許してはあげられない。どうしても。どうしても。

 完成してしまえばあの子は、今度こそ、どんな手段を使っても彼と彼女を取り戻そうとするでしょう。

『……だから、リトリアを……『棺』から出すことはできない。できないのよ、エノーラ』

『リトリアちゃんが……この世界に』

 あなたたちに。

『害を成すから、と……お考えだからですか、陛下』

 白雪の女王はそれに微笑むばかりで、答えを告げなかった。けれども、出さない、とはそういうことだ。エノーラはくちびるに力を込めて、泣きだしそうな気持ちで息を吸い込む。

 それを説明しきる言葉を持たないことが、なによりも歯がゆく、悔しかった。五王は確かにリトリアの幼少を知り、エノーラの知らない時間と記憶を共有している。だからこその判断であるのだろう。

 それでも、エノーラは違うと言い張りたかった。泣き叫んで説得し続けたかった。あれは反抗の意思ではない。傷つけてしまったかもしれないけれど、あれは。あの瞬間の魔力は。世界に解き放たれた魔力の色彩は、ただただ、悲鳴。それだけで。

 あいたいよ、と泣き叫ぶ。その声ひとつきりだった。




 『棺』が具体的に花舞の城のどこに位置しているのか、何度訪れてもエノーラは知ることができなかった。ぐるぐると円を成す階段は下へ降りているようであり、上にあがっているような感覚を与える。

 組まれた石の作りや形、色合い。恐らくは魔術的な仕掛けも施されているに違いない。それも天才と呼ばれた錬金術師、複数名の作。

 それは歩む魔術師の感覚そのものを狂わせて、いくら慎重に歩めど、どこをどう進んで行ったのかを把握させはしないのだった。エノーラは感覚が狂ったが故の吐き気にくちびるを震わせて、弱々しく溜息をついた。

 視線の先、もう数歩階段に足を乗せれば辿りつける距離に、粗末な作りの扉がある。空間に無理矢理ねじ込んだような。古ぼけた木の、扉。

 深呼吸して、意識を集中して、エノーラはその扉に歩み寄り、一息に押し開いた。トン、と靴音がその先の空間に響きわたる。静まり返った冷えた空気に呼吸を楽にしながら、エノーラは舌打ちをしたい気分で閉じた扉を振り仰いだ。

 やはり、何度来ても分からない。このいびつな扉がただの、本当にただ普通の扉なのか。それとも魔術師の使う、空間と空間をねじまげ繋いでしまう『扉』なのか。魔力は感じ取れなかった。

 けれども散々に狂わされてきた後のことであり、広がる空間があまりにも、通ってきた狭い円階段とは印象を異ならせるものであるから。ここが本当に花舞の王城の中であるかどうか、エノーラはいつまで経っても確信を持つことができないのだった。

 五ヶ国の外。この世界の外。たとえば『学園』から繋がっている魔術師の武器庫のように。この世界の外に存在する無数の、砕けた欠片のひとつではないと、どうして断言できるだろう。

 そこはあまりに穏やかだった。半地下の、天井ぎりぎりに灯りとりを兼ねてはめ込んである硝子窓からは、乾いた土と毛足の短い草、細い細い線のように見える青空を確認することができる。

 天井はひどく高い。両端は乳白色に染め抜かれた壁がそびえ、ひとりで歩くにはゆったりとした幅をエノーラは歩いて行く。行き会い、すれ違うようには、元々つくられていないと分かる幅だった。

 まるで王墓のようであると思い、自嘲にエノーラは口元を歪める。よう、ではなく。そのものだ。

 ここは『棺』と呼ばれている空間。その奥に封じ込められているのは、まさしく。姫君、なのだから。

「……エノーラ?」

 ふ、と空間の先から名を呼ばれ、エノーラは深く沈めていた思考と意識を表層へ戻し、幾度か瞬きをして息を吸い込んだ。どう表情をつくればいいのか分からなくて、結局、ぎこちない笑みになる。

「レディ。こんにちは。……あなたは」

 なにを、と問いを向けかけ、エノーラは馬鹿みたいと思いながら言葉を打ち切った。廊下の行きつく先に立っている火の魔法使いが、『棺』でなにをしているのかなんて、分かりきっている。

 監視と、食事の運搬だ。レディは苦笑して空の編み籠を腕にひっかけ、エノーラの元へ歩み寄ってくる。籠からはまだほのかに、焼きたてのパンの香りがした。

「そっか。もう……今日だったわよね」

 エノーラが問わなかったように、レディも、錬金術師に訪れた用件を尋ねることをしなかった。五王から命じられたレディの役割は、リトリアの監視と食事の運搬。そして最有事の歯止め役。

 エノーラに与えられたのは、定期的なリトリアの魔力封じ。それは三ヶ月のサイクルで行われる。肌に魔術式を書き入れ、その魔力が少女の体の外側へ、決して解き放たれないように封じ込めるのだ。

 それは魔法使い二人にも可能なことではあるのだけれど。力技でぎゅうぎゅうに押さえ付けるか、方向性を惑わして外へ漏れて行かないように調整を重ねるか、というだけの違いであって。

 結局、やっていることは同じなのだけれど。リトリアの身体に負荷をかけすぎないのは、後者なのである。

 そしてそれは、エノーラにしかできない。水属性の錬金術師。それもとびきりの、災厄めいた天才とまで囁かれた者であるからこそ。それが、可能なのだ。けれども属性が火や、風であるなら出来なかっただろう。

 火は花を弱らせ、風は葉を散らしてしまう。土では逆に芽吹いてしまった。エノーラの属性が水だからこそ、それは溶け込み、めぐる血のように魔力を内側に留まらせる。

 レディはなんの気負いなくエノーラに歩み寄り、狭い廊下で苦労していき違いながら、その耳元でそっと囁いた。

「いつもの通り、いい子にしてたわ。……魔力の乱れも、無理に……魔術を発動させようとした形跡も、私からは見られなかった」

「そう。……分かったわ」

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