ささめき、よすがら、そして未来と引き換えに 21

 トン、と靴底を奏でて、エノーラは『扉』の向こうへ降り立った。ぱたん、と『扉』が閉じられると、膨大な魔力がくるりと円を描いて鎖されたのを感じ取る。

 国と国、国境、あるいは『学園』を繋ぐ『扉』は、エノーラにしてみれば微細な筆で描いた幾億もの線とも思えるものだった。

 世界に存在するありとあらゆる色を、糸のように捩り合わせ、布のように織り上げて、空間と空間と繋ぐというでたらめな術を可能にしている。

 『扉』の形をしていることと、繋ぐ、という性質上、錬金術師ではない魔術師たちは、それを『道』とも受け止めているそうなのだが。エノーラはそれをひどくうつくしい手毬や、紡ぎ糸や、毛糸玉の形で思い描くのだ。

 閉ざされればそれは、円を成す。ほつれた糸を隠してしまうようにして。

 目の奥をちかちか瞬かせる魔力の名残が完全に落ち着くまで『扉』を見つめ、エノーラは未練のない態度で身をひるがえし、花舞の王宮を歩きだした。開け放たれた窓から吹き込む初夏の風に、前髪が乱れるのを神経質に耳にかけ直す。

 行く、という連絡はしてあるし、エノーラがこの日この時間に『扉』を使うのは五王の命令によるところだ。花舞の王も、王宮魔術師たちも当然知っている筈なのだが、出迎えの者はなく、白亜の廊下はしんと静まり返ってまっすぐに続いていた。

 遠くで陽気な笑い声が響く。花舞の王宮魔術師たちは明るく、軽やかで、誰もかれもが花咲かすひかりのようだった。大丈夫だよ、と笑いかけ。世界に対する祝福の在り処を、指差し囁き告げるような、魔術師たち。

 とりあえず落ち着きという単語の意味を辞書に記載するところからはじめてみようか、だとか。

 ツッコミが不在すぎてボケという概念がいっそのことよく分からなくなってきたというかボケってなんだっけ花舞魔術師組のなにを示す言葉で単語であるのだっけ、だとか。

 精神的に元気がなくなったらそうだ花舞に行こう、というか花舞魔術師を呼んできて部屋の隅においとこう一時間くらい。一時間でいい。一時間以上はいらないうるさいから、だとか。言われようとも。散々勝手に言われようとも。

 花舞に集められた魔術師たちは、その魂の性質が祝福を帯びている者たちばかりなのだ。まっすぐに、ひかりに背を伸ばして、晴れやかに笑う。しあわせに、全力をつくす。そういう者たちが、花舞の魔術師を、名乗る。

 白雪には苛烈な者が多い。その魂と引き換えにしてまで譲れないもの、守りたいもの、大切にしたいものを持つ者が白雪の国に引き取られる。それぞれの魔術師としての適性や、属性。魔力量、攻撃性なども重視される。

 各国に偏りが出すぎないよう、天秤が崩れてしまわないよう、それはごく繊細に調節されるのだが。最後に所属する国を決めるのは、その魂の性質によるところが大きい。

 エノーラは、だから、白雪の国へ戻ることを認められた。そうでなくとも、恐らく、花舞ではなかっただろう。この国はすこしばかり、エノーラには眩すぎる。憧れに目を細めるように。まっすぐに立つには明るすぎるのだ。

 リトリアが、もし。王宮魔術師として微笑むような未来があれば、白雪の国であったのだろうか。ふと頭をよぎった可能性を振り払い、エノーラは深い溜息をついてガツン、と苛立った足音を響かせた。

 その思考を止めようと思うのに、ぐるぐると感情が渦巻いてうまく停止させられない。砂漠は白雪と同じく苛烈な者が多く、ただし花舞とは真逆の性質すら帯びる。それを奪われれば己の魂すら穢してしまうような、呪いにすら転じる者は砂漠に集められる。

 王宮魔術師とは、魔力の安定と知識を得て『学園』を卒業した者たちに与えられる新たな檻だ。それぞれの、国のかたちをした枷を。一番しっくりはめられるのは。適切に閉じ込められるのは、どこか。それによって選ばれて、魔術師たちはそれを名乗る。

 砂漠では、ないだろう。打ち切った筈の思考が頭の隅に引っかかって、エノーラは眉を寄せて舌打ちをした。立ち止まって額に手を押しつけ、深呼吸をするも、勝手に話しだすような言葉が止まってくれることはなかった。

 リトリアは普通に『学園』を卒業したとしても、砂漠にやられることはなかった筈だ。それがもし、シークの一件がなかったにせよ。奪われたからとて、世界を呪うような性質ではない。

 五王はもしかしたら、それに眉を寄せてそうかしらと呟くかも知れないのだが。うっすらと目を開き、深呼吸をしてエノーラは笑った。数年前。リトリアの幽閉が決められてしまうあの日の事件が疑いを持たせるのだろうけれど。

 あれは呪いではない。あれは、ただ、悲鳴だった。

 思い出す。集められた一室でひたすら祈るように仲間たちの帰りを待っていた時間。背をはいずり臓腑を撫であげるような不快感が、不安が、どうしても消えなかった。

 分かっていたのかもしれない。だって誰もリトリアに告げなかったのだ。ストルの拘束を、ツフィアの幽閉を。あのふたりにどんなにかリトリアが心を預けていたか、その場にいる誰もが、見知っていたというのに。

 たとえば、苦手な相手とこれから会いに行くのだから、そんな風に心惑わしてしまう情報を与えるべきではない、とか。そんな風に告白をごまかして、先延ばしにして。

 その結果が足元から天空へたちのぼり、魔力というそれを震わせて消えて行った悲鳴だ。あれは悲鳴だった。呪いとか、そういうものではなく。

 怒りや、悲しみですらない。さけびごえ。無残に手折られ、踏みにじられる一輪の花の断末魔。それは反逆ではない。ちがうのに。それを幾度も訴えてなお、五王は、エノーラの女王は、リトリアの自由という求めを退け続けた。

 いまも。ここへ来る前に願って、切り捨てられた言葉を、エノーラは鮮やかに耳奥で蘇らせることができる。白雪の女王は、己の愛す魔術師にこう告げた。リトリア、ちゃんは。

 その名をひどく呼び慣れないのだと告げるように、ほんの僅か、眉を寄せて。その呼び慣れなさだけに眉を寄せて、その存在を厭う感情など、どこに抱くこともなく。

『あの場所から……『棺』から出すことはできないわ、エノーラ。聞きわけて』

『どうしてですか、陛下!』

『魔力が、全然制御、できていないって、聞くし……』

 それは真実の一端。けれども、それだけが理由、という訳ではない。制御ができていないのなら、『学園』に戻せばいい。それだけの話だ。リトリアは元より、卒業もできない未熟な魔術師のたまごだった。

 年齢的な幼さだけではなく、魔術師としての成熟が足りないことなど、誰もが知って分かっていた。ならば『学園』に。彼女をどうか、魔術師のたまごたちの檻の中へ。

 あの場所へ、せめて、戻してあげてください。お願いします陛下、お願い、と必死に頼みこむエノーラに、白雪の女王はすいと視線を反らし、地に伏せてくちびるを震わせた。

『ツフィアを……ツフィアの幽閉をとくことができないなら、同じことになるだけだもの』

 魔術師として。完成させてしまう危険は犯せない、と白雪の女王は告げた。

『あの子は必ず取り戻そうとする。ツフィアのことも、ストルのことも。私には、わかるもの……ううん、みんな、みんなわかってる。ツフィアにしたことも、ストルにしたことも、あの子は……許す、許さないとかじゃ、なくて。もうそういうんじゃなくて……取り戻そうとする。だって不当なことだもの。分かってる。あの子の傍からあの二人を取りあげるべきじゃなかった。そんなこと、絶対にしちゃいけないって……私たち、みんな、分かってて、でも……。……やっぱり、許すんじゃ、なかった』

 言葉に迷って。考えながら。苛々と、苦しげに、それでいて悲しげに、エノーラに理解させようともせず、白雪の女王は囁き告げた。

『あの子を『学園』に行かすんじゃなかった。許してしまうのではなかった。……ずっと、あのまま、私たちの傍で……』

『……陛下?』

『あの子は魔術師だった。そんなの誰もが分かってた。でも、六年! 六年はここにいたじゃない! 私たちの傍に順番に、来て、それで……なんの問題も起きなかった。リィはいい子だったもの。かわいかった。リィのご両親は確かにあのこを愛さなかったけど、でも、私たちは……何回も、悔いたくらい、あの子が、好きだった。どうして生まれた時すぐ、会いに行った時すぐ、あの二人から取りあげてしまわなかったんだろう。あの二人が、あんな、国を捨てて……恋に走って逃げたようなものたちが、どうして、リィを、愛してくれるだなんて私たちは……どうして……あんなに壊されて、しまうまで……守ってあげられなかったんだろう……ぜんぶ、忘れるしかないじゃない。忘れさせるしか! フィーが、忘れさせてくれて……よかったって、思うしか、なかったじゃない……!』

 血を吐くような告白を、エノーラはうまく理解できないままに叩きつけられる。ぐらぐらと意識が揺れた。陛下がなにを言っているのか分からない。分からないのに、不安が、目の前を黒く塗りつぶす。

 フィオーレは時々、リトリアのことを、リィ、と呼んだ。白雪の女王も、リトリア、ではなく。リィ、という響きを慣れ親しんだものとしてくちびるに乗せていた。

 この世界で。正式な名をそのまま呼ばず、愛称を呼びあう習慣があるのはごく一部だ。それは神聖なものであるから、特に魔術師の耳に触れさせ、呼ぶことをさせてはいけないのだという。

 そうすればそれは契約にもなる。妖精の真名と同じ、明かしてはいけない大切なもの。

 この、五つの国に砕かれた世界の、王族だけが。名を持ちながら、正式な形ではそれを口にしない。眩暈を感じてエノーラはうずくまった。ああ、と息を吐く。そうだ。リトリアは。

 あのちいさな、薄紫の、おんなのこ。あのおひめさまを、エノーラは。『学園』に魔術師として召喚される前に、遠目に見たことが、あった。

 それは春の日であったように思う。雨上がりの瑞々しく麗しい光の中を、五王が肩を並べて歩いていた。それは白雪の国だった。なにか会議があった折りのことであったのかも知れない。

 詳しくは知らないが、未だ年若い少年少女の施政者たちを、エノーラは憧れと感嘆を持って遠目に見つめていた。彼らが散策していた庭は、一般にも開放されている場所であったので。

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