ささめき、よすがら、そして未来と引き換えに 16

 面会に客が来てるぞ、とリトリアが寮長に告げられたのは、八月末のことだった。談話室の片隅でお手製のパウンドケーキを食べ、ココアを飲んでほわっと落ち着いていた時のことである。

 今日のリトリアの授業はもう終わりで、あとは夕食まで図書館で本でも読んでいようかなと考えていた最中のことだった。

 ストルは今日の午後は実技授業で埋まっていて会えないし、ツフィアは授業こそないものの、だいたい図書館でひっそりと本を読んで過ごしている。

 その周囲にひとはなく、ツフィアがそれでいいのよと言い切りながらもどこか寂しげであるのを知っていたので、リトリアはなるべく邪魔をしないように、だめと言われるまでは傍にいたいのだ。

 これまで避けられることはあっても、傍に来ないでだとか、だめだとかいう拒絶はされたことがないもので。避けられたり逃げられたりすることも最近ではなくなっている。

 ツフィアは今日もひとりで勉強しているのかしらと思いながら、リトリアはちっとも心当たりのない様子で目を瞬かせ、ことりと首を傾げてくちびるを開いた。

 おきゃくさま、とたどたどしく繰り返すリトリアに、シルは苦笑いをしながらそう言っているだろう、と頷きをみせる。

「面会室にいるから行って来いよ。別棟の二階の、一番奥の部屋な。茶と菓子は置いてきた。リトリアの分もあるから持って行かなくて良い」

「……べっとう?」

 また、幼い響きで繰り返したリトリアに、シルはどこか根気強さを感じさせる仕草で、ゆっくりと頷いてくれた。魔術師の卵に会いに来る者など、限られている。王宮魔術師か、あるいは五ヶ国の王か。

 王は半年に一度、視察を兼ねてこの学園内を歩きまわる。護衛に王宮魔術師を連れてくるのがだいたいで、ひとりで忍んで来る者はあまりいない。ことになっている。

 明確な決まりこそないものの、王がひとりでこの『中間区』に立ち入ることは歓迎されていないかあらだ。シルは、誰が、とは言わなかった。だ

 からこそもしや、五王の誰かなのかと思い悩み、着替えた方がいいかしらと己の服装を見下ろすリトリアの本日の衣装は、ひらひらふわふわした印象のパスリーブのシャツと、やや長めのスカートだ。

 スカートは無地のシンプルなつくりながらもふんわりと広がり、座っていても膝が見えないくらいの丈がある。腰で交差しながらきゅぅと結ばれた幅広のリボンが可愛らしい。

 裾にはたっぷりとフリルが取り付けられ、夏にしては布地がやや重く、リトリアがあっちへこっちへ走って飛んでを慌ただしくしてもひらひらとなびかないようになっている。

 ツフィアか、と思いながら寮長はいやいいんじゃねぇのと首を傾げ、不安がるリトリアにそっと耳打ちしてくれた。

「五王じゃねぇよ。王宮魔術師。……砂漠の」

「フィオーレさん?」

 もしかして先日、ストルさんと頑張って踊ることにしたのでフィオーレは今年はだいじょうぶよ、と書いた手紙についてのことだろうか。

 ストルとツフィアが目立っているだけで、実際の所はフィオーレも、すこしばかりリトリアに対して保護者めいている。怒られるのかなぁと溜息をつきながら立ち上がったリトリアに、シルはいいや、と首を振って囁いた。

「違う。行けば分かる。……まあ、あんま駄目そうだったらこれで俺呼んでいいから、ちょっとは話してやれ。な?」

 王宮魔術師とは、全員が学園の卒業生である。特に生徒たちの生活棟に来てはいけないという決まりもないから、誰かに用事があればそのまま普通に寮の寮の部屋に直行するのすら普通のことだった。

 だからこそわざわざ面会の為の別棟を使うことは珍しい。加えて寮長が、最後まで誰、と言わなかった理由を、呼んでいいとも告げてくれた理由を、リトリアは不思議がりながら向ったその一室の、扉を開けた瞬間に理解した。

 ぎしり、とばかり扉を開けたそのままの姿で動きを止めてしまったリトリアに、窓辺から広がる森を眺めていた男が、振り返りながらくつくつと笑う。おいでおいで、とひらひらと手で招かれた。

「入っておいでヨ、お人形ちゃん」

「シークさん……」

「久しぶりだね。元気そうでなによりだ」

 三年、いや二年ぶりくらいかな、と微笑む砂漠の王宮魔術師。言葉魔術師、シークから視線を反らせないまま、リトリアはそれくらいだと思います、とぎこちなく頷いた。怖々と扉から指先を離し、体を正面に向けたまま、後ろ手に扉を閉める。

 どうしてか、分からないのだけれど。視線をそらせばその瞬間に、喉元に食らいつかれるような恐怖があった。

 シークの瞳は決して危険な色を帯びず、それどころか学園では見たこともないくらい穏やかな色をはいてリトリアを見つめてくれていたのだけれど。本能的な警鐘がそれを知らせていた。

 これは研がれ終わった剣にすら似て。準備を整え終わってしまった毒そのもの。これは花枯らす水ではなくとも。砂散らす暴風ではあるのだと。

 ぱたん、と扉が閉じる。きゅぅとくちびるに力を込め、もう一度シークさん、と呼びかけたリトリアに。男は静かに、ゆったりと、微笑みを深くした。

「逃げないのかい?」

「逃げて……いいの? 追いかけてこない? シークさん」

「どうかな。どうするかは今考えているよ、お人形ちゃん」

 穏やかであるのに。とてもとても、落ち着いて見えるのに。言葉はそれを裏切って、どろどろと、煮詰められた飴のように絡みついてくる。一度、きゅっと目を閉じて息を吸い込んで。リトリアは脚に力を込めて、立ちなおした。

「シークさん」

「うん、なにかな?」

「わたしに……おはなし? 用事が、あるんですか……?」

 だったら。ちゃんと。聞きます、と。怖がりながらも告げたリトリアに、シークはすこしだけ意外そうな顔をして。くすくすくす、と喉を震わせて笑い、そうだね、と頷いた。用事があるよ。だからとりあえず、お座り。

 君の為のお茶とお菓子があるよ、と指し示された椅子を引いて腰かけて。リトリアは震える指先を宥めるように、膝の上でゆるく握りこんだ。




 男は無残に踏み穢された、勿忘草の瞳をしている。傷つけられ今にも死に絶えてしまいそうな、塗りつぶされた浅紫と菫色の、ぐるぐるとかき混ぜられ濁ってしまった、濃く深く、忘れられないような色を、している。

 それは愛されなかった花の色だ。光に口付けられることも、きよらかな水を与えられることもなかった花の。ただ、ただ摘み取られてしまった、花の。そのいろを。リトリアは確かに知っていた。

 塗りつぶされた筈の記憶が、深く沈めた水底で存在を主張する。かつて、わたしもそうであった筈だと。誰かがリトリアの耳元で囁く。

 わたしはこのいろをしっている。だからこそ、なお、わたしはこのひとが怖いのだ。これはわたし。かつてのわたし。わたしとこのひとは、とてもよく似ている。

 とても、よく、似ていた。

「……リトリアちゃん」

 パチン、と眼前で指を鳴らされ、リトリアはびくりと椅子の上で身を震わせた。はっ、とくるしく息を吸い込み、はじめて、リトリアはいつのまにかそれをやめてしまっていたことに気がついた。

 けほ、けふ、と軽くむせながらせわしなく息を繰り返し、リトリアは机に肘をついて苦笑するシークを、ぼんやりとした眼差しで眺めやった。シークが、リトリアの名を呼ぶというのは、ひどく珍しいことで。

 在学時代を含めても、片手で足りるほどしか記憶にないことだった。だんだんと呼吸を整えていくリトリアが、己の内側にあるいくつかの不思議さを、声にして響かせようとくちびるを震わせる。

 リトリアの、青ざめたままのくちびるが声を紡ぐのを拒絶するように。す、と目を細め、ところで、とシークは笑った。

「この間は手紙をありがとう。びっくりしたヨ。お人形ちゃんがボクにまで書いてくれるだなんてネ」

「……ご迷惑、でしたか?」

「いいや、嬉しかったヨ。……フィオーレには、お前なにしたの、なんて言われてしまったけどね?」

 くすくすくす。いたって上機嫌に肩を震わせるシークに、リトリアはごめんなさいと呻くように声を吐き出し、赤らんだ頬を両手で包みこんだ。

 シークと在学がかぶっている魔術師であるなら誰もが知る事実として、リトリアはこの男のことが苦手である。怖い、と思うし、積極的に話しかけたことは一度としてない。

 二人きりで言葉を交わしたのも一度や、二度くらいで、そしてどちらも大人数での雑談の輪に加わるような性格をしていない為に、接点があるとすれば共に四階の住人であったということくらいだろう。

 寮長が面会の申し出を受け付けておきながら、駄目そうだったら呼べ、と言ってくれたのはその為だった。

 フィオーレが訝しんだのも同様の理由だろう。白魔法使いは数少ない、シークの会話相手のひとりだった。友人と呼べるような、呼べないようなあいまいな距離感で、フィオーレとシークが言葉を交わしていたことをリトリアは知っている。

 交流はか細く、けれども途絶えることはなく。二人が共に砂漠の王宮魔術師として、同じ日に学園を卒業して行ってからも、リトリアの知るままに続いているようだった。

 そのフィオーレといえば、今日は星祭りの準備で早朝から慌ただしく、王の傍で働いているらしい。星祭り、と言葉を繰り返し、リトリアは説明を求めて首を傾げた。

 星降の国の流星の夜に似たものだろうかとは思うものの、そんな大事な祝いを前に、なぜシークが暇そうにしているのかが分からない。

 素直にそれを問えば、シークはくつろいだ様子で椅子に背を預け、仕方がないと言わんばかりあまく笑みを深くした。

「ボクの陛下は……ボクのことが嫌いだからね」

「きらい……?」

「ああ、もちろんボク個人のことも嫌いだろうケド、ごく正確に言うとするなら……我が陛下は言葉魔術師という存在そのものが嫌いなのさ。苦手、というよりも。嫌悪している、という状態に近いだろうネ」

 それをまるで、なんでもないことのように、笑って言って。シークは泣きそうな顔で押し黙るリトリアの顔を、下から覗き込むようにして見た。

「ボクは気にしてない。……キミも、陛下も、ボクを受け入れられないのには理由がある」

「……シークさんには、それが、分かるの?」

 わたしにも分からないこの怖さの理由を。知っているの、と問われ、言葉魔術師は微笑みのままに頷いた。

「お人形ちゃん」

 けれど。

「ツフィアと……ストルは、キミに優しいかい?」

 その理由を、告げることなく。シークはそう問い、リトリアは迷うことなく頷いた。もちろん。ふたりとも、とても、やさしいの。ツフィアもね、ストルさんのこともね。わたし、とても、とても、すきなのよ。大好きなの。

 それでね、ふたりが、私のことをとても大切にしてくれていて。そのことが。なにより、とても、うれしいの。しあわせなの。あいして。くれているの。ふたりは。わたしを。

「……愛して、くれたの……」

 歌うよう、囁くようにそう告げたリトリアに、シークはそうだろうね、とくすくすと笑い。だからこそキミはボクを受け入れることができないんだよ、と響かぬ声で呟いた。首を傾げるリトリアに、なんでもないよと囁いて。

 シークは結局、面会の理由も、リトリアの問いに対する答えも告げることなく時間を過ごし、砂漠の国へと帰って行った。

 事件が起きたのは、その翌日のこと。

 砂漠の王宮魔術師による、『花嫁』誘拐事件。事件を起こしたのは言葉魔術師、シーク。連れ去られた『花嫁』の名を、ソキ。

 七日間の後に終結したその事件こそ。

 リトリアの悪夢のはじまりだった。

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