ささめき、よすがら、そして未来と引き換えに 13
毒だと思うよ、とフィオーレは言った。
夜の、なにもかもが眠りにつく静けさの暗がりを、一条切り裂く月明かりのように。ひどく透明で、研ぎ澄まされた刃のように。責めるでもなく、悔いるでもなく、あるいはそのどちらでもあるかのように。
ソファの上で眠ってしまったリトリアを眺め、視線を伏せて囁いた。その声こそ、毒のように。じわじわとストルに染み込んで行く。
「悪いって言ってるんじゃないけど」
「悪い、と言われているようにしか聞こえないが」
「……良い、とは、言ってないけど」
苦笑しながら言い直すフィオーレの眼差しが、ストルの服の裾を掴むリトリアの、力のこめられた指先を哀れむように見つめた。眠っていてもこれでは、起きた時には腕を痛めてしまっているだろうと思わせる程、力が込められている。
緊張に強張ったそれを和らげてやる術を、フィオーレはもたない。溜息が、ひとつ。
「でもやっぱり、俺から見て……こんなにお前に執着しているのは、リトリアには毒だと思う」
もうちょっとまわりと関わらせてあげるとどうかな、とちいさく首を傾げて提案してくるフィオーレを、ストルは呆れの眼差しで眺めやった。その言葉を、三年半くらい前に聞いていたのであれば、もうすこし考えることもあったのだが。
今更、と浮かび上がる意志を正確に読みとったのだろう。笑顔のまま肩をすくめて、湯気の立つ陶杯をフィオーレは机に置いた。明かりの落とされた談話室には、もう眠るリトリアと、言葉を交わす二人しかいなかった。
かすかな音が、やけに耳に着く。
「昔はそれでいいと思ってたんだもん、俺も。……誰かにすごく大事にされて、そのひとを、大切に想うことが、この子には初めて経験することだったからさ。あんまり邪魔したくなかったし、ストルなら、まあいいかなって思ってたし……」
俺じゃなかったらどうするつもりだったんだ、という言葉をストルは飲み込んだ。目の前でうっそりと笑う白魔法使いは、己の唯一を守る為、幼子の記憶を混乱させ消しさる所業をためらわず実行した張本人だ。手段は選ばれない。恐らくは、これからも。あくまで柔らかく、フィオーレは微笑む。
「それに、泣くようになるのは良いことだと思ってた」
「……泣かなかったのか?」
「涙が出てるのは見たことあるけど、泣く、となるとどうかな……すくなくとも俺の記憶にはないよ」
だから泣くようになって、甘えるようになって。いいことかな、と思ってたから放置してたんだけど、と無責任な発言を響かせ、フィオーレは立ち上がる。もうそろそろ眠りに行くつもりらしい。
「でもまあ、俺はストルの好きにすればいいと思うよ。リトリアは基本的にツフィアの言うことを聞くけど、ストルが言えばそれに従うと思うし……リトリアから、どうしたい? っていう答えを引き出すのは、たぶんほんとものすっごく難しくかつ根気のいる作業だから気力体力忍耐時間が必要だから、三日四日は覚悟しとかないといけないと思う。ちなみに一個の質問につき、平均時間がそれくらいね」
「……どういうことだ?」
「嫌われたくないから、相手が望むことをしたい。相手が望む答えが分からなければ、どうするのがいい? って聞く。リトリアはそういう風だよ、わりと常にね。残念なことに、そこは前と変わってないかな」
言っとくけど生まれつきの性格か、そういう風になっちゃったのかまでは俺は知らない、と言い切って、フィオーレは陶杯を指で包みこむように持ち上げた。一息にあおって飲み込んだ中身は、生温くなっていた。
「リトリアは、お前が……あるいは、ツフィアが、そう望むようになりたいんだよ。己の意思とか望みが二の次っていうより、心から、そういう風に望んでる。だから、この先、どういう風になるかは」
お前次第だよ、と告げ、フィオーレは口元に手を押し当ててぶふっ、と唐突に笑った。うろんな目を向けるストルに、フィオーレは談話室の出口へ向かいながら、ひらひらと手を振って告げる。
「子育て頑張ってね、お父さん。お母さんと教育方針が対立してんのかと思うと俺もうだめ笑いが止まらない予感しかしない……!」
「笑いすぎて呼吸困難にでもなれ」
「り、りとりあが将来おとうさんと結婚するのとか言い出したら……!」
想像したら駄目だったらしい。
口元を手で押さえてその場に崩れ落ちたフィオーレを、コイツ本当に笑いすぎて腹筋でもつってしまえばいいのに、と思う眼差しでひややかに睨み、ストルはくうくうと眠るリトリアに手を伸ばし、乱れた髪をそっと整えてやった。
あたたかな寝台にそっと下ろされる衝撃で、リトリアは眠っていた瞼を持ち上げた。すぐに離れていく手を捕まえて、半分ねぼけながら名前を呼ぶ。
「つふぃあだ……」
心の底から幸せでたまらないと告げる、満ち足りた声だった。あんなに眠りこんでいたのになんだって今起きるのかと無言になるツフィアに、部屋の戸口からストルが訝しげに顔を覗かせる。
いいからこっちへ来るな早く部屋に帰りなさい、そして早急に寝なさいとばかり手を払って追い返しながら、ツフィアはきゅぅ、と赤子のように指を握って半分眠りの世界へ落ちているリトリアに、心の底から溜息をつく。
指を引き抜くよりはやく、あのね、としあわせな響きで告げられる。
「おしえて、もらうの……ちゃんと、となりに、すわってしたよ」
えらい、とばかり首を傾げられて、ツフィアはなんとなく、リトリアの手の中から指を引き抜くのをやめにしてやった。片手で毛布を引きあげて肩までくるみ、ぽん、と体を叩いてやる。
「眠りなさい。……あまり遅くまで起きているのではないわ」
「……つふぃあは、ねるの?」
「ええ」
うん、とリトリアがちいさく頷く。それなら寝る、と言いたげな仕草のあと、すぐに瞼が下ろされた。寝息が響く。与えていた指先を見つめながら立ち上がり、ツフィアは振り返らず、リトリアの部屋を出て行った。
扉の閉じる、音がした。
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