ささめき、よすがら、そして未来と引き換えに 12
日曜日の午前。春先の冷えた空気をきよらかに漂わせる談話室は、穏やかな静寂で包まれている。
授業のない一日を堪能しようと、ある者は朝食後に部屋に戻り二度寝を決め込み、ある者は図書館へ出かけて文字の世界へ没頭し、またある者はなないろ小路へ買い物に出かける為、談話室を訪れる者の数は夕刻まで、意外な程にすくないのが常であった。
薄く開かれた窓から、花開きだした植物の香が瑞々しく差し込んでいる。真白の雲が浮かぶ空は透明に青く、外を歩くには良い天気だった。
談話室を訪れ、なにもする気が起きない様子で椅子に座っていた者も、春風に誘われ、寮周りの森を散策しに部屋を出て行く。
もうすこし、空気が光に暖められたら気分転換に外を歩くのも良いかも知れない。そう思いながら、ストルは特別重たくも思っていない様子で、膝の上に座らせたリトリアの手元に視線を落とした。
まるっこい文字がちまちまと、ノートに文字を綴っていく。一生懸命に書いて行く様をひどく柔らかな眼差しで眺めながら、ストルはすい、とノートに指先を伸ばした。トン、と指先を紙に下ろし、ペンの動きを遮る。
「綴りが違う」
「えっ……え、えっと、えっと」
息を飲み、顔を赤くしてリトリアは恥ずかしくてたまらない様子でストルのことを振り返った。
綴りが違う時、単語が間違っている時にすぐ指摘してもらえるように膝の間に座っていても、いざ告げられると、どうしてもいたたまれなくなるらしい。ふにゃり、泣きそうな弱々しさに瞳を歪めながら、リトリアはノートをストルに差し出した。
「……よろしくお願いします」
「ああ、もちろん」
リトリアの髪を指に絡めるようにして一度梳いてから、ゆっくりと正しい綴りを書いてくれるストルの手元に注がれる視線は、真剣そのものだった。
ストルの文字と、己の書いた文字を何度も、何度もみつめたリトリアの、眉が困ったようにきゅぅと歪められる。えっと、と呟いた声は必至で、それでいて混乱しきったものだった。
声をかけず、ストルはリトリアが落ち着き、納得して受け止められるようになるまでを待ってやる。膝上に乗る幼子の髪をゆるゆると撫でながら、ストルは相手に悟られないよう慎重に、この場にいないフィオーレへの苛立ちに目を細め息を吐きだした。
リトリアは、まだ二つの文字を見比べて考え込んでいる。桜花の色をしたくちびるが、声なく、その言葉をなぞった。
その問題が浮上したのは、リトリアが魔術師としての正規の授業をはじめて幾許もない頃だった。それまでの一般教養を学ぶにあたって、なぜその問題が出てこなかったのかと言えば、単に文字を書くという機会が極端に少なかったからである。
リトリアは、正確な単語を書くことができない。読むことは出来るし話すことも問題はないのだが、妙に綴りを間違えたり、まったく意味の違う単語を当てはめてしまったりする。そしてそれを、自分で正確に認識できていない。
本で読む文字と、自分が書く文字の綴りが違っていることを、すぐには理解できないその理由は、ストルに無言で預金通帳を差し出して来たフィオーレの行動によって白日に晒された。記憶を白く塗りつぶした影響の一種であるらしい。
リトリアが己の過去を白魔法の中に失ってから、三年半以上。四年近くが経過しても、塗りつぶした魔力や記憶は未だ落ち着いた状態に安定しておらず、それ故にそういう影響が出ているのだろう、とストルに締めあげられたフィオーレは言った。
ただ、もう数年で落ち着くとは思う、とも。そして落ち着くまでの間に改善できないこともない、というのが原因たる白魔法使いの言葉だった。
間違ってるの見つけるたびに指摘して、間違ってるものだって認識させてから、正しいものでちゃんと上書きしてあげればそれ以上間違えることはないよ。
ただ問題は、全部混乱してるわけじゃないってことと、どれくらい混乱してるのか分からないってことと、本人にもそれが分からないってことなんだけど。
「……あ」
ストルの胸にゆるく体を預けながら、リトリアがふと声を零す。ようやく、間違っていること、を認識できたらしい。はにかんだ笑みがじわじわと広がり、喜びに溢れたまなざしが、そっと持ちあがってストルを見る。
「……わかったか?」
やわらかに問うストルに、リトリアは嬉しくてたまらない様子でこくん、と頷き、両腕を伸ばしてぎゅぅと抱きついてきた。
「ストルさん、ありがとうございます」
それに、ストルがいいや、と微笑んで抱きしめ返すより、早く。ちょっと、と険しい声にストルの肩に顔を伏せてすりすり懐いていたリトリアが顔をあげ、ぱああぁっ、と顔を輝かせた。
「つふぃあ……! ツフィア、ツフィアっ! ツフィアこんにちは! どうしたの?」
きゃあきゃあはしゃぎながらストルの肩ごしに手を伸ばしてくるリトリアに、ツフィアは険しい顔でつかつかと歩み寄った。リトリアの手を取ることなく、答えることもなく、ツフィアはソファに座るストルの前まで来て。
無言で、べりっ、とばかりリトリアを男から引き剥がした。なすがまま、突然抱きあげられてきょとんとする子猫のような顔つきで目を瞬かせるリトリアを、ソファの空きスペースに座り直させて。
ツフィアはストルを、ややきつい目つきで睨みつけた。
「むやみに膝の上に乗せて抱かないで。あなたがそうやって甘やかして、この子が誰彼構わず甘えるようになったらどうするつもりなの」
「ツフィア。ねえねえ、つふぃあ。つふぃあは、座らないの? すわって、おはなし、しないの?」
「しないわ。いいからすこし黙っていなさい」
両手で服の端を掴み、やわやわ引っ張りながら問うたリトリアに、ツフィアは視線も向けずに言い放った。しょんぼりしつつ、それでも返事をくれたことが嬉しいのだろう。はにかんだ笑みで指先をはなし、リトリアはふふ、と幸せそうに笑った。
言われた通り、静かにしているつもりなのだろう。膝を揃えてソファに座り直すリトリアをやわらかな眼差しで見守り、ストルは淀まぬ声でさらりと言った。
「誰彼構わず甘えたりなんてさせないさ。もちろん」
「そう。……誰彼はあまえさせないようにするのね」
そもそも、ひとみしりのリトリアが無差別に誰彼甘えに行く、ということはありえない。それを十二分に知っているであろうストルの、告げる言葉の裏を読めぬ程、ツフィアは幼くも無知でもなかった。
けれどもまだ、リトリアには分からないのだろう。大人しく口を噤みながらもきょとん、として首を傾げているのを一瞥し、ツフィアは罪悪感はないのかと問い正すような視線をストルに向けた。
「結構なことだわ」
「君もすればいいだろう」
「それをさせるつもりがあるの?」
ひどく静かに凪ぐ湖面のような印象の、しっとりとした笑みを浮かべ、ストルは言葉を告げなかった。しかし、それが、全てだ。呆れた、と言わんばかり眉をしかめるツフィアの服が、また、くいくいと弱々しく引っ張られる。
黙っていなさい、と言ったのはツフィアである。なにかを堪えるような表情でただ振り返ったツフィアに、リトリアはその瞳にじわじわと涙を滲ませた。
「あまえるのだめなの……?」
涙が、いまにも零れてしまいそうだった。
「ストルさんと……ツフィアには、甘えていいの? ……ストルさんもだめなの? つふぃあにはいけないの……?」
好きなの、と。ひたすら、その声が告げていた。離れたくない、傍にいたいと訴える意志は、ひとりにされることを恐怖と感じているようでもあった。
ツフィアはリトリアを見つめ返しながらなにかを言いかけ、意識して唇に力を込め、言葉を消した。
「……リトリア」
名が、呼ばれる。しゅんと俯いてしまっていた顔を即座にあげたリトリアに、ツフィアは淡々と言い聞かせた。
「教えてもらうなら、並びなさい」
言いながら、ツフィアの手が落ちていたノートを拾い上げ、リトリアの胸元に押し付ける。反射的にそれを受け取ったことで離れた手が、届かないように一歩距離をあけながら、ツフィアは静かな声で言い切った。
響く声は闇のように暗く、火のように赤く。リトリアの意識に、まっすぐ染み渡る。
「膝の上に乗ってするものじゃないわ。……別に私の話を無視したければすればいいけれど……なら、私はあなたの話は聞かないわ」
もちろん、読むことも。あなたの話はなにも聞かない。なにもかも。あなたの、はなしだけを。
「っ……ツフィア!」
リトリアの呼び声に、ツフィアが応えることはなかった。言いたいことは告げ終わったと言わんばかり、鮮やかに身を翻して歩き去っていく。姿は談話室のどこへ留まることもなく、一直線に扉の外へと消えて行った。
その背を走って追いかけたがる眼差しで見送り、リトリアはノートをぎゅぅ、と抱きしめた。
「……すとるさん」
「なんだ?」
「文字を教えてもらう時に、お膝にのりません……隣に座るから、おしえてくれる……?」
今日やろうと思っていた所まで、まだ終わっていないの、と半泣きの声で告げるリトリアに手を伸ばして。その髪を一筋だけ指先で撫で、ストルはもちろん、と目を細めて笑った。ぽん、と手で、膝ではなくソファを叩く。
「おいで、リトリア」
「……うん」
しょんぼり、よじよじ、ソファの上をちまちまと座ったままで移動して、リトリアはじぃっとストルのことを見つめた。怒っていないか、嫌われていないか、確認したがる視線だった。ストルさん、と弱く呼んだ声が怯えている。
リトリア、と名を呼ぶとようやく、幼子は安心したように肩の力を抜いて。やんわりと響く声で、ストルさん、ともう一度囁いた。その声は、花の蜜のように甘く。風に揺れる葉のように、かすかに掠れ、震えていた。
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