ささめき、よすがら、そして未来と引き換えに 11


 ツフィアと、ストルを想う心が、そういう風に定めてしまっていなければいいと思う。それは半ば本能で、血が巡らせる呪いのようなものだから、フィオーレにはどうすることもできないのだけれど。

 ただの、恋や、憧れであって欲しいと思う。もし、すでに手遅れだったとしても。やはり、見守ることしか、できないのだけれど。

 それにしたってもうちょっと落ち着いた気持ちで見守っていたいのでパルウェはなんというかそのうきうきした声で二股というのはどういうことなのかをリトリアに事細かに説明するのはやめてくださいお願いします、と白魔法使いはしくしく痛む胃のあたりを手で押さえながら真剣に思った。

 え、えっ、と挙動不審に辺りを見回したのち、リトリアは勢いよく首を横に降った。

「わ、わたしちがっ……ちがい、ます……! ストルさんとツフィアはそんなんじゃなくて、えっと……!」

「うふっ。そんなんじゃなくてー?」

「……えっと」

 じわわわわっ、とリトリアの瞳に涙が浮かんで行く。混乱して、もうよく分からないのだろう。

 あっなんか嫌な予感がするから逃げよう、と思ってフィオーレが椅子から立ち上がるのと、しっかりと風が答えを耳に運んできてくれたのは、ほぼ同時のことだった。

「お父様と……」

 こて、と幼く、リトリアは首を傾げる。

「お……お母様、みたい、な?」

 あのねリィのお父上とお母上は一般的なアレコレソレとはだいぶ違ったけどでもなんていうかそれはない、絶対ない、と瞬時に限界を突破した痛みを発する胃を押さえて床に崩れ落ちるフィオーレの耳に、パルウェの嬉しくて楽しくて仕方がなさそうな、うふふ、という笑い声が聞こえた。

 や、とリトリアが声をあげたのから察するに、人差し指で頬でも突いたのだろう。変わらず、リトリアは他者からの接触を極端に避けている。

「ぜったいにちがうと思うなー?」

「えっ……え、えっ? そう?」

「そう、そう」

 重ねて言われて、よく分からなくなってしまったのだろう。不安げに眉を寄せるリトリアの頭を、パルウェがぽんぽんと撫でた所で、談話室の扉が開く。瞬時に立ち上がり、フィオーレは窓を開けて逃亡を図った。ストルが来たからである。

 誰かが、泣いているリトリアが保護されたと知らせに走ったに違いない。そのたびに迎えに来るストルは正しく保護者めいていたが、ない、それはない、と首を振り、フィオーレは窓から談話室を脱出し、寮の裏口へ走っていく。

 今日明日くらいは部屋に鍵をかけて引きこもっていた方が良いだろう。安全のために。

 リトリアとフィオーレの間に明確な血縁関係があると感づいて以来、それを口に出して確認してくることはないものの、幼子のやや一般からかけ離れた感覚がなにか露見するたび、ストルはフィオーレを締めあげてどういうことだと問いただしに来ることが多いからだ。

 できれば教えてやりたいのだが、フィオーレにもそれができない事情というものがある。寮の裏口からそっと体を滑り込ませ、ほっと息を吐いた瞬間、フィオーレは視線を感じて顔をあげた。殆ど使われていない筈の廊下。

 上へあがっていく階段の背もたれに体を預け、行方をくらませていた筈のツフィアが、なぜかフィオーレに微笑みかけている。終わった。歩んでくるツフィアの足音を聞きながら、フィオーレは遠くを見つめる眼差しで、女子怖い、と呟いた。




 体を滑り落とすように降ろされた寝台は、どこもかしこも、ストルの匂いがした。脚が触れるシーツが冷たい筈なのに、熱い。はく、とリトリアはくちびるを動かし、じわじわと頬を赤くした。

 腕の中いっぱいに抱き締められているのと、なにも変わらない気がして、動くことが出来なくなる。扉の鍵がかけられた音がして、リトリアはぱっと顔をあげた。扉から、寝台までの短い距離を、硬質な靴音を響かせて戻ってくる男の名を、呼ぶ。

「ストルさん……」

「……リトリア」

 あまく、どこか苦く微笑み、ストルは一度だけリトリアの名を呼び返した。ぞわりと得体の知れない感覚が身をかけのぼっていくような囁き声に、リトリアは思わず口に手をあて、息を吸い込んだ。

 パルウェと共にいた談話室からリトリアを攫うように抱きあげ、寝台へ降ろしてから戻ってくるまでの間、ストルは一度も、リトリアの名を呼んではくれなかった。

 名前を呼んでも向けられる視線だけで応え、その声が名を紡ぐことは一度としてなかった。だからだ、とリトリアは思う。呼んでくれたことが嬉しくて、それで、びっくりしてしまったのだ。

 口元を手で押さえてそわそわと視線を彷徨わせるリトリアに、ストルは柔らかに微笑んだまま、その手を伸ばした。きょとん、と見つめ返してくる視線を絡め取るように重ねながら、耳元に口唇を寄せ、肩に指先を触れさせる。

 リトリア、と名を囁けば震えるように力の抜けた体を、ストルはそのまま寝台へ、指先の動きだけで柔らかく押し倒した。戸惑いに震えながら、視線を反らすことを許されないリトリアの、藤花色の瞳がストルを見上げる。

 一心に。ストルのことだけを考え、ストルのことだけを見つめる、その瞳に引き寄せられる。頬を包み込み撫でる男の指先に、リトリアがむずがるようにきゅぅ、と目を閉じた。

「っ……ゆび……」

「……嫌か?」

 ほんのりと温かさを伝える幼子の肌は、滑らかで瑞々しく、触れるだけでもひどく心地良い。けれどもリトリアが過度に接触を避けているのはストルも知っていたから、残念に思いながらも手を引こうとした。

 すん、と泣いているような響きでリトリアが鼻を鳴らし、うっすらと目を開いてストルを見る。

「嫌じゃない……けど、でも、あんまり触るの、は……だめ。だめなの」

 暖められ、光を宿した。蜂蜜のように甘くゆがむ、リトリアの瞳。

「ストルさんが、すごく好きなの……ばれちゃうから、だから」

 あんまり、たくさん、触らないで……。うっとりと瞼を伏せながら吐息に乗せて囁かれた言葉に、ストルは凶暴なまでの苛立ちに僅かばかり息をつめた。だめ、と困ったように囁きながら、リトリアの手がストルのそれを押しのけようとする。

 許さず、指を絡めるように繋ぎ合せて寝台へ押しつければ、リトリアの目が泣きそうに歪んだ。じわじわと涙を浮かばせる瞳は、雨に濡れ香る咲き初めの花のようだった。

「お、おこってる……?」

 か細い声が弱々しく響き、ストルの手の中で華奢な指が、怯えるように震えた。

「ストルさん、怒ってる……。なんで……? わ、わたし、わるいこと、した? だから? ……怒っちゃ、やだぁ……」

「……俺が怒っているように?」

 そう、思うのかと問うストルの言葉に、リトリアは無心に頷いた。

「だめって、いうのに、やめてくれない……」

 心底困った様子で涙を浮かべ、リトリアはふるふると震えながらその雫を頬に伝わせた。涙がシーツに零れる前に指先で拭い、ストルはやんわり、言い聞かせるように囁き落とす。

「駄目だが、嫌ではないのだろう? ……触れさせてくれないか」

「……ストルさんが」

 そう、したいなら。きゅぅと眉を寄せてふるえながら、リトリアは吸い込んだ吐息を、弱々しく吐き出した。触れてくれる手が心地いいと、告げるよう、甘えた仕草で手に頬が擦りつけられる。

 すり、と懐いて、やんわりと伏せられた目がまどろんでいた。幸せな夢だと囁くようだった。ストルさん、とリトリアは呼ぶ。ストルさん、ストルさん。だいすき。

「……おこるのおわった?」

 こて、と手に懐きながら首を傾げて問われるのに、ストルは未だ、と言うべきか言うまいか思い悩み、深々と息を吐きだした。

 この存在の前で怒りを持ち続けること自体が馬鹿らしくなってくるが、それでも、じりじりと焦がすような想いがまだ残っている。リトリア、と溜息混じりに呼びかけながら、ストルはきゅぅ、と寝台に押し付けたままの手に力を込めて問いかけた。

「お父様、と。……言ったそうだが」

「えっ」

 あっそういえばパルウェさんがなんかお話してたえっえっ、と混乱した顔つきで、リトリアの顔が恥じらいに赤く染まる。

 そろそろとストルを伺うように見上げた瞳に絆されそうになりながら、男はリトリアを怖がらせないよう、やわらかく笑みを深めてみせた。

「どういう意味だ?」

「えっ……えっと、えっと、あの、あの……!」

「俺は、父親になったつもりは、一度もないんだが」

 こうして、触れる意味も。囁きながらストルは、リトリアを捕らえていない方の手を動かし、指先で幼子のまろやかな頬を撫で擦った。半ば怯えるように震えるリトリアから、甘い匂いが立ち上る。

 摘みたての花のように。清らかで、あまい、香り。

「父性だと間違えられるのは、困るな……?」

 すき、だと。心を全部差し出されるような瞳で見つめられて、言葉にも出して、告げられて。その好意を取り間違えられる程、ストルは鈍い訳ではない。

 リトリア、と半ば笑いながら説明を求めれば、困り切った瞳がしょんぼりと見つめ返してくる。だって、とどこか拗ねた響きで、リトリアはたどたどしく告げた。

「お父様、と……お母様、なら、なにがあっても……」

「……うん?」

「血が、繋がってるって、特別なことでしょう……? だから、そういう風に、なりたかったの……」

 私の、特別に、なって。なにがあっても決して消えない事実のように。ただ、それだけの為に。そう告げたのだと言うリトリアに、ストルはやや脱力した。なんとなく言いたいことは分かってやれたのだが。

 もう怒ってるの終わった、と再度確認してくるリトリアに、未だ、と告げるよう繋いだ手を強く寝台に押さえ付けて。ストルは溜息をつきながら身を屈め、リトリアの瞼に口付けた。

 花の香りがした。雨に濡れた咲き初めの花のように、瑞々しくきよらかな、胸の奥に染みいるような。うすむらさきの。花の香りだった。



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