ささめき、よすがら、そして未来と引き換えに 10

 怒ってないよ、とフィオーレは吐息に混じらせ、囁いた。

「でも、もうすこし年頃になれば香水とか、そういう理由で誤魔化せたのにとは思うけど……ストル、なんか言ってなかった?」

「なんか……?」

「……ちょっとおいで」

 仕方がないとばかり苦笑したフィオーレが、リトリアを指先で招く。首を傾げて体を寄せたリトリアに、フィオーレはやわらかく両腕を伸ばした。背を軽く指先で押すようにして胸元に体を倒れこませ、一度だけ強く抱かれる。

 これでいいかな、と呟きながら肩を押してリトリアの体を離し、フィオーレは混乱する幼子の目を、やんわりと覗き込んで笑った。

「だいぶ薄くなってるけど、まだ分かると思うよ。……俺の服からいい匂いしない?」

「……おはな」

 瑞々しく手折られたばかりの、数種類の花のような、きよらかで甘い香りが一瞬だけ鼻先を掠めて行く。首を傾げて、理解ができない、という風に見つめ返してくるリトリアに、フィオーレは苦笑いをして頷いた。

「一番簡単にいうと、お前はそういう体質なんだよ。恋しい相手に触れられると発動する、天然の芳香剤みたいな感じ。……言いつけは、記憶を消しても体が覚えてたみたいで、お前は今まで誰にも肌に触れさせなかった筈だけど。ストルと……ツフィアが、気がついてなければいいんだけどな。ずっと香ってる訳でもないし、触れられてからしばらくってだけだし……」

「……フィオーレは?」

「俺?」

 自身ですら具体的になにを問いかけたのか定かではない言葉に、フィオーレはやんわりと笑った。

「俺の唯一はここにはいない。触れることもない。だから、大丈夫。……で、最初の質問に戻るけど」

 ストルはお前にどこまでどんな風に触れたの、と問われて、リトリアは顔に、と言った。どうしてか、それにきちんと答えなければいけない気がした。そう問われた時の義務であると、意識の欠片に染み込んでいた。

「て……指、と、くちびる、で……泣いてるの、を、慰めてくれました」

「……顔だけ?」

 ちょっと意外そうにフィオーレが首を傾げる。リトリアは息をつめて、こくん、と頷いた。そこ以外はどこにも触れられていないと思う。記憶にある限りは。リトリアの意識しない所でその身に触れるようなことを、ストルがするとも思えなかった。

 なぜかなまぬるい笑みを浮かべながら、フィオーレはそっかぁ、と力なく頷く。

「じゃあ大丈夫かなぁ……うん、大丈夫だと思っておこう。よかった、ストルが紳士で。いや紳士は幼女に手を出さないとは思うけどそこは考えないことにしよっとほらストルの恋愛対象がまだ幼女趣味だって確定した訳じゃないし? 聞くの怖いから聞いたことないけど。そもそも本当に恋愛対象として構ってるのか、ただ単に庇護してるのかも定かじゃないし。怖いから聞いたことないけど」

「……フィオーレさん?」

「お前は気にしなくて良いよ、まだ。……さ、着替えて顔を洗っておいで。俺は部屋の外で待ってるからね。朝食を食べたら教室の前までは案内してやるから、あとはひとりで頑張れるな?」

 ぽんぽん、とリトリアの頭を撫でて立ち上がるフィオーレに、リトリアはなにかを忘れている気がして、戸惑いながらも頷いた。きょうしつ、とおぼつかない発音で繰り返されるのに、気が付いたのだろう。

 喉の奥で楽しげに笑いながら、扉に手をかけつつ、フィオーレが振り返る。

「今日は、はじめてちゃんと授業が受けられる日だよ、リトリア。……魔術師の授業の、さいしょの日」

「……あ!」

 そうだった、とばかり顔を明るくして笑うリトリアに、フィオーレも幸せそうに微笑み返した。扉の向こうからは朝の光が差し込んでいる。ひかりを背負い、微笑むその眼差しを、遠い昔に見たことがある気がした。

 失われたそれを探るよりはやく、憧憬を断ち切るように、フィオーレは扉の向こうへ姿を消した。部屋にひとり取り残される。不思議と、さびしい気持ちにはならなかった。




 カルガモみたい、というのがツフィアを追いかけるリトリアを見た魔術師たちの、一般的な感想だった。つかつかと早足で歩くツフィアの背を、本人的には早足で一生懸命追いかけているのだろうリトリアが、ちょこちょこと付いて行く。

 走っても歩いてもなぜかあまり早くないリトリアは、残念なことに、あまり体力もない。息切れして、徐々に距離がひらいてくると、つふぃあ、と半泣きでリトリアはその背に呼びかける。ツフィアの反応は、だいたい二例。

 一瞬だけ足を止めてまた歩き出すか、あるいは立ち止まり、振り返ってその秀麗な眉を寄せ、くちびるに力を込めて感情を堪えるか。名が呼び返されることは滅多になく、リトリアが追いつけたこともなかった。

 なんらかの魔術を使用しているのか、あるいは姿をくらます、ということが天才的に上手いのか、遠くから見守る魔術師たちの視線の先からも、ツフィアはきれいに姿を消してしまうのだ。

 ふっと、ほんの一瞬、意識を外しただけでもうそこに姿はなく。あとには辺りをきょろきょろと見回すリトリアが残されるばかりだった。

 リトリアはしばらく、辺りをちょろちょろと動きまわり、つふぃあツフィアと半泣きで呼んでは少女を探しているのだが。とうとう、見失ってしまったことを理解すると、まるでこの世の終わりのように悲しげに泣きだすのが常だった。

 リトリアのカルガモごっこがはじまったのは、幼子が通常授業に出席できるようになった日からだから、かれこれ半年は前のことになる。

 それは周囲も慣れてくる筈だろうと思いながら、フィオーレは椅子に背を預けて座り直した。湯気の立つココアのはいったマグカップをてのひらで包みこみ、口元に引き寄せてふぅ、と息を吹きかける。

 視線の先、談話室の入り口付近にいるのは、図書館の前で泣きじゃくっているのを保護されたリトリアと、保護してきた女の姿である。夜色の肌に、銀の髪をした、ふっくらとした面差しの女だ。

 フィオーレが一方的に若干苦手に思っている相手なので積極的に話しかけたことはなかったが、その上質なトパーズに似た瞳は好きだったので、名前はしっかり覚えていた。女の名は、パルウェ、という。

 あれだっけリトリアの面倒みてくれるような性格してたっけ、と思い悩みながらも見守る視線の先、パルウェはいやいやとむずがって泣きじゃくる幼子を、意外と手慣れた仕草でソファまで誘導し、座らせていた。

 フィオーレはそーっと息を吐き出し、風の流れを微調整して二人の会話が聞こえるようにした。リトリアの交友関係を恣意的に狭くたくはないので割って入るつもりはないが、成長過程で相応しくない会話をされていたらと思うと気になって仕方がない。

 雪がちらついてきた窓の外に視線を流しながら、ほらリトリアには淑女に育ってもらいたいなと思ってるからろくでもないこと吹きこまれてるとことだし、と寮の女性陣を全く信頼していない呟きを零し、フィオーレはココアをひとくち、喉に通した。

「リトリアちゃんは、本当にツフィアちゃんが好きだねー?」

 思わずココアを吹きそうになり、フィオーレはだんっと音を立ててマグを机の上に戻した。大きな物音に一瞬、談話室の視線が集中するが、ああフィオーレのいつもの奇行か、くらいの興味ですぐさま反れて行く。

 パルウェとリトリアに至っては、距離があるので視線を向けもしなかった。ひっくひっく、リトリアがしゃくりあげるのを耳にしながら、フィオーレはパルウェのつわものっぷりに戦慄を覚える。

 ツフィアは確かに、パルウェから見て年下の少女である。フィオーレから見ても年下の女の子なのだが、それでも、不思議と『ちゃん』をつけて呼ぶ気にはなれなかった。考える。怖い。

 よし止めよう、くらいの思考の早さでツフィアに『ちゃん』は付けられない。怖い。よく分からない種類の恐怖だが、本能の発しているなんらかの警告ということでフィオーレはそれを深く考えないことにしていた。

 女子を怒らすと怖い、そして長いからである。

 はー、と謎の溜息をつくフィオーレの耳に、すんすん鼻を鳴らしながら、リトリアが問いに応える声が聞こえた。

「うん。ツフィアのことね、すき。だいすき……」

「ツフィアちゃんとストルだと、どっちが好きかなー?」

 なんも飲んでなくてよかった、と心底フィオーレは思った。言い知れない戦慄に突き動かされるまま視線を向けると、ちょうどリトリアから視線を外したパルウェと、真正面から目が合う。にっこり笑って、手を振られた。盗み聞きはバレているらしい。女子怖い。

 心底思うフィオーレに、まだ半泣きの声で囁くリトリアの、不思議そうな響きが運ばれてくる。

「どっちも、大好きです。どうして?」

「ううん。そっかー、二股かー。リトリアちゃん、なかなか頑張るねえ」

 リトリアにそういうつもりはないと思うからそれ以上年齢に相応しくない会話すんのやめてくれないかなぁ、と遠い目をしかけ、フィオーレは無言で頭を抱え込んだ。

 フィオーレもそうだが、リトリアも、育ちを考えれば別にそういう精神構造をしている可能性が、ない訳ではない、という可能性に行きあたったためだ。

 決めてしまえばどこまでも唯一だが、『かけがえのない』それが、たった一人であるという保証はどこにもない。一人でなくとも。こころがそう、と決めてしまえば後戻りなどできない。

 傍に居られなくとも、例え結ばれることがなくても、永遠になる。フィオーレの愛し方はそういうもので、記憶を失う前のリトリアも、そうであった筈だ。今のリトリアがどうなっているのか、フィオーレには分からない。けれど。

 違えばいい、と思う。

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