ささめき、よすがら、そして未来と引き換えに 09

 あたたかな体温と、髪を撫で続けてくれる手に胸の中がいっぱいになる。喉と、肺の奥が切なく震えてうまく息が吐き出せない。怖いのか、と問う声に首を振る。心配に彩られ、そっと耳元に口付けるよう囁く声に、指先まで甘く体温があがった。

 くちびるがひとりでに息を吸い込む。ストルさん。ささやく声に笑い交じりの、優しい響きが先を促す。なんだ、と問う声に息がつまる。

 ストルさん、ストルさん。首筋から背に回した腕に力を込めて、精一杯の気持ちで想いを告げる。怖くないの。悲しくないの。辛くはないの。ただ、ただわたしは。

「しあわせなの……」

 だからお願い、離さないで。ずっとずっと、傍にいて。泣き声混じりの懇願に、薄い布越し、腰を抱く腕に力が込められる。骨が軋む、痛い程の抱擁に体中が熱でいっぱいになる。この熱に溶けてしまうことができたら、どれくらい幸せなことだろう。

「ストルさん……」

「……どうした、リトリア」

「しあわせなの。……しあわせで、うれしくて、胸がいっぱいで……どうしよう、ストルさん。どうしよう……」

 瞬きで、大粒の涙が零れて行く。頬を伝い流れ落ちるそれがシーツへ吸い込まれるよりはやく、服の袖をひっぱった男の指先が、雫を丁寧に拭って行った。息をつめ、切なげにしゃくりあげるリトリアに、ストルが苦しげに眉を寄せる。

 悲しいのか、と問う声に、ちいさく首が振られた。全身を痛ませる程の甘い熱が、やさしい熱が、リトリアの声を奪って行く。なにも言葉にならないのに。なにも上手く伝えられないのに。

 リトリア。そう呼ぶ声が胸いっぱいの震えを押し上げて、くちびるを動かした。

「……き」

 体中の熱をあげ、指先をしびれさせる震えが宿る。

「すき。……ストルさん、ストルさん……ストルさんが、好き。……好き」

 はつこい。その衝動を。はじめて知る、夜だった。




 目の前の枕に両腕を伸ばす。ストルの匂いがするそれをぎゅうぎゅうに抱き締めながら、リトリアは無言で寝台の上でじたばたした。寮の四階にある、リトリアの部屋の寝台ではない。

 リトリアがいるのは、寮の三階。ストルの部屋である。なんで、なんでこんなことになったんだっけと寝台の上で恥ずかしさに打ち震えつつ、リトリアは枕に顔を埋めて息を吸い込んだ。昨夜の記憶はおぼろげに残っている。

 つまり正確な所はちっともさっぱり分からないが、それでも十分過ぎるくらい恥ずかしいので、ぜんぶ覚えていたらたぶん呼吸がおぼつかなくなるに違いなかった。泣きすぎて目の奥と、頭がすごく痛い。

『――泣かないで、くれるか』

 不意に。低く甘く掠れた囁きと、涙を拭って行く指先が肌を擦った感触を蘇らせてしまい、リトリアは全身を震わせて体温をあげた。

 ち、ちがうのちがうの今思い出したいのはそこじゃないのストルさん格好良かったもうだめすき、と思いながら枕をぎゅうぎゅうと抱きしめ、リトリアは涙目で寝台の上に座りこんだ。

 すん、と鼻をすすってから、落ち着くために息を吸い込む。部屋にはリトリアしかいなかった。ストルはなんのためか不在だが、戻ってくるにはもうすこし時間がかかるだろう、という不思議な確信を持っていたので安心して息を吸い込む。

 肺まで深く息を通し、吐き出すことを繰り返してから、リトリアはぱちぱちと瞬きをした。えっと、と首を傾げ、思考を巡らせて記憶を探っていく。

 真夜中のことだった。とても怖い夢を見て目を覚ましたことを、覚えている。怖くて、辛くて、寂しくて、もう一度眠ってしまうことも、ひとりで部屋で朝を待つこともできなくて。

 誰かのいる灯りや、熱や、声が欲しくて部屋を抜け出して談話室へ向かう途中に、声をかけられたのだ。四階から、三階へ降りて行く階段の途中。リトリア、と呼ばれた声になにも考えられずに腕を伸ばした。

 恐らくは寝起きの、すこし熱いくらいの体温の中に抱き締められる。こんな夜中にどうしたんだ、と宥める声にすがって、怖い夢を見たの、と訴えたことを覚えている。

 怖いの。辛いの。苦しいの。さびしいの。ひとりにしないで。ひとりはいや。おねがい、いいこにするから。いいこにしているから。だから、だからおねがい。そばにいて。すてないで。

 息をつまらせながら訴える声に、ストルはリトリアの足先を床から攫うように抱きあげ、おいで、と言って歩き出した。

 幾度か訪れた覚えのあるストルの部屋は、夜の静寂と闇の中しっとりとした眠りの気配を漂わせていた。片腕で開いた扉を閉め、ストルは無言でリトリアを寝台へ運ぶ。

 男の体温を宿したシーツで、熱いくらいに全身を包まれ、抱きしめられた。腕の中で守られるように、抱き寄せられて。ずっと髪を撫でてくれる手に、孤独も、怯えも、なにもかもが溶けて消えて行く。

 心を切り刻んで行った深い悲しみの夢は、形も分からなくなってしまった。そして、想いが溢れる。自分がなにを口走ったかを正確に思い出してしまったリトリアは、枕を抱きしめたままで寝台の上、悶絶した。

 ずっと、ずっと、ストルはリトリアを抱きしめて髪を撫でていてくれた。零れる涙を指先が拭い、目尻にそっと、口唇が触れたのを思い出す。

 肌に、肌が触れたのは、はじめてのことだった。そうされたのは。それを許したのは。はじめての、ことだった。ゆびと、くちびる。乾いた熱。一晩、ただ、涙を拭ってくれた。そのやさしい熱を、覚えている。

「……っ!」

 声にならない叫びをあげ、リトリアはぱたりと寝台に倒れ伏し、動けなくなった。どんな顔をしてストルに会えばいいのか分からない。だってリトリアの頬に、ストルの手は触れて行ったのだ。

 指の熱も、口唇の感触も、まだずっと、覚えている。リトリアは震える手を持ち上げて、己の顔に押し当てた。目を閉じて、思い切り息を吸い込み、吐き出す。

「ストルさん……」

 リトリア。これまでに聞いたことのない掠れた声で囁く声が、耳の奥で蘇る。耳を両手で押さえ、じたばたと暴れながら、リトリアはむずがるように首を振った。ストルの顔をちゃんと見て、おはようございます、とはとても言える気がしない。

 どうしようどうしよう、と悩むリトリアが、その朝、ストルと顔を合わせることがなかった。なぜならストルの部屋の扉をたたき壊すような勢いで開き、現れたツフィアが、有無を言わさずリトリアを立ち上がらせ。

 来なさい、と言ってツフィアの部屋へ引っ張っていったからである。




 怖い夢を見て起きちゃったからストルさんに一緒に眠ってもらったの、という説明を聞き終えたツフィアは、わかった、とだけ言って身を翻し、部屋から出て行ってしまった。扉の閉じる音が空虚に響く。

 静まり返った空気はそのままツフィアが廊下を進み、階段を下りて行った所までをリトリアの耳に伝えてくれたが、それだけだった。それ以上の言葉はなく、立ち止まることも、歩調が緩むこともない。

 えっ、と混乱した気持ちで辺りを見回し、リトリアはぶわっと浮かんでくる涙を手で擦りながら、なんとか椅子から立ち上がった。ツフィアは部屋に戻りなさいとは言わなかったが、このままいても戻ってくることはないだろう。

 ストルの部屋からリトリアを連れだした時の、ツフィアの様子を思い浮かべる。背後に猛吹雪が見えそうなくらい、冷やかに、少女は怒っていた。その怒りを欠片とも、リトリアに向けることはなかったのだが。

 なんであんなに怒っていたんだろうか。なにか悪いことでもしたかなぁ、とリトリアがすんすん泣きながらツフィアの部屋を出て、扉を閉じるのと同時、待ちかまえていた動きで腕が引っ張られる。

「リィ」

 どこか切羽詰まった、慌てた様子の呼び声に、リトリアは振り返るよりはやく息を吸い込んだ。聞き覚えはない。一度としてそんな風に呼ばれたことはない筈だ。記憶にある限り。

 塗りつぶされ壊された空白の記憶の中、その呼称が存在していない限り。知らない筈であるのに。目でそれを確認するよりはやく、リトリアのくちびるは、その男の名を呼んだ。

「フィー……フィオー、レ?」

 暖炉に降り積もる灰と、新緑の葉。その二色が入り混じった瞳が、やや睨むようにリトリアを見つめ、細められている。怒っているのとは違う、心配して、不安がっている表情だった。

 瞬きで涙の名残を頬に伝わせながら、リトリアはよく分からなくて首を傾げる。このひとに、そんな風に見つめられる心あたりが、まるでなかった。

「どう、したんですか……?」

「どうしたも、こうしたも……」

 苛立ったように首を左右にふり、フィオーレはリトリアが素足であることに気がつくと、珍しくも舌打ちを響かせた。その仕草にこそ驚いて、リトリアは目を丸くする。

 どうしたの、ともう一度問うよりはやく、フィオーレは無表情にリトリアの脇に手を差し入れ、ひょいとばかりその体を持ち上げてしまう。抱き上げるというより、単に足を床から離したがる仕草だった。

 そのままフィオーレはリトリアの部屋へ少女を運び、やや丁寧に寝台へ腰かけさせると、その前にしゃがみこんで視線を重ね合わせてくる。リィ、とくるしげに名を吐き出した口唇が、一度だけ強く結ばれる。

 眉を寄せて目を伏せ、フィオーレは間違えた、とばかり息を吐きだした。ゆったりと持ちあがった視線が、もう一度、リトリアの目を覗き込む。

「リトリア」

 はきと響く声で、フィオーレは言った。戸惑うリトリアの頬に手を伸ばし、慎重に、触れないように、その輪郭だけ熱を伝わせる。

「……誰にって聞くのは馬鹿みたいだな」

「フィオーレ……?」

「ストルはどこまで、どういう風にお前に触れた? ……お前はそれを許した?」

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