そして焔と踊れ 11

 ストルは、いつもやさしかった。リトリアが痛いことはしたくない、と囁いて、やさしく、あまく、触れるひとだった。抱き上げる腕は柔らかな力でリトリアを包み込み、髪を撫でる指先も、梳かす櫛も、かすかな違和感さえ与えられたことがない。

 砂糖菓子のような幸福と、硝子細工のような繊細さで触れてくる。そんなひとだった。そんな記憶しかないひとだった。それなのに、リトリアを抱く腕は息が苦しくなる程に強い。

 腰を抱く腕も、背を抱き寄せて指先で髪を弄る仕草も。耳元で名を呼ぶ低く掠れた声の響きも。ぜんぶ、ぜんぶ、しらない。

「ストルさん……? ストルさん、ストルさんっ……!」

「リトリア」

 膝の上に抱きあげられて、腕の中に閉じ込められるように抱き締められて。ストルの肩口に顔を埋めるように体を預けているから、囁く声が全て、耳に直接触れるよう流しこまれて行く。低く。あまく、あまく、囁く声。

 全身が、胸の奥までがぞわりと震えて、体のどこにも力が入らなくなる。目を細め、ストルは微笑んだ。髪をするすると撫でていた指先がずれて、リトリアの頬を撫でていく。相変わらず素直だな、と囁かれても。

 リトリアは意味が分からず、ふるふると首を振ることしかできなかった。どうしてこんなことをするの。どうして。なんで。わたしのこときらいなのに。

 きらいって、いったのに。

「や……! や、やっ……ストルさん、はなして……!」

 いや、と肩を押しのけて離れようとするリトリアの、腰にぐるりと腕が回されていて身動きができない。ストルが息を吐きだした。

 びくん、と身を震わせて怯えた顔つきになるリトリアに、怯えないでくれないか、と困ったように囁き、ストルが目を向けてくる。漆黒の瞳。柔らかな紗幕で何重にも覆われた寝台に落ちる、柔らかな、影の色。

 魅入られて動けないリトリアの頬を包み込んだまま、ストルは柔らかく笑みを深め、囁き落とした。

「リトリア。……俺の、かわいい、リトリア」

「え……え、えっ」

「離してほしい? ……違うだろう」

 幾度も、幾度も。頬のまるみを辿るように、ストルの指先がリトリアの肌を撫でて行く。ふるっと身を震わせるリトリアに、ストルはやわりと目を細め、喉を震わせて低く笑った。

「離さないでほしい、と言ってくれないのか?」

 昔のように、俺に傍にいてほしいと。あまえてくれないか。それを許してくれないか、リトリア。俺を、どうか。求めて。囁かれて、リトリアは混乱にぎゅぅと目を閉じ、瞼を震わせながら息を吸い込んだ。

 悲鳴じみた声がこぼれる。

「なんで……!」

「……うん?」

「私のこと、きらいなのに……なんで、そんなこと、いうの……?」

 怖い。怖かった。ぞわぞわと臓腑を撫で背筋を駆け上って行く気味の悪い恐怖が全身を支配する。リトリアは予知魔術師だ。極めて魔力の純度が高いとされる、それによる暴走も経験したことのある、予知魔術師なのだ。

 たくさん学んだ。たくさんの文献を頭の中に叩きこんだ。だからこそ、その可能性に辿りつく。予知魔術を発動させたまま、好き、と言ってしまえば。それは魅了になることもあるのだと。

 相手の意思など関係なく、感情を魔力でもって塗りつぶし。そうさせてしまうのだと、知っていた。予知魔術の発動はいつ解除したのだろうか。それを、思い出すことが、できない。

 怖くて、目が開けない。もし、ストルが知らない目で、恋に浸された操られていた目でリトリアを見ていたら。そんなことには耐えきれない。震えながら目を開けないリトリアの耳元で、ストルが笑み混じりの囁きを響かせる。

「……きらいだなんて、だれがいった? そんなことを言うやつがいたら教えてくれ。息の根を止めてやるから」

「ストルさんが……いった。言ったもの! 言ったものっ!」

「いってない。いってないよ? リトリア。それでも言ったと言うのなら、過去の俺と今、リトリアを抱きしめる俺、どちらを信じる? ……さあ、目をあけてくれないか、リトリア」

 涙の滲む目のふちを、ストルの指が丁寧になぞっていく。震えたまま瞼を持ち上げられないでいる、その様すら。いとおしくてたまらないのだと、告げるように。笑い交じりの声が囁いて行く。

 リトリア。りとりあ、どうか。目をあけてくれないか。俺のことを。みて。リトリア。記憶の中で囁く声の優しさと。それは似ているようですこしだけ違うものだった。熱に掠れ、あまやかに響き。肌をやわらかく撫であげて行くような。

 吐息を震わせるようなその囁きは。知らない。

「リトリア」

 ぐ、と。腰を抱き寄せる腕に力が込められた。

「俺がほしいと。……いってごらん?」

 あなたが。ほしい。震えるくちびるが操られるように綻び、囁いてしまいそうになる。求められたからではない。告げるようにと乞われたからではない。それがリトリアの望みだからだ。

 ぎゅぅ、と震える瞼に力を込める。仕方ないな、と告げるよう、薄闇の向こうでストルが笑った。するすると指先で頬がなぞられる。撫でられ、じわじわ、熱を分け与えられていく。泣きそうな気持ちでリトリアは息を吸い込んだ。

 すとるさんが。ほしい。けれど。でも。それいじょうに、わたしは。

 あなたのものに、なりたい。

「……なでちゃだめ……」

 いや、とむずがるように首を振るリトリアの瞳から、あふれた涙が頬を伝う。笑みを深めて身を屈め、ストルはいや、と訴えられるのを無視してその雫に口付けた。はぁ、とあまく。

 喉を震わせてうっとりと吐き出される少女の吐息が、言葉の訴えをなにもかも、裏切っている。恥じらいに震えながらひらく、瞼の奥の。涙を零す瞳の、あまくあまくとろけた蜜のようないろが。ストルのことを誘っている。

 引き留めて。もっと、と告げるように、花色のくちびるが震えていた。

「リトリア」

「やぁ……! やだ、やだっ……きらいなのに、ストルさん、私のこときらいなのにっ……! きらいって、いった。言ったのに……! 会いたくないって、うんざりする、って。めんどうみきれないって、いったの、に……!」

 うんざりする、くらいは言ったかもしれないが。それはうんざりするほどかわいいとか恋しいとか愛しいだとか、かわいいとかかわいいとか、かわいいとか、愛しているだとか。かわいいとか。そういう理由と言葉であって。

 断じてうっとおしいだとか、リトリアが悲しむような意味ではないのだが。しかしいくら記憶を探ろうとも、会いたくないと、嫌いだけは、言った覚えがなかった。当たり前だ。

 リトリアにそんなことを言う輩がいたら、とりあえず生まれてきたことを後悔させてから息の根を止めてやる。どうしたものか、と思いながら、ストルはいやいやとむずがって泣くリトリアの頬を指先で撫で続けた。

 いや、と泣いて首を振るばかりで、リトリアの手がストルを押しのけることはなかった。

 その手はずっと、ストルの服を握り締めている。きゅぅ、とあどけなく力のこめられたてのひらが。わたしのそばにいて、と。訴えている。

 服を放そうとしないその手に指先を伸ばして、ストルはやや強引な仕草で少女の指の間から服の布地を引き抜いてしまった。ひぅ、と悲しげな、押し殺した悲鳴がリトリアの喉奥から掠れて響く。

 ごめんなさい、と告げられるよりはやく。ストルはリトリアの瞳をしっかりと覗き込んだまま、少女の指先を口元へ引き寄せた。

「リトリア」

 びくん、と怯えに震える体は、それでもストルの腕の中から逃げようとしない。花蜜のように溶けた瞳が、涙の奥から恐る恐る、ストルのことを伺ってくる。あわく息を吸い込むくちびるを視線で撫でながら。

 ストルはそっと笑みを深めてみせた。

「……リトリア。俺の、言葉を……今の、俺の言葉を、どうか……信じてくれ」

 桜色に淡く艶めく、透明な爪先に唇を押し当てる。視線を絡め取ったまま。濡れた音を立てながら唇を僅かに離してやれば、幾度かの瞬きのあと、リトリアの指先に震えるような力がこもった。

 じわじわと赤らんだ頬に、見開かれた瞳からまた一筋、涙が伝う。それをそっと、また舌先で舐め取って。びくりと震えるリトリアの背を宥めるように片手で撫で下ろし、またストルは微笑みながら、リトリアの手に口付けた。

 手の甲に、てのひらに。指先に、爪の上に、指の付け根に。ゆっくり、しっとりとした仕草で、口付けていく。は、とこぼれる息は掠れてあまく。

「リトリア」

「……っ、ストルさん……?」

「そうだ。いいこだな、リトリア……俺のことを見て。そのまま、目を逸らさないで……かわいい。かわいい、おれの、りとりあ……」

 素直に。俺のことが好きだと。いってごらん。そのかわいいくちびると、こえで。左手の、薬指の、付け根に。歯を立てるように食んだ唇が離れ、リトリアの耳元であまく囁きかけてくる。

 いってごらん。昔みたいに。素直に、俺を。求めてごらん。意識に。刻み込むように、何度も、何度も。囁きかける声が、リトリアの意識を混乱させていく。思い出す。三月末のことだった。

 窓の外には春の花が。きらいだと言われた。うんざりすると言われた。この声で。この声で確かにストルは言ったのに。リトリアに、そう告げて。二度と会いたくないと言って卒業してしまったのに。

「リトリア」

 何度も、何度も囁く声が。頬に口付け、瞼の上に、鼻先に、唇を押し当てながら。どんなにか聞きたかった、やさしいやさしいその声が。何度も何度もリトリアを呼んで。あまりに。いとしいと。つげるので。

『――うんざりする』

「……っ!」

 頭の中でわん、と響いたその声を、はじめてリトリアは心の底から拒絶しようとした。言わない。ストルさんは絶対にそんなことを言わない。

 いまもこんなに私をすきでいてくれると、信じてほしいと言ってくれるこのひとは、決して決して私に。そんなことを。

『嫌いだ』

 言わない。それは三月の末のことだった。春の花の咲く頃だった。ぐるぐると渦を巻く砕かれた記憶が悲鳴じみた声でリトリアにそれを投げかける。そう。それは三月の末。春の花の咲く頃。そう言ってこのひとはいなくなってしまった。

 けれど思い出して取り戻して。ストルさんが。卒業したのは。ツフィアが。いなくなったのは。年が明けてすこしした頃。三月より前。花なんて咲いていなかった。喉の奥から悲鳴が零れる。

 内側に刻まれた魔力が荒れ狂い、その判断ごと削り取っていく。白く癒す魔術に溶け込み、隠れて。書きかえられた言葉がリトリアの想いを奪い去っていく。それでも、恐怖と苦しみが意識を閉ざしてしまうより、はやく。

 ストルの唇が、泣きだしそうなリトリアの目尻に、押し当てられた。

「泣いてもいい。……でも、信じてくれ、リトリア」

「ストルさん……」

「あいしてる」

 許可を求めるように。ストルの指先が、リトリアのくちびるを撫で擦った。

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