君はスピカ 03

 話そうよ、と楽しげな笑みを零してメーシャは言った。話そう、ソキ。なんでもいい。話をしよう。時間がかかってしまったけれど、でも、まだ、これからがあるから。これからの、たくさんの時間の、ほんのすこしでも。

 俺と一緒に、話をしよう、と告げるメーシャの目を覗き込みながら、ソキは入学式前のことを思い出していた。ロゼアを待つ部屋の中、ソキはメーシャと話をしていたのだ。あの時、メーシャの瞳には喜びが輝いていた。

 未来にうつくしいものがあると、そればかりを信じた純粋なきらめきだった。メーシャの瞳は瑠璃の色をしている。夜の、星がまたたく闇空の、ひときわ深い藍の色だとソキは思う。

 はじめて目にした時の、きれいな印象は損なわれず、そこにあった。ひかりさすのが希望ばかりではないと、もう理解して、それを受け入れて。しっかりと前を向いて。メーシャはきれいに、笑っている。

「メーシャくんは」

 その表情をまっすぐに見つめ返して、ソキはそっとくちびるを開いた。

「ちょっと、変わりましたです」

 ソキの見ていたメーシャなら。平行線の、距離を保った向こうで。ほんのすこし寂しそうに、けれども、これでいいのだと自分を納得させたように、きれいにきれいに笑うばかりのメーシャなら、それに、そうかな、と言った筈だった。

 ほんのすこし困ったように。ほんのすこし、寂しそうに。けれどもメーシャは、ソキの問いに、しっかりと頷いた。口元が甘く緩んでいる。幸せにそっと、指先が触れたのだと告げるように。

 メーシャはふわりと空気を和ませ、やわらかな表情で、笑う。

「そう……かな。変われていたら、いいと、思う。……ソキは、俺を変わったって思う? もしそうなら、嬉しいな……」

「はい。そう思うですよ」

「ありがとう。でも、ソキも変わったよ」

 そうでしょうそうでしょう、と誇らしげにソキは頷いた。入学した時よりずっと、ソキは歩くのに慣れたのだ。最近、ちょっとばかり体調不良であまり歩けていないのだが。

 身長もねえ、ちょっと伸びたんですよ、と笑うソキに、メーシャはそうなんだ、と頷いてくれた。

「ソキ、今身長どれくらいあるの?」

「んとねえ、百四十センチ、くらい、なんですよ」

「……くらい」

 思わず、だろう。口元を手で覆って肩を震わせるメーシャに、ソキはぷぷぅっと頬を膨らませた。

「あるんですよ! そき、ひゃくよんじゅっせんち、あるんですよ!」

「う、うん、うん。わかった、わかった……そうだね、あるよ。百四十センチ、あるよ」

「そうなんですよー!」

 先日はかった時に、ロゼアがやや遠い目をして、うん四捨五入すれば百四十になるな、と言っていたのは聞かなかったことにした。それでもちょっぴり伸びたのである。

「ロゼアちゃんもねえ、ちょっと身長伸びたんですよ。ナリアンくんも。メーシャくんも伸びたです?」

「うーん……どうかな。でも、まだ止まってないと思うから、伸びたかも」

「メーシャくんは体のつくりもきれいです」

 百八十センチを超すロゼアとナリアンと並ぶとやや低いだけで、メーシャの身長は百七十の後半である。すらりとした印象の体には、けれども弱々しい印象はまったくなかった。

 しなやかな筋肉が体を覆い、時折見せる俊敏な身のこなしが、体の動かし方を知りつくした者なのだと印象付ける。けれども、正式な訓練を受けていた訳ではないのだろう。

 屋敷で目にする『傍付き』たちや、ロゼアのような印象を受けることは、なかった。ただ、感心するばかりである。メーシャくんは本当にどこもかしこもきれいですねぇ、としみじみするソキに、メーシャは照れながら笑い、ありがとう、と言った。

「でも……うん、なんか、今のでよく分かったかな。やっぱり、っていうか」

「なにがです?」

「ソキは、ロゼア以外は男のひと、じゃないんだなぁと思って。俺も、ナリアンも、ユーニャ先輩とか、寮長とか……ストル先生とか、大人の男の人は、ソキの周りにたくさんいるよね。でも、ソキは全然そういう風には思ってないんだなっていうか……ああ、やっぱりロゼアなんだ、って」

 やっぱり、とその言葉を不思議そうに繰り返して、ソキはほんの僅か、眉を寄せた。

「ロゼアちゃんは、ロゼアちゃんです。……おとこのひと、なのは、知ってるですよ?」

「うん? うん、そうなんだけど。なんて言ったらいいのかな……」

 たとえばね、とメーシャは穏やかな声で囁いた。

「寮の女の子たちは、俺のことを男だと思ってくれてる。性別もそうだけど、異性としてみてくれてるっていうのかな。……でも、ソキは俺のことを一度もそういうふうに見ないし、これからもそうだろうなって思ったんだよ……まあ、俺のことはいいんだよ。そうじゃなくてさ、俺が言いたいのは」

 やや警戒する目を向けてくるソキに、メーシャは、なんだか楽しげに言った。

「ロゼアが本当に好きなんだなってこと」

「……ソキはロゼアちゃん好きですよ? 前から、ずーっと、ずぅっと好きですよ?」

 いまさらなにを言っているのだろう。不思議にまばたきを繰り返しながら首を傾げるソキに、メーシャはそうじゃなくて、と苦笑を浮かべた。声が囁くように潜められる。

「そうじゃなくて……ソキの目が、ずっと、ロゼアのこと、好きって言ってる」

「……だから、ソキはロゼアちゃん好きなんですよ?」

「あ、うん。それはわかるんだけど……なんていうんだろう。俺もあんまりよくわかってないんだけど、特別っていうのかな」

 とくべつ。言葉を繰り返して首を傾げるソキに、メーシャはちいさく頷いて続けた。

「そう。ソキのロゼアへの視線があまいって言うのかな」

「……あまい?」

 どうしよう、と。なぜか、それだけを思った。どうしよう、どうしよう。誰かに。自分以外の他の人に。心がもれて、零れてしまったような、焦りだった。鼓動が跳ねる。胸に。一瞬、熱いものがさした。

 それは熱のようで、それでいて、言葉にならない感情だった。なぜか涙が出そうな気持ちで、言葉に詰まる。はく、とくちびるを動かし、ソキは己の胸元を手で押さえた。どくどく、鼓動が高く鳴っている。

 指先が震えた。息を吸い込む。でも、とソキは言った。でも、だって、ソキは、ずっと。

「ずっと……ずっと、ロゼアちゃんは、ソキの特別なんですよ。ソキの『傍付き』だもん。ろぜあちゃんは、そきの……」

「ソキ」

 やさしく、やさしく、言い聞かせるように。咎めるのではなく、そっと、諭すように。メーシャは首をふって、しっかりとした声で、ソキに告げた。

「ロゼアは、ロゼアだよ」

 しってるです、と響きかけた声は形にならず、喉の奥に沈んでしまった。まっすぐなまなざしが、ソキのことを覗き込んでいる。

「傍付き、だなんて肩書きで呼ばないでほしい」

「……でも、でもろぜあちゃんは、そきの」

 ソキの『傍付き』だ。砂漠の国が誇るもう一つの芸術品。『花嫁』の為だけに存在し、整えられるもうひとつの至宝。『花嫁』がたったひとつ、完璧に、己のもの、と思うことのできる存在。ロゼアは、いつからか、ソキのものだった。

 ソキがロゼアの『花嫁』であるように。ロゼアが、ソキの、『傍付き』だったのだ。肩書き、という言葉に胸がつまる。震えるくちびるは言葉を失い、ソキは、弱々しく息を吸い込んだ。

 泣きそうに目をうるませるソキに、メーシャは慌てて息を吸う。

「ああ、ソキ、違う。怒ってるわけじゃない。叱っているわけでもない。ただ、俺はソキもロゼアもナリアンも、大事なともだちだと思ってる。大事なひとを、そんなふうに呼ばれるのは、いやだな。だから、俺もソキのことを『花嫁』とは呼ばないだろう? ソキは、入学式の時に、言ってたよね。『花嫁』じゃないって。もう、結婚しなくていいんだ、って」

 同じだよ、とメーシャは言った。

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