君はスピカ 02
ソキが、あれもしかしてお勉強とかもできないのではないですか、ということに気がついたのは、じゃあここから動くなよ、とロゼアに長椅子に下ろされ、お昼寝の準備を整えられ、腕の中にぽんとアスルを渡されてから四時間半後のことである。
昼下がりだ。朝から昼過ぎまでなにをしていたのかというと、ソキはひたすらナリアンにじゃれていた。隣に座って勉強をするナリアンの手元を覗き込んだり、服をひっぱってみたり、腕にじゃれてみたり。
日差しがあったかいからソキちゃんアスルを抱っこしたまま干してあげようね、と促されるままひかりさす長椅子に寝ころんでみたり。
気がつけば一時間程眠ってしまっていたのだが、起きたソキにナリアンは心得た微笑みで、アスルふかふかになったねよかったね、と告げた。その為、それはソキの中で『アスルを抱っこしたまま干してあげた』ことになっている。
ロゼアの指示である。ソキはちっとも気がついていない。
一回眠ると体がつかれていると訴えるのか、ソキはふにゃふにゃしながらロゼアが用意していった昼食を口にして、ナリアンが用意してくれたお茶で喉をうるおした。なんといっても水曜日。部活動の日で、茶会部なのである。
今日は部活できたですー、とひんやりとした甘さをふわりと漂わせる不思議なお茶を飲みながら、ソキはようやく気がついたのだった。あれおべんきょうできない。ナリアンが言っていたのは、温かい格好をしてお昼寝と、のんびりと、ひなたぼっこである。
談話室を歩くのもいけないし、そもそもロゼアは、ソキに動くなよ、と言って狂宴部に参加しに行った。今日は寮と授業棟の一部の床磨きとのことだ。
『覚悟しろ全員転ばすくらい磨き上げさせてやる! ぴっかぴかにな! 鏡のようにもしくは氷上のようにつるっつるにな!』
と迷惑この上ない題目は、ロゼア他砂漠出身者の猛抗議によって訂正がなされたらしい。
寮長はうんざりしながら、これだから砂漠は、というようなことを言っていたが、通りすがりに儀式準備部の活動へ向かうユーニャが、ひややかな笑顔で。
「寮長、それ、お花さん……ウィッシュも、俺たちと同じ廊下歩くって理解して言ってる?」
そう告げたことで、不満も消えたらしい。近くで寮長を見ていた寮生のひとりが、あっそれは駄目だまじうっかりしてた、と真剣な顔で頷く寮長と、分かればいいんだよ、とばかり笑みを深めて図書館方向へ歩き去って行ったユーニャのことを噂していた。
あの二人の力関係、時々よく分からない。それを聞いてソキも、ちょっと首を傾げて考えた。ユーニャはソキが入学した時から、なにかと話しかけてくれる先輩のひとりである。
好感を持っている先輩のひとりだが、寮長とどういう関係なのかはソキも知らないままだった。けれども深く考えかけ、ソキはほぼ同時におなじ結論に達したらしきナリアンと、真顔でこくりと頷きあう。
なんで知らないのかなど決まっている。寮長に対する理解を深めたくないからだ。積極的に、理解したくない、と思っているからだ。それ以外の理由など存在してたまるものか。
ソキとナリアンがよしなかったことにしよう、と頷きあい、お茶おいしいねー、とほやほやした空気で笑いあっている、さなかのことだった。本日の噂のかたわれであるユーニャが、慌てた様子で談話室へ飛び込んで来た。
「ナリアン! ……あ、いた、ナリアン!」
『え? ……俺が、なにか?』
寮長がらみのことだったら速やかにお引き取りください今日の俺にはソキちゃんの傍にいるという使命があるので、という顔つきで訝しむナリアンの意志をまるっと無視した態度で、走って来たユーニャは、勢いのままに後輩の肩を、がしぃっ、とばかり手で掴んだ。
「お前、確か写本師だったよな! なっ?」
『確かに、そうでしたけど……』
「じゃあ本の修繕作業とかできるよな……っ?」
必死なユーニャ曰く、儀式準備部の活動中、ちょっとした事故で図書館の一角を倒壊させてしまったのだという。
一部は保護魔術が間に合ってことなきを得たのだが、間に合わなかった本棚が砕け木片と化し、本は折れまがったり表紙がもげたり散々な状態であるらしい。ナリアンは白い目でユーニャに問いかけた。
『先輩はなんの準備をされていたんですか……?』
「いやちょっとテンションあがって」
『なんの……準備で……?』
そもそも図書館は知の保管庫だ。そこにかけられている保護魔術はちょっとやそっとではびくともしないくらい強いものなのに、なぜそこまで倒壊するというのか。ユーニャはふわりと笑って、ナリアンの肩をぽんぽん、と手で叩いた。
「だから、ちょっとテンションあがっただけなんだって……ともかく、助かった。修繕の仕方、教えてくれるか?」
『いいですけど……』
移動するのはちょっと、とばかりナリアンがソキに目をやってしぶる。ソキ勝手に移動したりしないですよぉー、とぷぷぅっと頬をふくらませて拗ねるソキに、すぐユーニャは事情を理解したらしい。
だったら、とユーニャが談話室での本の修繕講座をナリアンに依頼した。だからナリアンくん、今せんせいなんですよー、と不思議そうなメーシャに説明しながらソキが指差した先、ナリアンはユーニャをはじめとした少年少女に取り囲まれている。 冊の本を手元にごく真剣な横顔を披露するその姿は、普段の穏やかな表情とは違い、ソキにもメーシャにも物珍しく感じるものだった。実際の作業に入る前に、ナリアンは紙に図を書き起こして説明しているらしい。
さらさらとペンが動かされるたびに歓声が上がったり、しきりと感心されたりするので、ナリアンはやや照れながら視線を彷徨わせていた。が、すぐ、真剣な顔つきで説明が再開される。
ナリアンくんすごいですー、と感心しつつ自慢げに言うソキの隣に、そうだね、と言ってメーシャが腰を下ろした。そこではじめてようやく、ソキはちょこん、と首を傾げ、にこにこ笑っているメーシャを見た。
「メーシャくん?」
「なに、ソキ」
「なにかソキにご用事だったです? それとも、部活動の通りすがりです? 休憩なんです?」
メーシャは委員会部だ。何回聞いてもソキにはいまひとつなにをする部なのか分からないのだが、先日は掲示板に張るお知らせを妖精と一緒に入れ替えた、と言っていたので、なんとなくそういうこともするのだろう、と思っている。
今日は部活動は休みなんだ、と告げるメーシャにふぅんと頷き、ソキは幾度か瞬きをした。メーシャが自分からこうしてソキの傍に来ることは、すこしばかり珍しい。ナリアンも、ロゼアも一緒にいない時であるので、さらに稀なことだった。
別に苦手にされている訳ではない、ということを知っている。そんな相手ならほぼ毎回食事を一緒にする訳がないし、なにより体調を崩してしまったソキを見るメーシャの瞳には、本気の心配と不安、時折ちらつく悔しさや、怒りの影があった。
大事に想ってくれていることを、知っている。けれどもメーシャは入学してからずっと、距離があった。特にソキとは、近く、ではなかったのだ。
それはまっすぐな、二本の平行線にすら似ている。寂しくはなく、遠くはなく、けれど温かくはなく、近くはなく、親しくはなかった。どこかそっと距離を保ったままこちらを見つめてくるメーシャのことを、ソキはずっと見ていた。
手を伸ばすことはなく。呼ぶ声はなく。それでも、消えてしまわないかと目を離すことはできないで。見つめていた。きっと、互いに、そういう二人だった。
「ソキは、俺がなんの用事もなく、傍に来るのいやかな」
それなのに。パーティーを境にして、メーシャはすこしだけ変わった。流星の夜を超えてからなにかを考え、悩んでいたことはソキも知っている。それでもメーシャはまだ悩んで、立ち止まっていた筈だった。あの夜を終えるまで。
とん、と足を踏み出して、一歩、歩み寄るように。恐れるなにかを克服したのとも違う、それを、もう大丈夫だと包みこみ共に連れて行く。そんな風にして。メーシャは、ソキとの距離をすこしだけ、近くした。
「仲良くしようよ、ソキ。ロゼアと、ナリアンばっかりじゃなくて、俺ともお話してくれる?」
「……メーシャくん、ソキとお話したいです?」
「うん。ソキのこと、知りたいな、と思って」
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