君はスピカ
君はスピカ 01
ふあふあした温かい空気が部屋中に満ちていた。まどろむソキの意識は、衣擦れの音にかすかに震える。寝台が音を立てて軋み、笑みを滲ませた吐息が肌を撫でて行く。ぼんやり、ソキは瞼を持ち上げた。
ふぁ、とあわくあくびをしながら、もたもたと瞬きをして目の前を見つめる。
「ろぜあちゃん……」
「うん。おはよう、ソキ。……気分はどうだ?」
「……ふぁ。そき、ねえ……ねむい、ですよぉ……」
そうか、と頷きながら、ロゼアのてのひらがソキの頬に触れた。やさしく、ゆっくりと、決して傷をつけないような慎重な動きで、肌の上を指先が滑っていく。くすぐったいような、甘いような変な気持ちで、ソキは閉じた瞼を震わせた。
ろぜあちゃん、と呼ぶ。うん、と返事をしながら、ロゼアは慣れた動きで頬の手をそのまま、眠り横たわるソキの頭の後ろに潜らせ、指に絡めるように髪を梳いて行く。
するする、ロゼアの指に触れられる髪に、ソキはくちびるをふわりと和ませた。二度、三度、髪を梳いてからシーツの上へ散らばせて、ロゼアの手はソキの肌に戻ってくる。
なめらかな線を描くほっそりとした白い首筋に、やや硬い皮膚が、添うように押し当てられた。鼓動がじわじわ強く、あがっていく。熱が出てしまいそうな気持ちでソキはくちびるにきゅうと力を込め、下ろしていた瞼を持ち上げた。
ロゼアの手はまだ、ソキの首筋に押し当てられている。
「……ろぜあちゃん」
「ん?」
伏せられていた視線が、穏やかな色でソキを見つめた。なに、と囁く声で問いかけられる。それに、ソキはうまく言葉を紡げない。体中がずっとざわざわしていて落ち着かない。嬉しくて、しあわせで、それなのに泣きそうになる。
ろぜあちゃん、ともう一度ソキは呼んだ。
それにまた、うん、とだけ返事をして、ようやくロゼアはソキの首筋からてのひらを離した。ようやく落ち着いたような、さびしいような気持ちでソキは息を吐き出しかけたが、それよりはやく、また頬に触れられる。
くっと指先が顎を上向かせるようにして、ソキの顔をあげさせた。ロゼアの前髪が、ソキの額に触れる。すがるように、ソキはロゼアの肩口の服を掴んだ。起きてから時間が経っているのだろう。
冷えた布のつめたさが、ソキの指をよわよわしく震わせた。ふ、と吐息が鼻先を掠める。ごく穏やかな仕草で、額が重ねられた。
「ソキ……ソキ」
落ち着かない気分でいることは分かられているのだろう。大丈夫だ、安心していいよ。俺がいるから、と告げるように、何度もロゼアが名前を呼んでくる。
くすぐったい、泣きそうな気持ちで名を呼び返しながら、ソキは安堵したように離れて行くロゼアを見つめていた。胸がずっとざわざわしている。
「……ソキ?」
くたりと寝台に体を預けたまま起き上がろうとしないソキを見つめ、ロゼアは訝しく、心配そうに眉を寄せた。
「起きられないか? 熱はなかったけど……気持ち悪い?」
「だいじょうぶです、大丈夫……起きるです」
触れられた場所が、全部、ぜんぶ、ざわざわして甘くしびれていて落ち着いてくれない、だけで。瞬きをして気持ちを落ち着かせ、ソキはロゼアの手を借りながらゆっくり、ゆっくり寝台の上で体を起こした。
ロゼアは用意しておいた服に着替えさせるか、このまま寝かせておくべきか悩む表情でソキのことを見ている。ソキは慌てて、ロゼアの服の袖を引いた。
「ロゼアちゃん。ソキ大丈夫なんですよ、ほんとうですよ」
「うん。……朝食が食べられたら、今日は起きていような」
つまりロゼアが安心するくらい食べられなければ、戻って部屋で寝かされる、ということである。今日は授業のない水曜日であるので、ロゼアも一日、部屋でついているつもりなのだろう。
やぁんやぁんもう元気なんですよぉ、とくちびるを尖らせるソキにロゼアは微笑みを浮かべ、それだけで、なにも言ってはくれなかった。
果物がたっぷりはいったヨーグルトに、くりかぼちゃのスープ。ソキのにぎりこぶしよりちいさい、ふわふわの白いパンをひとつ。それに、ナリアンからのおすそわけプリンがひとくち。
ソキとしてはとてもとても頑張った結果なのだが、ロゼアが自由に動く許可を下すのには十分でなかったらしい。朝食を終えたソキを抱き上げたロゼアは、起きててもいいよ、とは言わなかった。
案じる眼差しでソキの目を覗き込みながら、頬を撫でるように触れた手が髪を梳き、首筋にやわらかく押し当てられる。
ん、と考え込むロゼアは幸いまだ立ち上がったままで歩もうとはしていなかったので、ソキは慌ててぷーっと頬を膨らませた。ぺちぺちぺちっ、とロゼアの背を叩いて抗議する。
「ろぜあちゃん、ソキごはんたべたです! たべたですぅっ!」
「うん。頑張ったな、ソキ。偉いぞ」
にこっと笑いながらも、ロゼアはソキが望む言葉を告げてはくれなかった。首筋から離れた手が頬に触れ、指先がするすると額を撫で、髪を散らして額が重ねられる。
うー、うーっ、と目を閉じながらむずがって、額が離れた所で、ソキはぱっちりと瞼をもちあげた。
「ねつ! ないです! ないですよ!」
「うん。そうだな。今は熱下がってるな」
まるでこれから熱が上がるかのような口ぶりである。これはいけないです、とソキは思った。ロゼアの手は宥めるようにソキの背を撫でている。
そのやさしい動きと熱にほにゃほにゃと体から力を抜いて腕の中に甘えながら、ソキはがんばって気を取り直し、ぷーっと頬を膨らませた。
「ろぜあちゃん、いじわるぅ……!」
『談話室にいるくらいならいいんじゃないかな、ロゼア』
くすくす、微笑ましく囁くような意志を響かせたのはナリアンだった。ナリアンは食べ終えた食器を重ねて持ち、立ち上がりながら、しぶい顔をするロゼアと、満面の笑みを浮かべるソキに問いかける。
『ね、ソキちゃん。談話室で大人しくできるもんね? 温かい格好して、長椅子の上でお昼寝したり、ひなたぼっこしたり、お茶飲んだり、したいよね? 一応、お昼寝の準備もしてもらおうね。それで、談話室の中を歩き回ったりはしないで、長椅子の、上で、ゆっくりしていようね?』
「……ソキ、ナリアンの言う通りにできるか? それならいいよ、起きてても」
「わぁい! ソキ、ナリアンくんの言う通りできるですー!」
きゃあぁあっ、ロゼアちゃんだいすきだいすきナリアンくんありがとうですっ、とすりすりと肩口に頬を擦りつけて甘え喜ぶソキを見つめ、メーシャは苦笑しながら問いかけた。
「ロゼア」
「なに?」
「……罪悪感とか」
ロゼアははしゃぐソキの背をやわりと抱き寄せながら、いっそ不思議がる表情できっぱりと言った。
「ないよ。なんで? ソキの希望は聞いただろ、俺」
寝てないで起きていたい、っていう。じゃあお昼寝の用意とか整えて談話室に行くから、と歩き去るロゼアの腕の中から、ソキがまたね、とばかりナリアンとメーシャに手を振った。
二人が見守る先、食堂の出入り口付近で、ソキはそれに気がついたのだろう。きゃあぁっ、と慌てた悲鳴がもれ、ぺちぺちとちいさな手がロゼアの背を叩く。
「ロゼアちゃん! ソキあるく、あるくです! あるいてロゼアちゃんのお部屋かえるですっ、やぁんやぁんっ!」
「んー、夕方にソキが起きてたら、手を繋いですこし散歩しような」
「ろぜあちゃんだいすきですー!」
きゃあきゃあはしゃぐソキを抱き上げたまま、ロゼアが自室のある方向へ消えて行く。通りすがりにナリアンの頬を突いて真剣に嫌がられながら、寮長が白い目でぼそりと呟く。
「なんだあのハイパーちょろいの……」
水曜日の夕方、ソキはだいたいの場合昼寝をしていて、健やかに眠っている。茶会部の活動中でもそうであるし、たまに談話室でナリアンと勉強をしていても一度は必ず眠るので、寮生なら誰もがそれを知っていた。
三時過ぎから六時くらいまで眠るので、起きるのはおおまかに、夜、と呼ぶような時間のことである。それをまさか、ロゼアが失念している訳がない。ソキは気がつくのかな、と遠い目をするメーシャに、ナリアンはふるふると首を横にふった。
寮生たちも、苦笑いをしながら頷く。ソキはたぶん気がつかない。やぁん寝ちゃったです夜になっちゃったですよ、としょんぼりするソキの姿は、あまりに簡単に想像することができた。そうだな夜だな、と微笑みながら慰める、ロゼアの姿も同様に。
砂漠を出身国に持つ者たちが、仕方がないよ傍付きだもの、と言いたげに笑みを深める。
砂漠出身者ちょっと意味分からない、という空気が食堂に漂っていた。
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