おんなのこのひみつのおはなし 07


 心地良い熱に全身が包まれている。浅く息を吸い込んで、ソキは目を覚ました。ぼんやりと瞬きをする。寝台の近くに置かれた火はすでに消されていたが、部屋はほの甘い光に照らし出されていた。

 体を起こしながら視線を向けると、書きもの机にロゼアが伏せて眠ってしまっている。勉強をしていたのだろう。教本とノートが開かれたまま、動かない手の中にペンが握られていた。

 ソキは長いことロゼアの背を見つめ、胸に手を押し当てて息を吸い込む。名を、呼ぼうとした。その時だった。砂の、音がした。

 砂漠の砂がきよらかに降り積もる音だった。雨風に砕かれ風に運ばれたもっともきれいな砂は、触れる指先をすり抜け決して肌を汚さない。光に透き通り淡く金に艶めく、その、砂の音がした。

 封じられた砂時計がどこかで逆さまにされたように。静かな音を立てて降り注ぎ、積もっていく。

 こっち、と誰かに腕に触れられ引っ張られたような気がして、ソキは顔をあげた。柔らかい光と熱の満ちる部屋に、ソキとロゼア以外の姿を見つけることはできなかった。ソキはくちびるに力を込め、導かれたように立ち上がった。

 本当に数日ぶり、なんの助けも借りないで立ち上がった体が震え、足元がよろける。それだけで息切れがした。さらさらさら、砂の流れる音がする。きれいなきれいな砂の音。逆さまにされた砂時計。

 封じ込められた時が尽きる前に。行かなければいけない、と、思った。ゆっくりと本棚に歩み寄り、ソキはそこから己の武器を取り出した。抱きしめるように胸に抱いて、頷き、歩き出す。

 じれったいほどの速度で、ソキがロゼアの部屋から出て行く。その、あとのことだった。

 宝石を砕いて砂にしたような欠片が、ぱらぱらと寝台の上、ソキの眠っていた場所に降り注ぐ。淡く艶めく薄い黄の砂に、碧の欠片も混じっていた。

 きらめきの欠片は部屋を照らし出す火に乱反射し、その輪郭はひとりの少女のかたちを浮かび上がらせる。無音の靴音を奏で、それは眠るロゼアの元へ歩み寄った。火にあかく照らされ、瞼をとざすさまをじっと見つめる。

 くちびるがその名を呼んだ。音なく、声なく、ただ愛しげに。ぎゅぅ、とロゼアの瞼に力が込められる。うっすらと開かれた赤褐色の瞳が、それを見つめ、訝しげに名を呼んだ。

「――ソキ?」

 それは、しあわせそうな微笑みを残し、瞬きの間に消え去った。後には静まり返る部屋だけが残る。寝ぼけたのか、と思いながらロゼアは伸びをして、寝台を振り返り、目を見張る。そこで眠っていた筈のソキの姿が、消えていた。

 はっと息を飲んで椅子から立ち上がる。閉ざされていた筈の扉が、中途半端に開かれていた。暗く静まり返った廊下には、誰の姿も見ることができない。砂が降っていた筈の寝台には、なにも残されていなかった。




 名前を呼ばれた気がして、ソキはぱちりと瞬きをした。その瞬間、体にはっきりと意識が戻る。あれ、と息を吸い込んでソキは首を傾げた。いつの間にか、ソキは薄暗い一室の中に立っていた。

 小規模な図書館、あるいは広めに作られた個人の書斎を思わせるその部屋に、覚えがあった。武器庫の中。予知魔術師の武器が眠る、その部屋の中である。等間隔に本棚が並び、開かない窓の傍には書きもの机が置かれていた。

 そこに、誰かが、ソキに背を向けて座っている。

「……すまないけれど、いま、手が離せないんだ」

 振り返ることなく、ソキに声がかけられた。男のようにも、女のようにも聞こえない、ひどく不思議な印象の声だった。椅子に座る後ろ姿はほっそりとしていたが、背を丸めてなにか作業をしている為に、身長が高いのか低いのかすら分からない。

 机の上には火の入った灯篭が置かれている。かすかな心地良い、物音だけが響いていた。

「ああ、だめだ。……できれば間に合わせてあげたかったけれど、今はまだ難しいね」

 溜息をつき、目元を指で押さえたのが床に落ちる影の形で分かった。動けないソキに、影の主が振り返る。こんばんは、と柔らかく笑む面差しは甘いつくりで、はじめてソキはそれが男性だと分かる。三十代半ばくらいに見える男だった。

 椅子に座ったまま脚を組み、ゆったりと手を組んで、ソキを見つめるまなざしは優しい。誰、と問おうとソキがくちびるを開き、息を吸い込む動きが見えたのだろう。まるでその問いを拒否したがるかのような微笑みで、男はソキを手招いた。

「おいで。間に合わなかったけれど、どうにか、形だけは修復が終わったところだ」

「……しゅうふく?」

「写本の修復。……さ、こちらへおいで」

 その声を、どうしてか拒否することができない。眉を寄せながらもこくりと頷き、ソキはそろそろと足を踏み出し、男へと歩み寄った。火の明りがソキに触れる程近くまで行くと、作業机が目に入る。

 机の上には紙束と針と、インクと、たくさんの紙と、そして。真新しい、一冊の本が置かれていた。表紙には布が張られる予定なのだろう。

 色とりどりの帆布が机の端に寄せられていたが、一番近くに置かれていたのは、赤褐色に染められた一枚だった。ただし、力任せに引き裂かれたかのように、ぼろぼろの布切れになっている。

 よく見れば真新しく整えられた本も、中に使われている紙はよれていたり、しわが入っていたり、きれいなものは一枚もないようだった。表紙だけはようやく、汚れを落とし終えたのだろう。誇らしげに火の熱に触れ、きれいな白に戻っていた。

 水から掬いあげたばかりの、真珠のような色だった。

 花嫁の色だった。

「君の本だよ」

 男が言った。本を見つめ、息を止めてしまったソキに囁くように。

「予知魔術師。失わされ、壊され、穢されてしまった、君の……君の武器。君の写本だ」

「でも、ソキの、本は……!」

 ようやく息を吸い込み、告げながらもソキはその本から目が離せないでいた。泣きたいくらい、すぐに分かった。これも、ソキの武器だ。それでも否定するのは、ソキがこの部屋で本とすでに巡り合っているからだ。

 今、胸に抱く純白の帆布が張られた本こそ、予知魔術師としてのソキの武器。その筈だった。不意に、眩暈と共に夢がよみがえる。白いページが風にめくられ、本が歌い告げていた。たりない、たりない、と。

「あ……れ……?」

 息苦しく喉元に手を押し当て、ソキは何度も瞬きをした。怖い、と思った。同時に、ざらりと魔力が揺れるのを感じ取る。砂漠のすなが、吹き荒れる風に押し流されてしまうように。魔力が揺れて、息が苦しい。

 男は慌てる様子もなくソキの腕を掴み、その瞳をまっすぐに覗いて言う。

「思い出せ、予知魔術師。君が目覚めたのはいつだった。魔力をはじめて視認したのは?」

「……ソキ、は、ソキは……あ、れ」

 思い出す。空気中にきらめく星の欠片。たくさんの色が浮かんでは消えて行く。砂粒のような細かい光。太陽のそれとは全く違う、陽光を乱反射する魔力の粒。パーティーの時に見た光。それに眩暈を感じたのはどうしてだったんだろう。

 それに、どうして。見覚えがあると思ってしまったのだろう。空気中に溶け込む夥しい歓喜。毒のように輝いた魔力の光。

「思い出せ。君がいつ予知魔術師として目覚め、そして」

 男は、一度、迷い。そして、苦しげに言い放った。

「壊されたのか」

 ふ、と闇の中に閉じ込められた。目の前がまっくらに塗りつぶされてなにも見えない。瞬きしてもなにも分からない。けれど、ちがう。しっている。あの部屋にはひかりがあった。太陽の光ではなかったけれど、それはなにかを乱反射して煌いていた。

 星のようだった。満天の星空のように明るく、だから、眩暈がしていた。はじめて視認した魔力の輝きに、酔ってしまったのだ。楽しげな笑い声がする。

『ああ、ほぉら、やっぱりネ。……キミが僕のお人形さんだ』

 おぞましいほどの喜びがそこにあった。零れ落ちる魔力が息苦しいほど、部屋中を埋め尽くしていた。もがく腕に枷がはめられ、典雅な音を立てて寝台に落ちる。

『予知魔術師。キミはそう呼ばれる。魔術師なんだよ……そして、ボクのお人形さんだ。ようやく巡り合えた』

 浅く、速く、ソキは息を繰り返す。ばらばらに散らばった記憶の欠片に指先が触れる。怖い。怖くて痛い。痛くて痛くてたまらない。でも。ぎゅぅ、とくちびるに力を込めて、ソキはその感情を耐えた。むずがるように首をふって考える。

 怖いのはどうして。痛いのはどうして。今はまた、忘れてしまうとしても。思い出さなければいけない。忘れてしまっても、一度、思い出しさえすれば。武器がそれを守ってくれる。

『だから――これはいらないね、お人形さん』

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