言葉を鎖す、夜の別称 27

 問いを、響かせ終わるより、はやく。囁く声が蘇らせる記憶に、ソキの全身を恐怖が貫いた。言葉魔術師。鎖の音がする。手首を戒める鎖。脚になにもされなかった理由を知っている。ソキはひとりで歩けないからだ。

 助けを求める喉に手が触れ、締められた理由を知っている。ロゼアの名を呼んだからだ。太陽の光が届かない風の吹き込むことのない冷たい全ての音が人の気配が遠ざけられ閉ざされ鎖された部屋に閉じ込められて、そして。

『――これはいらないね、お人形さん』

 やめて。もがく腕は鎖に繋がれすこしも動かすことができなかった。ソキは知っていた。それがどんなに大事なものか。誰に習った訳ではなかったけれど、物心ついた時にはすでに分かっていた。

 それはいつかロゼアに必要になるものだ。大事に大事に、ソキが持っていなければいけなかったものだ。だから。だからさわらないでやめてやめておねがいなんでもいうことをきくからいいこにするからやめておめがいやめてやめてやめて。

『壊してしまおう。キミは『 』でなくとも』

 それがこわれたら。ろぜあちゃんは。

『ボクの道具であれば……それだけでいい』

 砕かれた衝撃と痛みと絶望が、記憶を粉々の欠片にして降り積もらせる。ソキは、はじめてその欠片に触れた。痛い。痛くて、痛くて、息ができない。くるしい。

 胸に両手を押し当てて首を振りながら、ソキは怯えた眼差しで凍りつくツフィアに視線を向けた。信じられない、と言いたげに目を見張り、ツフィアが掠れた声を震わせた。

「……あなた」

「こないで……ソキを、つかわないで……っ!」

 怖い。怖い、怖い、こわいこわいこわいこわい。知っている。その瞬間から、ソキは知っている。使われてしまう。抵抗なんてできない。魔力を抱いておく為のそれごと、盗られて壊され砕かれてしまって元に戻せない。

 痛い、怖い。涙を零して嫌がるソキに、ツフィアは眉を寄せた。

「誤認しているの? ……いえ、違う、これは……」

「……あの」

 静かな声がツフィアの足を止め、振り返らせる。その姿を女ごしに認め、ソキが泣きながらハリアスちゃん、と呼んだ。

 ハリアスはハッとしたようにソキの姿を認めると、ツフィアと見比べ、隣をすり抜けて少女の元へ行くべきかどうか迷う眼差しで、短い問いを口に乗せる。

「お知り合いですか? ソキちゃんと」

「いいえ。……もう行くわ」

 泣かせるつもりなど、なかったのだと。怖がらせてしまったことを悔いるように唇に力を込め、ツフィアはソキを見ずに身を翻し、立ち去っていた。その視線を向けるだけの動作であっても、怖がらせてしまうだけだと、知っているようだった。

 その背に声をかけるべきだったのか迷いながらハリアスが立ちすくんでいると、小走りに、訝しげな顔をした妖精が戻ってくる。

「なに? どうかしたの? ……ソキ? ソキ、ちょっと、どうしたのっ?」

「ソキちゃん……?」

 ちょっとアンタも来なさいとばかり妖精に腕を掴まれ、ハリアスは不安げに顔を曇らせながらソキの元へ向かった。屈みこんだ妖精の手が頬に触れ、そのぬくもりに、全身に散らばった痛みがすこしだけ落ち着いた。

 いたい、と言葉に出せず泣くばかりのソキを見て、ハリアスが口元に手を押し当てる。

「魔力が……」

「溢れかけてるわね。……ソキ、ソキ、いいこね。大丈夫、落ち着いて……落ち着きなさい、ね」

 恐れ呻くように告げたハリアスの言葉を、妖精が冷静に引き継いで眉を寄せる。七色の水の波紋が空気を染め上げるさまを、魔力を持つ者であるなら誰もが視認したことだろう。それは暴走の前兆に他ならない。

 荒れ狂う意志が、感情が、魔術師の体という枷を食い破って外側に溢れだそうとしている。どうしたら、と焦るハリアスを視線で呼び寄せ、妖精はソキの傍らに少女を座らせた。

 痛いくらい力を込めて手を握られているであろうに、その痛みを一切表情に出すことはなく。ソキ、ソキ、と優しく名を呼びかけながら、妖精はその合間に、ハリアスに言った。

「アンタ、ソキの知り合いね? ……親しい方?」

「はい。ハリアスと申します、妖精さん。ソキちゃんとは……よく、話をします。一緒に勉強したり……」

「そう。……なによ、アンタ友達いるんじゃない」

 安心した、と目を和ませて笑いながら、妖精はそっと身を屈め、ぼろぼろと涙を流すソキの目尻に口付ける。

「話しかけてやって。安心させてあげて。……こんな時に居ないとかなに考えてるのかしら」

「どなたが……?」

「ロゼアよ、ロゼア。アイツがいたらソキはすぐに落ち着くわ。……ソキ、ソキ。どうしたの? 言えるわね? ほら、ちゃんと教えて。そうしたら守ってあげられる。教えて、ソキ。……どうしたの? 怖いの? もう、大丈夫。大丈夫よ……」

 震えて、すがるように妖精の手を握り締めたソキが、色を失ったくちびるを無音で動かした。ゆっくり、ゆっくり。その形を読みとり、妖精は悔しそうに頷いた。怖い、と。痛い、としか、ソキは言わなかった。

 妖精はその意味を知っている。呪いだ。形は消し去られたという。仕組みはなくなったのだという。けれども恐怖の記憶は消えることなくこびりつき、ソキの心を苛んで行くのだ。そう、と静かに呟き、妖精はソキの手に頬を寄せた。

「……なにが痛いの? なにが、怖いの……?」

 ソキは辛そうに目を閉じ、くちびるを噛んで首を振った。いやいや、むずがる仕草がまた魔力を溢れさせていく。聞きだすことは難しいだろう。落ち着きなさい、と叱咤しながら、妖精はハリアスに視線を走らせた。

 ちょっとアンタもなにか言ったらどうなの落ち着かせてやってと言ったでしょう呪われたいの、と脅されて、口元を引きつらせたハリアスはちいさく首を振る。ハリアスは息を吸い込んで、ソキを見て。

 言葉なく、ただ、その肩を抱き寄せた。なにを告げるのが正解なのか、分からず。それでも、なにか、伝えたくて。

「ソキちゃん……」

 数日前、花嫁衣装を見て泣きじゃくるソキに、ハリアスはなにも告げることができなかった。本当に辛そうに、そしてまた、溢れる喜びをどうすることもできないように。

 泣いて、泣いて、それだけしかできない年下の少女に、かける言葉など本には載っていない。いくら勉強しても、人と触れ合う正しさを教わることはできない。間違ってしまうのは、ハリアスにとってちょっとした恐怖だった。

 けれど。ハリアスちゃん、と不思議そうに呼びかけてくる、無垢なまでの瞳で見つめてくるこの存在を。助けて、あげたかった。ぎゅっと手に力を込め、ハリアスは息を吸う。

「痛いのなら、私は白魔術師です。癒してあげられます」

「……ハリアスちゃん?」

「怖いことは、私もどうすればいいのか、分かりません。……でも、怖くなくなるまで、こうして、傍にいることはできます。怖くないです、と言ってあげることもできますが……ソキちゃんがなにを怖いと思っているのか、私には分からないから。だから……もし、それを教えてくれるなら」

 一緒に考えることができます、とハリアスは言った。まっすぐな意志で。図書館で、予知魔術師の本を取ってあげた時、一緒にがんばろうね、と囁いた時と同じ気持ちで。それ以上に、強く。

「どうすれば怖くなくなるか、考えて、平気にしてあげられることが、できるかも知れません」

 ぼんやりと、ソキの目がハリアスに向けられる。

「……ハリアスちゃんは、なにが……怖いの……?」

「わ、私はその、メーシャさんの真剣な目と……か……い、いえ! 私のことは今関係ありませんのでっ!」

 妖精から向けられる、へぇアンタそうなのそういう、と白い目を大慌てで手をふって否定して、赤らんだ顔でハリアスは叫ぶ。それを見て楽しそうにくすくすと笑い、ソキはようやく落ち着いたように、緊張しきった体から力を抜いた。

 ふわり、瞼を閉じる。あ、とハリアスが声をあげ、妖精が安堵の息を吐きだした。溢れていた魔力が、きらめきながら収縮していくのを感じる。

 それでもまだ恐怖の名残を残し、震える手を妖精の手の中から引き抜いて、ソキは殆ど無意識に己の左手、人差し指の根元に口付けた。祈るように、声が漏れて行く。泣くように、すがるように呼ばれた名が誰のものであるか、妖精もハリアスも分かっていた。

 ソキの傍らに膝をつきながら、妖精の瞳がハリアスを見る。

「呼んできてくれるかしら。アタシはここで、ソキを見てる。シディが傍にいるから、すぐに分かる筈よ」

 妖精の気配は、そうと思って追えば魔術師にはすぐ判別できるものだ。その方法を教わっていない新入生には難しいだろうが、ハリアスはその術を知っている。

 はい、と頷き立ち上がり、ハリアスは僅かばかり、ソキを案じる眼差しで眠りゆくような姿を見つめ。ぱっと身を翻して、まばゆいパーティーの光の中へ飛び込んで行った。

 急いで、と呟きだけで見送り、妖精は目を閉じたままむずがるソキに指先を伸ばした。一度は落ち着いたものの、また恐怖がぶり返して来たのだろう。魔力をあふれさせるようなことこそしなかったが、閉じた瞼からは次々と、涙があふれ出していた。

 丁寧に拭ってやりながら、妖精はソキと手を繋いで囁く。

「……怖いの?」

 こくん、とソキは頷いた。いやいや、幼く首が振られる。なにが、と問うても分からないくらい、恐怖に塗りつぶされた感情がそこにある。手を握って寄り添うことなら妖精にもできる。肩を抱き落ち着かせることなら、ハリアスにも可能だった。

 それでも。その腕に抱き締めて背を撫でて、安心させてやることは。きっと、ロゼアにしかできない。はやく、と苛立ち祈るように思いながら、妖精はソキの手を撫でる。手袋ごしで肌に触れられず、直に熱を伝えられないことがもどかしかった。

「痛いの?」

 また、こくん、とソキが頷く。泣き濡れた瞳が、よわよわしく瞼を持ち上げて妖精を覗き込んだ。

「りぼんちゃん……」

「なに?」

「リボンちゃん、リボンちゃん……いたい、です」

 痛みを、訴える言葉であった筈だ。蒼白な顔色と、なにかに怯えて泣き続ける瞳の恐怖が、それを物語る。彼方からようやく、いくつかの足音が聞こえてくる。

 それに遅いと舌打ちしながら、妖精は震えながら瞼を下ろしてしまったソキを、じっと見つめた。怖い、痛い。そう訴え続ける言葉の隙間に。会いたい、と泣き叫ぶ願いが、聞こえた気がした。


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