言葉を鎖す、夜の別称 20
「ソキ」
「ろぜあちゃ――……」
名前を呼びかけた喉が、それ以上言葉を紡げずに息だけを吸い込んだ。部屋の奥、窓の近くに置いてあるソファから、ロゼアはちょうど立ち上がったばかりのようだった。しなやかな体がゆったりと、背筋を正して窓辺に立つ。
ちょうど入学式の夜、部屋にやってきたソキを出迎えた、まさしくその位置で。ロゼアはソキのことを見ていた。ロゼアは、砂漠の正装を身に纏っていた。
恐らくは絹の仕立てであろう目の覚めるような鮮烈な白い布地の上着に、真珠色の糸でびっしりと刺繍が施されている。裾が長めのズボンは脚のかたちをきれいに見せながらも、動きやすそうな軽やかさだ。
頭に巻く布も、ズボンと同じく上着と同じ布地で作られている。腰帯だけが、艶やかな夜の色をしていた。星々のさんざめく真夏の砂漠。その夜のもっとも暗く、もっとも艶やかな、夜の色。
金と漆黒の糸で刺繍のなされた腰布に、恐らくは本当に隠して縫い付けられたであろう一粒きりのトルマリンを見つけ、ソキはなぜかひどく、狼狽した。
無意識に胸元の、布に隠れて見えない位置に書かれた『花』を指先で押さえ、視線を持ち上げて、ロゼアの顔をみて。
その、やわらかな眼差しに。反応もできないでいるソキを心配そうに見つめながらも、完成されきった己の『花嫁』を見守る慈しみ溢れた表情に、なぜか泣きだしたい気持ちになった。胸の奥がひどくざわつく。
吸い込む息にすら指が、全身が震えてどうすることもできない。それなのに一時も、ロゼアから目を離すことができなかった。煮詰めた飴色の手が、どんなに優しいか、その腕の中がどんなに安らぎ、温かいのか、ソキは知っている。
知っているのに。ふるえるほど、それを、恋しいと思った。
窓辺に立ち、砂漠の正装に身を包み、ソキを見つめるロゼアのことを。殆どはじめて、男性だと意識する。
「ソキ?」
『ソキちゃん?』
いつまでもロゼアから視線を外さず、動けないままでいるソキに、メーシャとナリアンが不思議そうな声をかけてくる。それに、どうにか返事をしようとして、まばたきをして、息を吸い込んで。
それでも、囚われたように視線を向けたままでいるソキに、ロゼアがやや困ったような笑みを浮かべてゆるく、首を傾げた。その、甘くほどけるような微笑みに。うっすらとターバンの影を落とす首筋。
眼差し、細められた目の奥の赤褐色の瞳に。すべてに。胸の奥がきゅぅと音をたてて痛み、同時にソキは、その頬を瞬間的に朱で染めた。
「ソキ!」
「きゃぁっ!」
急にソキが赤くなったので、驚いたのだろう。声をあげて駆け寄ってこようとするロゼアに、ソキはぴょん、と思わずその場で飛び跳ねた。足を止めたロゼアがいぶかしく首を傾げるのが見える。
そうしながらもゆっくりと、大股に歩んでくるロゼアに、ソキはふるふるとちいさく首を振った。
「ろ、ろぜあちゃん……あの、そき、あの」
「熱が出たのか?」
「ち、ちがう……違うんですよ、ロゼアちゃ、ソキ、だいじょう」
最後まで言わせず、ソキの前に片膝をついたロゼアが指先で花嫁のヴェールを払う。するりと撫でるように頬に触れたてのひらに、ソキはちいさく上ずった声をあげながら、かすかに震えて視線を伏せた。
本当なら、いつもなら、ロゼアの手はソキに安心をくれるのに。落ち着かせてくれるのに。じわりと肌を温め探っていく指に、どんどん鼓動があがっていく。それなのに。
「ソキ、すこし休んでから行こうか」
囁き問うロゼアの声は、常のもの。常のままの、ものだった。
「……だい、じょうぶ、です」
ソキだけが、震えるほど、恋しいのだと。裏付ける、ただ純粋に身を案じる声に、ソキは大きく息を吸い込み、一度かたく、目を閉じた。意識をすこしだけ遠くに置く作業は慣れていて、まばたき一つで十分事足りる。
再び開かれた瞳の色は、凍りつく森の碧。うつくしい『花嫁』の瞳だった。
「もう行きましょう、ロゼアちゃん。ソキ、歩きます」
ちょうどロゼアがソキの肌から手を引くのに合わせて、ヴェールを元の通りに戻す。半透明の薄い布がさらに世界を隔て、ようやくソキは、くるしくなく息を吸い込んだ。
ふるえるほど、こいしいと、『傍付き』に恋に落ち、愛おしむ心が叫んでいる。くるしいばかりだ。落ち着いて、なんでもないように振る舞えるまで、もうしばらく時間がかかる。
感情を心の奥に遠ざけながら、ソキはロゼアと手を繋ぎ、甘えるように引っ張った。『花嫁』が『傍付き』にじゃれつくように。何度も何度も、そうしたように。同じ仕草で。
「行きましょう、ロゼアちゃん。……ナリアンくん、メーシャくん」
「……疲れたら言うんだぞ」
「はい。あの……ロゼアちゃん」
手をひかれ歩き出しながら、ソキはちいさく、息を吸い込んで囁く。奥に置いて、遠ざけて、視線を反らして、見ないふりをして。それでも。どうしようもなく、ひとすじ溢れた、その言葉こそが恋だった。
「……ロゼアちゃん、かっこいいです」
「ありがとう。ソキもよく似合ってる。……すごくきれいだ」
微笑みながら告げるロゼアの声に、ふるえるような、恋の欠片はなく。それを十分に理解しながらも、それでも、しあわせで。ソキは微笑み、頷いた。
寮と教会を繋ぐ森の小路は赤々と火の揺れる灯篭でまばゆいばかり照らし出され、そこを歩む者を光の中に歓迎した。
高揚した様子のメーシャとロゼア、ナリアンの会話をうわの空で流しながら、ソキはひたすら、転ばないようにだけ気をつけて道を歩いて行く。『花嫁』の衣装は不思議なほど、ソキの歩みの邪魔にはならなかったが、歩く助けとなる訳ではない。
ゆっくり、ゆっくり歩き切り、森を抜け、輝きを背負う教会の入口へようやく辿りつこう、とした時だった。教会の階段の途中、こちらに背を向けて佇んでいた四つの人影のうち、ひとつ。
直刃の印象をふりまく長い金の髪をした少女が、ぱっと振り返り、ソキを呼ぶ。
「ソキ!」
熱が伝わるように、空気中に喜びが広がった。少女と殆ど差なく振り返った三人の少年少女が、それぞれ満面の笑みでナリアンを、メーシャを、ロゼアを、呼ぶ。
その三人を置いて階段を駆け下りてきた少女は、ロゼアと繋いでいたソキの手をひったくるようにして握ると、紅の瞳をきらめかせて顔を覗き込んでくる。その名をソキが呼ぶより、はやく。
少女の手がヴェールごし、そっと、ソキの頬を撫でた。
「……ああ」
感嘆の溜息と共に、妖精の瞳がゆるく、細められる。
「やっぱりアンタ、あたしより背が低かったのね……ソキ」
「……リボンちゃん?」
「そこで疑問形なのはどういうことなのかしら。呪うわよロゼアを」
人間の少女と同じ大きさをした妖精の目は、旅の間に何度も何度もソキが目の当たりにしてきた、極めて本気の色に艶めいていた。
そこでどうしてロゼアちゃんですかぁっ、と嫌がるソキの手を引き、教会の入口へと導きながら、妖精は決まっているじゃないと不機嫌そうに首を傾げる。妖精はソキの目を覗き込み、舌打ちをする。
凍りついた森のうつくしい瞳。旅の間に何度か見た、『花嫁』の。人形めいたうつくしさがあった。
「アンタがそんな目をしてる時は、なにかをすごく我慢してる時。……アタシにはアイツの他に、理由が思いつかないのだけど?」
「……ちがうの。リボンちゃん、ちがう……ちがうです。ろぜあちゃん悪くないですよ」
「アンタがなにをどう判断しようがなんだろうが」
がつん、と蹴飛ばすように階段の最後の一段に足を乗せ、妖精は続く言葉を、むしろ自慢げに言い切った。
「アタシがロゼアが悪いと判断したら、それはもうロゼアが悪いのよ?」
「リボンちゃん……りぼんちゃん、りふじんですぅ……」
「理不尽じゃないわよ私には正当性のある……ちょっと! だれ今呼び捨てにしたのアンタなの?」
ロゼアの傍らで、彼の案内妖精がひとりひとりを紹介していたのだろう。リボン、という呼称が繰り返されたのを耳にして、妖精が声を荒げてソキの傍からぱっと離れ、それを呼んだ者、ロゼアの方へと歩いてく。
置いて行かれた、とは思わなかった。なぜなら、ソキが見た妖精の瞳は。よしちょうどいい口実を見つけた、とばかり煌いていたからである。きゃああぁあっ、と大慌てで妖精の後を追いかけ、ソキはロゼアを睨む少女の、服の袖を弱くひっぱった。
「り、りぼんちゃん顔がこわいです」
「黙っていなさいね、ソキ」
黙れ、と常の口調で言われないのがさらに怖い。リボンちゃんなんだかすっごくっ、怒ってるですっ、とふるふるするソキを背に庇うようにして立ち、妖精はロゼアの全身を、分かりやすく上から下まで眺めたおした。
ふん、と鼻を鳴らして、腕を組む。
「……三点」
姿形に対する評価だ、とみせかけた、内面を含めた総合評価だった。そんなことないもん、と憤慨するソキにすら伝わっていない、遠回しな嫌みだった。ソキはぷぷーっと頬を膨らませ、妖精の服の袖をぐいぐい引っ張ってくる。
「ソキ知ってます! 三点満点で三点ですよ!」
「馬鹿なこと言ってんじゃないわよ! 千点満点に決まってんでしょうが!」
「やぁああんちがうもん! ちがうもんロゼアちゃんかっこういいもん! ほらほらよぉく見てくださいリボンちゃん! さすがはロゼアちゃんです、もうきゃあきゃあしちゃくらい格好いいです! すっごく格好いいですほらほらほらあぁっ」
みてみてちゃんと見てくださいですよぉっ、ときゃんきゃん抗議するソキに見た上で言ってんのよ理解しなさいああもう煩い一度でちゃんと聞き分けなさいこの低能ーっ、と絶叫し、妖精はソキの腕を引いて教会へ足を踏み入れた。
ソキは妖精にくっついてあるきながら、やぁんやぁんろぜあちゃんかっこいいもん、すてきだもん格好いいもん、とぐずっている。妖精は呆れた気持ちでソキを振り返り、その目をやや上から覗き込んだ。ソキ、と名を呼ぶ。
感情を鮮やかに浮かび上がらせる、新緑の瞳。五月のやわらかな葉のいろ。砕いた光をいっぱいに抱いたトルマリンの、宝石色の瞳が、まっすぐに妖精を見返した。妖精はくす、と笑い、ソキにひとこと、馬鹿、と告げる。
そきばかじゃないもん、と拗ねた声は、先程よりずっと、感情がこもっていた。
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