祝福の子よ、泣くな 08
それは白い紙に迷いなく引かれた、一本の線のようだった。視界の端から端までを一瞬にして駆け抜けて行った赤い閃光。夜はただ頭を垂れるように切り裂かれ、ごう、と熱せられた空気が風となって押し寄せる。
一筋の光は瞬く間に広がり、大きく広げられた翼の形を成して完成した。女の胸元から左右対称に広がる火は、まさしく鳥の翼、そのものだった。
女は燃え盛る火の熱に肌を焼かれる痛みもなく、光に目を貫かれることもなく、一度だけ、その火の翼をてのひらで撫でた。ゆったりとした、ひどく静かな、仕草だった。恋人の頬に触れるような甘やかで、丁寧で、どこか切ない、仕草だった。
どこまでも広がって行きそうな火の勢いが僅かに収まり、おぼろげな輪郭が収縮していく。目を伏せ、そっと腕で円を描く女の胸元へ、きれいに収まってしまうように。
不死鳥はすこし小柄な鷹の姿を成し、それ以上は小型にならず、輪郭を崩して広がってしまうこともなかった。恐らく、それが一番安定した姿なのだろう。火に照らされて赤みを帯びた女の、朱金に揺らめく瞳がふと持ちあがり、悪戯っぽい笑みを灯した。
「眠れないの?」
その問いを向けられたのが己であることに、気が付いたのは言葉を繰り返され、名を呼ばれてからだった。
「……眠れないの? ナリアンくん」
夜は深く、暗闇の中に、なにもかも音が沈み込む時間のことだった。寮の戸口で立ちつくすようにしていたナリアンに、女は小走りに寄って行く。無邪気で、懐っこい、人見知りを全くしない仕草だった。
えっと、と言葉を探すナリアンの顔を下からひょいと覗き込み、女は金色の瞳を楽しそうに細める。あまりに火を近くに宿し、闇の中、血濡れた刃のように輝いたその色は、もうどこかへ消えてしまっていた。
「こんばんは。ナリアンくん、よね? それとも私、ひとまちがいをしてしまっている?」
ぶんぶんぶんっ、と勢いよく首を左右に振ったのち、ナリアンは慌てて息を吸い込んだ。声を出す気には未だなれないままだが、気持ちの問題として、言葉を成す前にはそうすることが多かった。
『いいえ、俺がナリアンです。こんばんは。……レディ、さん?』
「うん。レディ、でいいよ。もしも君が気にしないのなら。気になるようであれば、君の好きに呼んでくれて構わないけれど。……ふふ、それで、どうしたの? 夜更かしさん。眠れなかったの? 起きてしまった? ……それとも、私が起してしまったかな」
火と風は魔力の相性が良いからきっと響いてしまっただろうし、とナリアンの答えを望まぬ呟きを発し、女のひそやかな溜息が二人以外誰も居ない、静かな空気を揺らして行く。学園の夜は、ひどく静かだ。
木々を渡って行く風の、揺らす梢の音だけが響いている。虫の声も、注意しなければ分からないくらいに遠く、奏でられるもの。距離を置かれているのとは、違った。ひどく遠くから、ひたすらに見守られているのだ。
魔術師のたまごは、『中間区』という世界そのものに守られている。だからこそ、緊張に張り詰めた静寂はどこにもなかった。ただ、穏やかで、眠りにつく寸前に吸い込む空気のような。
しっとりとした、心地良い、なにものにも例えられない音律にひたひたと満たされている。
女は動けぬ様子のナリアンを見上げながら、己が一瞬切り裂いた夜のしじま、満たされ切った幸福の空気を深く、吸い込んだ。ふわ、と風に舞う花びらのような動きでナリアンから一歩離れ、女は薄暗闇の中へ身を躍らせる。
揺れる火の鳥が背を追いかけ、爆ぜる火の粉は祝福のひかりのように、女の身に降り注いで行く。眠る草を靴で踏み鳴らしながら、女はナリアンを振り返り、ちいさく首を傾げてみせた。
「ねえ、ナリアンくん。もしもすぐ眠りに帰らないようなら、ひとつ聞きたいことがあるのだけれど。いい?」
『俺に、答えられることなら』
「うん。うん、うん、大丈夫! 答えに困るようなことを聞くつもりはないの」
真昼の。一番日差しが強い時間に、反射して目を焼くようなひかりの印象を振りまいて。女はひどく親しげに、ナリアンに笑いかけた。
「君は、道案内が好きかな? もしよかったら、ちょっと星降の国へ続く『扉』まで、私を送って行って欲しいんだけど」
『……え、っと?』
「うん、あのね。ストルがいつの間にか帰っちゃってたのに、さっき気が付いたの。せーっかく仕事が終わるの、待ってたのに……。で、まあそれはあとでストル焦がすからまあいいんだけど? 気が付いたらほら、もうこんなに夜中でね、皆寝ちゃってるから……一人で帰ってもよかったんだけど、もしかして、誰か一人くらいは起きてくるんじゃないかな、と思って待っていたの。陽が落ちてから移動するのって、どうも好きになれなくて。暗くなると、なぜか普段よりずっと目的地にたどり着くまで時間がかかるじゃない? それで、絶対、夜が明けちゃうじゃない? 私、夜明けって嫌いなのよ。でも、こんな時間でも、誰かに連れて行ってもらえるならすぐに王宮まで帰れるかな、と思って」
頼んでもいいかな、と笑いながら手を差し出してくる女に、ナリアンは無言で頷いた。夜の中へ足を踏み出し、草を揺らし吹き遊ぶ風と共に、女の手を握り締める。女は、ナリアンよりいくつか年上に見えた。
それでもてのひらに触れる、ということに抵抗も、気恥ずかしさすら覚えなかったのは、女がなぜか、迷子のこどものように思えたからだろう。帰る場所もなく。泣くこともできず。
地の果てを見つめ、立ちつくすばかりの。女は案外簡単に繋がれた手に驚いたように目を見開いたのち、隣に立つナリアンの横顔を見つめた。
「あ……」
はくり、言葉を失った女のくちびるが音もなく動く。身長の差で、どうしてもナリアンを見上げる形でしか視線を重ねられない、女の頬に朱がさした。
視線が落ち着きなく彷徨ったのち、女の指先にちいさく、震えが走る。震え、だとナリアンが感じるくらいに。弱い力だった。
「……あ、り、がとう。え、えっと、えっと……そ、それで! 星降に帰るにはこっちだったかなっ?」
『寮の中の『扉』が、一番近いと思いますが』
「外を……歩きたいの。中庭に繋がる、扉、あるでしょう? そこへ行きたいの。……だ、だめ、かな」
だめなら、近い方で構わないから連れて行って、と告げる女の希望を叶えない理由は、ナリアンには無かった。眠気がない訳ではないが、目が冴えてしまっている。まっすぐに引かれた線。
迷いなく、紡がれた火の色が、今も瞼の裏に残っていた。ふるりと首を振り、ナリアンはそっと足を踏み出した。
『いいえ。俺もこの時間に出歩くことは稀なので、迷ってしまうかも知れませんが。それでよければ』
「君は道に迷わないわ」
ソキちゃんと一緒に歩く時よりはもうすこし歩幅を大きくかな、と考えながら歩くナリアンの隣で笑いながら、女はきっぱりとした響きで言い放った。それがあまりに自信に溢れ、確定的であった為に、ナリアンは驚いて女を見下ろした。
女は、もうナリアンを見ていなかった。視線は進むべき道の先へ向けられ、時折、ひどく大切なもののように繋がれた手へ降ろされている。
女を包む夜を照らしたがるよう、不死鳥は二人の数歩先を、のんびりとした態度で飛んでいた。風の影響を受けず。鳥はひとと、同じ速度で進んだ。
「君の道行きは風に導かれる。迷うことなど、決してないわ。そうでしょう?」
一瞬だけ持ちあがった瞳が、どこか怯えたような、悔いたような眼差しをするナリアンに、笑いかける。
「そうでしょう? 風の……今は、まだ、黒魔術師と呼ぶべきかな。君は、風に、とても愛されている……」
ナリアンと繋がぬ女の手が、空を泳ぐように持ち上げられた。指先はまっすぐに鳥を、その体を形作る火を指し示す。
「私の火はただの魔力だけれど、君の風は君の魔力ではない。君の風は、世界。祝福と、祈り。君への愛情。愛情を怖がる必要はないわ、ナリアンくん。それは君を傷付けることをしたかも知れないけど、温かく癒すこともしていた筈。ナリアン、君は、それを知っている筈よ」
『……っ、あなたに』
なにが、分かるんですか、と。苛立ちと共に叩きつけそうになった怒りは、衣を揺らす強風となって具現した。ばたばたと風に服を煽られながらもまっすぐに立ち、女は静かに、それでいて親しげな眼差しを崩さないままにナリアンを見つめ返す。私は、と女はやわらかに告げた。
「君がどう生きてきたか、魔力がどう、影響してしまったか。それはなにも知らない」
『なら!』
「けど、君の風が君の魔力でないことなら分かる。私のように、内側に留めて置けず常に使い続けることでしか、意識を保って置けないのとは全く違うっていうことなら、分かるの。……ナリアンくん」
聞いて、と女の手が強く、ナリアンのそれを握り締めた。
「私たちは……いえ、魔術師はね、ナリアンくん。自分から、決して、逃げられないのよ。私たちは、私たちであることしかできない。他のなにものにもなれない。望んでも、どんなに祈っても、私たちは私たちにしかなれないの」
張り詰めた糸を切ったように、そよ風が、女の肌をひと撫でして消えて行く。女はまっすぐ、ナリアンを見つめていた。
「他の誰かみたいになろうとしちゃいけない。あなたは、あなたになるのよ。私が、私であるように。……君はこれ以上、自分から逃げてはいけないわ。ナリアンくん」
もうそろそろ、夢から醒めなさい。そっと諭すように、ひかりの色を宿した瞳で、女は笑う。
「恐れず、厭わず、あるがままに……。流星の夜を超えた魔術師のたまご。君の魔力はこれからどんどん成長していく。その力が、己の身を食い破る時もあるでしょう。けれど恐れないで、厭わないで、怖がらないで。覚えていて。君を恋慕う風は、君の魔力そのものではないこと。ロリエスは優秀な教師よ。迷う時、立ち止まる時、必ずその背を押してくれることでしょう。ちょっと手荒かも知れないけど、君にはそれくらいが良いのかもしれない。……私も、起きている時には話を聞けるから、よかったら会いに来て。さあ、もうここまででいいわ。どうもありがとう」
繋いでいた手を離し、歩いて行く女を、ナリアンは茫然として見送った。いつの間にか『学園』を囲む森を抜け、『扉』のある、やや拓けた空間まで辿りついていたのだ。女は振り返りもせず『扉』に手をかけた。
動きが、一度だけ止まる。舞いおりた不死鳥を肩に止まらせながら、女は考え込む表情でナリアンを振り返った。赤く。火に艶めく瞳が、まっすぐにナリアンを射抜いた。
「気をつけて帰ってね」
『……はい』
「……手を、繋いでくれて、ありがとう」
はい、とナリアンが意志を響かせるより早く。羽ばたいていく鳥のような動きで、身軽く、女は『扉』の向こうに姿を消してしまった。静まり返る場にひとり取り残され、ナリアンは己の手に視線を落とした。
それを、強く、握りこむ。あざやかに差し込む、光に触れたような。燃え盛る火に、手をかざしたような。暖かで、ほんのすこし、痛い熱が。まだ残っているような、そんな気がした。
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