祝福の子よ、泣くな
祝福の子よ、泣くな 01
夜が明ける。東の空に光が満ちて行く。黒檀に紫が滲み、花弁のような明りが地平線を切り裂いていく。銀嶺の星は明け空に溶け込み、もうひとつの輝きも見つけられない。恭しく世界に輝きが満ち、朝が訪れようとしていた。
夜と朝の狭間。その空白に肌を触れさせ、一人の女が佇んでいた。その背を撫でることなく過ぎ去って行く砂漠の、夜に冷えた風が女の衣をはためかせていた。俯き、顔をあげない女の表情を知る者はいない。
朝焼けから顔を背け、女が見つめていたのは己の足元だった。黒く焼け焦げ、ひび割れた石畳がどこまでも続いている。
表面を舐めるように、火が踊っていた。吸い込めば瞬く間に肺を焼く熱せられた空気に、周囲の景色は歪みきり、ひとつも原型を留めていない。
色を奪われたような黒い街が広がっていた。建物という建物、道という道は残らず火に砕かれ、一部は融解し、激しく気泡を立てながら次々に蒸発していく。女は、その街中に佇んでいた。
肺を焼かれず、衣服のどこにも火を纏わずに。俯き、じっと、足元だけを見ていた。ほんの数刻前までここは、生きた豊かな街だった。住民の数は少なく、誰もの顔と名を知ることが出来る程の。ちいさな、ちいさな、砂漠の都市だった。
家々の戸口に飾られた飾り灯篭のきれいな火の揺らめきを、添えられた花の瑞々しさを、忘れることができない。
逃げることすら叶わず、命という命は火によって失われた。
「……かえして」
女の声をかき消すように、火が音を立てて燃えあがった。動くことのできない女を置き去りに、暁の空に光が射して行く。もうすぐ、全てが陽光の元へ曝け出されるだろう。
火は踊り続ける。長い夜の終わりを高らかに告げるように。祝祭に酔うように。己の身をかき抱き、祈るようにか細く、女が囁いた。
「かえして……こんなの、いらない。いらないの、だから、ねえ、ぜんぶかえして……!」
燃えあがる火が、なにもかもを消して行く。故郷、両親、友人、親友。恋人。全て、女の目の前で燃え尽きた。記憶にある家は、街並みは、もうどこにもない。震える瞼が降ろされる。
頬を伝う涙は地へ落ちるより早く、熱せられた空気に消えてしまった。
「いらないから、かえして……」
女は、学園に招かれ。程なく、魔法使いと呼ばれた。
顔の前を右から左へとふよんふよん通過していく赤い蝶を見つめて、ロゼアは無言で眉を寄せた。蝶とはもっと麗しい線を描くように飛ぶものではなかっただろうか。
ロゼアの疑問と注目を集めたソキのちいさな手よりさらに一回り小ぶりな、ちんまりとした印象の拭えない蝶は、それでもふよんふよんと空気中を漂っている。飛んでいるというよりは、漂っている。
もしかすれば一生懸命飛んでいるのかもしれないが、翅の動きに対してちっともふるわない進行速度が、飛んでいるという単語を中々当てはめさせてくれなかった。
よいしょ、よいしょっ、と声が聞こえてきそうな動きでえっちらおっちら移動を続け、赤い蝶はアスルを抱きしめてお昼寝を続ける、ソキの髪の上へと舞いおりた。ちょうど髪の横。リボンの近くに。
じーっと見つめるロゼアの視線に気が付いた風もなく、蝶はソキの髪の止まった辺りを終の棲家と決めてしまったような落ち着きで、飛び立つ素振りは感じ取ることが出来ない。きれいな髪飾りのようだった。
透き通る鉱石のような翅がそう思わせるのだろうか。作りものの、命の気配のない。柘榴石の蝶。
「ん……んー、んぅ……?」
怖い夢でも見ていたような不安げな声をあげて、ソキはもぞもぞ身動きをしたのち、アスルをぎゅうぎゅうに抱き締めて目を開いた。
肌触りの良いタオル地で作られたアスルを腕の中でくったりとさせたまま、ソキはすこしだけくちびるを尖らせ、眠たげに体を起こす。
「ろぜあちゃん、おはようございます。……ろぜあちゃん、どうしてお昼寝しないですか?」
ソキねえロゼアちゃんと一緒が良かったんですよ、とその顔にでっかく書いてある。ぷくー、と頬を膨らませられるのに苦笑して、ロゼアはごめんな、とソキと目を合わせて囁いた。
「よく眠れたか?」
「んん……んーん?」
どちらともつかない声をあげて首を傾げ、ソキは眠たげな顔つきでしばらく考えた。はふゅ、とあくびをして、もぞもぞと寝台の上で座り直す。そののち、こくん、と頷いた仕草に柔らかく笑み、ロゼアはソキに手を差し出した。
そのてのひらをしばらくじぃっと見つめ、ソキはそこへそーっと手を伸ばした。待っていてくれるロゼアのてのひらをふにふにとつついたあと、指数本をきゅぅと包み込むようにして手を握り、ソキは一人で寝台から立ち上がった。
抱っこしていたアスルを枕の隣へぽんと戻し、ソキはロゼアの向かっていた勉強机を覗き込む。
「本読んでたです? お勉強?」
「課題の復習……あれ?」
不思議がるロゼアの声に、ソキがまっすぐに視線を向けてきた。眠りから醒めたばかりの碧の瞳は、光をたっぷりと抱く宝石を連想させた。やわらかく傾げる首筋から匂い立つような好意を漂わせ、ソキはまだすこし眠たげにまばたきをする。
「あれ? ってなんです? どうしたですか、ロゼアちゃん」
「いや……蝶がいなくなってると思って」
「ちょうちょです?」
ソキの髪に結ばれたリボンを飾るように止まっていた柘榴石の蝶は、いつのまにかその姿を消していた。室内を軽く見回してみても、どこにもいない。窓は閉まっているし、扉も開かれた気配などなかったのだが。
訝しむロゼアに、ソキは気のない様子でふぅんと頷いた。特に気にならないらしい。ソキに害のある風でもなかったからいいか、と思い直し、ロゼアは椅子から立ち上がった。
室内を乾燥させ過ぎないように気をつけてはいるが、寝起きの喉を潤すものを用意しそびれていたのだ。
「なにか飲みに行こうな、ソキ」
「ロゼアちゃん、お勉強は?」
流星の夜から続いている、寮長命名『ソキのひとりでできるもん!』の流行は、まだまだ下火にならないらしい。一人で行って来たそうにうずうずしているのに苦笑して、ロゼアは俺も休憩、と言い添えた。嘘ではない。
集中が途切れてしまったのは本当のことだから、食堂へ行くのは良い気分転換になるだろう。眠るソキを部屋に一人おいて出る気がしなかった為、蝶の観察などをしていただけで。
ソキは納得したような、していないようなあいまいな態度でくんにゃりと頷き、それでいて、ロゼアの指を握る手にきゅぅと嬉しげな力を込めた。
「一緒に行くです?」
「うん。一緒に行こうな、ソキ。……歩くか?」
ごくたまに、甘えたくなることがあるのだろう。無言で両手をロゼアに向かって差し出し、抱っこをねだってくることもあるのだが、今はそういう気持ちではないらしい。問われたことこそを幸せに感じる様子で、ソキは何度も頷いた。
ふにゃんとした甘い笑みは、お気に入りの飴を口に含んだ時と同じ表情だ。よほど嬉しいのだろう。歩くですよ、と告げるソキは、ロゼアと繋いだ手を離す気配もない。
それにどこか安堵しながら、ロゼアはソキのちいさな手を包み込むように、てのひらを繋ぎ直した。
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