暁闇に星ひとつ 10
「あの星、さっきも、見たです。ソキがね、夜を、呼んだ時に……一番、光って、見えた星……」
「それなら、あれがソキちゃんの星ね。さあ……もう、見失わないであげて」
白い手で懸命に指差されたひかりが、ソキの未来。うん、と頷いたソキに、ハリアスは満足げに笑って白紙のスケッチブックを手渡した。それも、もちろんソキのものだ。なるべく見ないように脇へ避けておいたのを、拾いあげていたらしい。
「はい、それじゃあ、課題を終わらせてしまいましょうね」
「がんばりま……寮長はなんで笑いを堪えてるですか。なんで笑いを堪えてるですか!」
「ソキちゃん! スケッチブックで寮長を叩こうとしないの!」
ソキがスケッチブックで全力で寮長をひっぱたいたとて、大した衝撃になどなりはしない。痛くないと思うから別に構わないけどな、と告げる寮長にそういう問題ではありませんと眉をきりりとつり上げて言い放ち、ハリアスはもう、と困った風に息を吐きだした。
「寮長も。ソキちゃんをからかわないでください。それとも、なにか、別に楽しいことでもありました?」
「いや、ハリアスだとソキが素直になんのが面白くて」
「ハリアスちゃん。ソキねえ、寮長は叩いてもいいと思うです」
左右から体を挟むようにして訴えられて、ハリアスは頭が痛そうに沈黙した。ややあって、スケッチブックは課題に使うものだから、と苦しげに言い放ったハリアスに、ソキはなるほど、と頷いた。
やたらと神妙な顔つきで納得するソキの様子が、また楽しかったらしい。ぶふっ、とついに吹き出した寮長に、ソキはもおおおおおっ、とかんしゃくを起した叫び声をあげ。ソキ、寮長きらいなんですよおおおおっ、と涙声で高らかに訴えた。
やですもうやですやですっ、と全力で訴えるソキを楽しげに眺め、寮長は少女の傍らにひょい、としゃがみ込んだ。反射的に止めようとするハリアスを眼差しで制して、寮長は押しのけようとするソキの腕を掴み、声をひそめて囁いた。
「あんまり騒ぐとロゼアが来るぞ? 一人で頑張るんだろ?」
「やあぁんそきひとりでできるもん! ひとりで、そき、そき……ふえ、ええぇ……っ」
あ、やべっこれは本気で泣く、と真顔で焦る寮長の目の前で、ソキはけふ、けひゅっ、と乾いた咳を苦しげに繰り返した。ぜい、と嫌な音を立てて息を吸い込む喉に、ハリアスの手が当てられる。
真剣な表情で目を閉じるハリアスの指先から、あたたかな癒しの魔力がソキの中へと流れ込んで行った。しばらくそうして、ようやく、ソキの咳が止まる。ハリアスがなにかを告げるより早く、寮長の手がソキの汗ばんだ額に押し付けられた。
ぼんやりとした目を覗き込み、寮長は申し訳なさそうに息を吐きだした
「病み上がりだったな、そういえば……ソキ、どうする。課題、できそうか?」
「……ソキ、ちゃぁんと、できますよ」
「分かった。……ハリアス、すまないが、様子を見ていてくれるか。俺は保健医に連絡しに行く」
そのあとでロゼアだな、と気が進まない風に呟き、寮長はソキに体調を悪化させない分だけの魔力を分け与え、立ち上がった。
集中してすぐ終わらせろよ、と言い聞かせてくる寮長にこくりと頷き、ソキはうっすらと痛くなってきた頭に眉を寄せながらも、スケッチブックに向き合った。する、と紙の上をペンが滑って行く。
夜の中でも書きやすいよう、ほの淡く白い光を発する特別なインクこそ、尾を引く星の流れのようだった。
星降の国王は魔術師という存在をこよなく平等に愛している。学園に在籍する魔術師の卵であっても、他国の王宮魔術師であってもそれは変わることなく、彼の人はにこにこと笑いながら『俺の魔術師』と囁き、愛を注ぐのだ。
魔術師という存在に対する祝福の定例見本が星降の陛下だと思えばいいんだと思う、と告げたのは何処の国の魔術師であったかは定かではなく、深く考えれば意味もよく分からない発言であったのだが、それは瞬く間に全ての魔力を持つ存在に知れ渡った。
つまるところ彼の人が囁く愛というものは異性愛を含まぬ、ひたすらに愛おしいと囁く情そのもののことを表すのであって、それ以上にはならないものなのだ。
やたらと抱きつきたがるのは躾のきいていない犬が来客に飛び付いて尻尾を振りまくるアレと同じですからね、と告げたのは魔術師ではなく楽音の国を治める施政者そのひとである。
同い年の幼馴染であるから、発言には一切の遠慮が見られなかったのだという。その言葉は彼の王からもたらされる愛をどう思えばいいのか、という問いに対する先の発言同様に、残念なくらいの早さで魔術師たちの間をかけ巡って行った。
今それを知らない者がいるとすれば、学園に入学したばかりの新入生たちくらいだろう。入学して、一月半。無駄知識めいた雑談を先輩から吹きこまれるとして、耳を傾ける余裕が出てくるのはもう少し先のことだった。
ああ、それでも、もしかしたらメーシャは知っていたかもしれない、とラティは思う。星降の首都に産まれ、育ち、王宮にも近い場所に住居があったあの少年ならば、もしかすれば。その記憶は失われ。もう二度と戻ることもないのだけれど。
白紙に塗りつぶされた、ラティの、不自然な記憶の空白と共に。思い出そうとすると、ちりちりと胸が火傷のあとのような痛みを発する。その感情の意味すら、上手く理解できない。
家族。妖精が視認できることを知りながら、匿い、隠すようにして養ったメーシャのことを、ほんとうは。どう思っていたのか。想いは失われ、二度と蘇ることはない。
「……ラティ」
ふてくされたように名を呼ばれ、ラティは溜息をついて視線を己の腹辺りへ落っことした。腰にぐるりと腕を巻くようにしてそこへ顔を埋め、拗ね切った不機嫌顔で睨みつけてくるように目を細める男の、名を呼ぶことは魔術師には許されない。
呼ぶことを許された愛称ならば知っていて、けれどもなぜかそれを告げる気にもなれず、ラティは響かせる声の音色にすら気をつかいながら、深く肺まで息を吸い込んだ。
「はい、陛下」
ああ、これは本当はもういけないのだった、と思って、ラティは己の唇に指を押し当て、溜息をついた。ラティがその呼称を向けるべきは己の仕える主君一人きりであって、かつて騎士として剣を捧げたこの男ではないのだった。
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