暁闇に星ひとつ 09
握りこぶしで感心するソキに、寮長はにっこりと笑って。その無防備な額に、ごく軽く、指を弾いて当てた。
怒ったですううううっ、とぴいぴい半泣き声で抗議するソキに、今の理由あっただろうが十分過ぎるほどにな、と言い聞かせながら、寮長は、ふとこちらへ歩んでくる足音に気がつき、ソキを背に庇うように体の位置を変えた。
誰何の声をかけるでもなく。ゆらり、無色の波紋が寮長から広がるさまをソキは幻視した。意識していなければそれと分からないほど繊細に広がって行く魔力は、蜘蛛の巣を思わせた。
そこへ足を踏み入れたが最後、敵意を持つ者に対しては迷いなく攻撃が仕掛けられ、あるいは防御の為の魔術が展開するのだろう。視認は不要とばかり目を閉じて息をひそめる寮長に、ソキはきゅぅと眉を寄せ首を傾げた。
学園で、なにをそんなに警戒することがあるというのか。
不思議に思いながら、ソキは寮長の背中を人差し指でつっついた。
「どうかしましたですか? というか、寮長は、なんの魔術師さんなんです? ソキ、そういえば知りませんですよ」
「……内緒」
つーか今聞いてくるとは思わなかった、と呆れ顔で警戒を解いた寮長は、歩んでくる者の正体を知ったのだろう。安堵に緩んだ表情で立ち上がり、出迎える為、薄暗がりに向かって手を差し出した。
「そこ、足元の草結んであるから。転ぶなよ? ハリアス」
「え? えっ……きゃあぁっ!」
「……寮長はいたずらっこさんなんです?」
言われた直後、悲鳴をあげて転びかけるハリアスの腕を引き、危なげない仕草で抱きとめてやる寮長に、ソキは心から白んだ目を向けた。寮長はハリアスの肩をぽんと手で叩いて落ち着かせたのち、体を離しながらソキを振り返って、笑う。
「仕方ないだろ? 世界が俺にそうしろ、と囁きかけた結果だからな……!」
寮長に囁きかけるそのはた迷惑な世界は、速やかに反省のち消滅してくれないものか、と一部生徒が時折痛切に想っているのとだいたい同じような感想を抱き、ソキはふるふるふる、と首を横にふって息を吐きだした。
どうして寮長と長く会話をしていると、それだけでちょっぴり頭が悪くなったような気持ちになってしまうのか。というかなぜ、寮長と会話というものを試みようとしてしまったのか。
まずそこから間違えてしまっていた気がして、ソキはやや遠い目になり、過去の行いを反省した。そののち、ソキは一応落ち着いたものの、まだ胸に手を押し当てて深呼吸をしているハリアスに、にっこりと笑いかけた。
お前その笑顔で俺にも対応してみろよ、とぶつぶつ文句を言ってくる寮長のことなど完全に無視である。いったいどうして、ハリアスと寮長に同じ対応などしなければいけないのか。
その昔、お前はロゼアだけではなくて俺にも懐くべきだろう妹として、と言いだした兄に抱いたのと全く同じ、なにを言いだしたのかちっともさっぱり分からないのでもうソキに話しかけないでくださいですよ、という感想を抱きつつ、ソキはにこにこと心からの笑みで、ハリアスにちょこりと首を傾げてみせた。
「ハリアスちゃん、こんばんはですよ! お怪我なかったです?」
「こんばんは、大丈夫よ……ありがとうございました、寮長」
「いや、俺こそすまないな。お前を転ばせたかった訳じゃないんだが……星を見に来たのか?」
じゃあ誰を転ばせたかったんですかナリアンくんですかまたナリアンくんなんですか、となじるソキの視線をまるっと無視してハリアスへ問う寮長に、少女はソキの隣へふわりと座りこんだのち、持っていた本と星座版を、胸元へ抱き寄せるようにして告げた。
「はい。すこし気になったものですから……ソキちゃん? あまり、年上のひとをそうして睨んではいけません」
「寮長が草結ばなかったらハリアスちゃん転びそうにならなかったです」
「ソキちゃん」
いけないと今言ったでしょう、と。叱りつけるのではなく、たしなめるのともすこし違う、しっかりと言い聞かせて理解させようとする声の響きに、ソキはぷーっと頬を膨らませた。
ちがうですよ、ソキわるくないですよ、と訴えてくるソキにもう、と息を吐き、ハリアスは本を抱く腕を離した。荒れた気持ちを宥めるように、ハリアスの手はソキの頭に触れ、一度だけそっと髪を撫でて行く。
「……私を、心配してくれたんですよね?」
こくん、とソキは頷いた。そぉっとハリアスを伺うソキの瞳は、怒っていないか、嫌われないかを不安がるものだった。大丈夫ですよ、と微笑みかけ、ハリアスはソキの顔を覗き込む。
前髪が触れ合うほど近くに顔を寄せて、ハリアスは柔らかな声で囁いた。
「ありがとう、ソキちゃん。……でも、寮長を睨むのはいけないことよ。分かった?」
それに、分かりましたですよ、と言うのは、ソキにはとてもとても抵抗のあることだった。寮長がソキを見つめ、楽しげに口元を緩めて笑っているのが見えているので、なおさらである。
十秒数えて、さらにもう十秒待ってもハリアスが諦めてくれないことを理解して、ソキは口の中に入れたピーマンをどうしても飲み込めない時と同じ表情で、ぷるぷると震えながらくちびるをひらいた。
「わ……分かりました、です……ソキ、寮長、にらみませんですよ」
あんまり、と早口でちいさく付け加えた言葉は、聞こえていたのだろう。仕方ないですね、と苦笑しながらもよくできました、とソキに笑いかけ、ハリアスは視線を星の輝く夜空へと移動させた。
ひとつ、ひとつの星の輝きを、瞼の裏に閉じ込めるように。ゆっくりと瞬きをして、ハリアスは深く満ち足りた息を吐き出した。
「……どうしてかしら、ずっと、どきどきしているの」
しあわせで。ほんのすこし泣きそうで。落ち着かないんです。目の奥に焼きつけた星に祈るような声で、ハリアスは誰の答えを望むでもない声で静かに囁いた。
「ようやく、誰かに会えたような……会える、ような、そんな気がします」
「可能性の欠片が降る夜だからな。幸福な出会いの先触れだと思うが?」
気分が悪くなる警告じゃなくてよかったな、とそのことを心から安堵している表情で告げる寮長に、ハリアスは目を開き、はい、と一言頷いた。濃瑠璃の空を流れて行く銀の筋を見送りながら、ソキはううん、と首を傾げる。
「流れ星は、可能性の欠片なんです?」
「魔術師には、そう言い伝えられているな。占星術師が読みとる、夥しい程の可能性未来。その、一欠片が光を帯びた流星となり、この夜に魔術師の前に姿を現す。それは時に警告であり、時に祝福、時に災厄を教え、また時には先触れとなる」
「……ソキ、なぁんにも分かんないです」
しょんぼりしながら唇を尖らせるソキに、ハリアスが傍らに置かれたままの星座版を手に取り、差し出した。ハリアスのものは、彼女の膝上に置かれている。きょと、と見返すソキに星座版を手に取るよう促しながら、ハリアスは指でひとつの星を指し示した。
「見て、ソキちゃん。これが、今日の夜空を図にしたもの。……よく見たら、顔をあげて。空を見て……あれが」
デネブ、アルタイル、ベガ。指先できれいな三角形を空に描きながら、ハリアスは迷いのない声で言った。
「よく、見てあげて。魔術師の守護星は、必ず、私たちを呼んでくれているの。……赤い星がアンタレス。さそり座の星。赤星や、大火たいか とも呼ばれる星」
「……ハリアスちゃん。あれは?」
空に。ひときわ輝く青白い星を見つけて、ソキはその名を問いかけた。息を吸い、あれは、とハリアスは眩しげに目を細める。
「スピカ。おとめ座の星で……真珠星と、呼ばれることもあるわ」
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