桑楡は野薔薇の冠に 04

 砂漠の屋敷にあった頃、それは痛みという形を成す前に防がれた。

 ちょっとした違和を察知するに長けた傍付きたちは、かすかな痛みですら己の養育する『花嫁』、『花婿』に与えることをよしとはせず、それは頑ななまでに守られていた。

 またそうでなくとも、ソキの痛みは少女自身を守る恒常魔術によって瞬く間に消し去られるのが常であった。

 呪いのような守りの術は、それが発現してから常にソキを守り続け、病気からも、怪我からも、それらを知らせるどんな痛みからも少女を遠ざけ、消し去り続けた。

 予知魔術師が巡らせるその回復魔術について、寮長は報告書を読まされたからこそ知っており、副寮長は目にしたことがあるから把握はしていたのだという。だが、どちらも予想はしていなかった。

 不調を回復させ続けるその魔術が、正しく巡らないことが、ソキの体調を悪化させ続けることなど。

 最初にソキの不調に気が付いたのは、当たり前のようにロゼアだった。朝起きた時から、すこし熱があったのだという。

 普段より心もちぼんやりとするソキがロゼアに抱き抱えられて食堂へ現れた時、ナリアンとメーシャは口ぐちに食べ終わったら保健室へ行って今日はゆっくりしていなね、と少女を案じたが、それは差し迫った深刻さを感じさせるものではない、純粋に友を想う言葉だった。

 そこで普段とひとつ、違うことがあったとするならば、ソキの態度だろう。ソキはどうしてもロゼアから離れることを嫌がった。

 椅子に座らせようとするロゼアの首に腕を回し、いやですいやです絶対に離れたくないですロゼアちゃんの傍にいるです、と言い張り、中々一人で席に着こうとしない。

 ちょっとした騒ぎになったのを聞きつけた寮長が、洗練されきった一切の無駄の見受けられない無駄な動きで現れ、ソキをたしなめるまでその主張は続いた。

 寮長曰く、なに怖がってんだ、そんな風にしなくてもロゼアはすぐそこにいるだろうが、という言葉にナリアンがなに言ってんのこのひと、という視線を向けたのだが、それはあながち間違った指摘ではなかったらしい。

 ソキは思い切り不機嫌な、泣きそうな顔つきになりながらも無言で頷き、ロゼアのローブの端を片手で握り続けることで妥協した。普段より幾分、椅子の距離を近付けながら、ロゼアはソキに食事を促す。

 異変が現れたのは、食事の最中だった。恐らく、ソキは食欲もなく、体もだるかったのだろう。元気にならなくては、と思ったに違いない。ソキは大丈夫なんですよ、と己に言い聞かせるように言葉を口にした。

 魔力が巡り、体調はたちどころに良くなる、筈だった。ぱきん、となにか壊れる音がして、ソキがちいさな口を両手で塞ぎ、何度も、何度も咳き込むまでは。

 落ち着かせるように背を撫でるロゼアが、ソキ、と名を囁く。頷いたソキがぜいと息を吸い込みながら、なにかを告げかけた。きん、と音がして、ソキは悲鳴をかみ殺す。

 咄嗟に立ち上がったメーシャの肩を掴んだのは駆けこんで来た副寮長、ロゼア、と鋭く名を呼んだのはナリアンの肩に手を置いた寮長だった。

 いいか、それ以上ソキになにもさせるな、すぐ保健室に運べっ、という切羽詰まった寮長の指示に、ロゼアはソキを抱き上げ、学園に常駐する白魔術師の元へ駆けだして行く。

 薄い氷がひび割れて行くような、なにかが砕ける音は断続的に続き、白魔術師がソキを診た時には、すでに瞼が降ろされていた。

 白魔術師が下した診断は、二つ。最初の不調は、恐らく属性にないなんらかの魔術を発動した反動で、これは放っておけば自然回復する筈のもの。単なる疲労に近く、発熱やだるさ、咳を伴い、風邪の初期症状だと思っても間違いはない。

 深刻なのは、次の不調。なんらかの不調で魔術式がほんの僅か乱れ、噛み合わなくなり、発動しなくなっている。その乱れがどうして現れたのかは分からない。

 成長途中の魔術師にはよくあることで、これも自然に治るのを待つしかないが、不調が二つ重なっている上に、生来の体力のなさ、体の弱さがあだとなる。これがもし、ロゼア、メーシャに起きたことならお昼寝するくらいで回復してくるだろう。

 ナリアンでも、一昼夜寝込むくらいでなんとか元通りになるに違いない。

 深刻なのは不調が起こっているさなかに噛み合わなくなったことであり、この魔術が恒常的に巡っていること、一定のところまで体調が回復するまで発動し続けること、そして、それを止める術がソキにはないこと。

 噛み合わないままに発動し続ける魔術はすでに呪いに等しく、けれども元は祝福の性質すら帯びた回復魔術であるからこそ、消してしまうことは難しい。

 一刻も早くかけ違えた釦が正しい位置に収まることを祈るしか、今できることはない。そう告げた白魔法使いは、ソキが最も安心できる場所で横にしておいてやれ、とロゼアに告げ、対処できるであろう可能性を持ったヤツに連絡はしてやる、と言った。

 ツフィアかリトリアか、さもなくばフィオーレ。

 この三人なら可能性があるが、一人は連絡自体が通じない可能性が高く、一人は学園に来られる可能性がほぼなく、もう一人は朝から国外に出かけていて連絡を繋げられるまで時間がかかる。

 誰かが間に合うか、さもなくばソキが自力で歪みを修正するか。待つしかできない、待ってろ、と告げられ、ロゼアはソキを連れて自室へと戻った。

 寝台を整えてソキを寝かせ、空気を一回入れ替えて、環境を整える。ナリアンとメーシャには薬の処方を紙に書きつけて託し、ソキが食べられそうなものの用意を頼んで、ロゼアは己の『宝石』へ、寄り添うように腰を降ろした。

 手を繋ぎ、髪を撫で、名前を呼び続ける。うん、と返事をする代わりに時々うっすらと目を開き、そこへロゼアが居ると分かると甘くとろけるような笑みを浮かべて、繋いだ手にきゅぅと力が込められた。

 巡る魔術と、その痛みにソキが疲れ切って反応できなくなってしまっても、ロゼアはずっと手を繋ぎ、名を呼びながら髪をそぅっと撫でている。か細い呼吸は時々途切れ、乾いた咳になって吐き出される。

 喉の通りを良くする香草の匂いが部屋に満ちているが、あまり助けにはなっていないようだった。輝きながら円を成す魔力が、またぱきり、音を立てて砕け散って行く。

 どこかで、笑う声がした。ソキの髪を撫でていた手から、力が抜け落ちる。触れる動きが変わったのに気が付いたのだろう。うっすらと瞼を開き、ソキの瞳がロゼアを映しだす。

「……あ、ちゃ……?」

 ロゼアは、それに応えなかった。ひゅうひゅう、苦しげな息を吸い込んでは吐き出している、ソキのほっそりとした白い首に、指先を這わせる。

 極端な怯えにソキの体が跳ね、目が大きく見開かれた。けふっ、けひゅっと苦しげに乾いた咳を繰り返し、ソキはいやいやと首を振る。

「あ、ちゃ……や、やっ、触らなっ……くび、や、やぁっ、やあぁっ!」

 怖い、怖い、怖い、と全身で訴えるソキの意思をまるで無視しているかのよう、ロゼアはすぅ、と慈しみ愛でる動きでソキの首、その肌を指先でなぞった。

 何度も、何度も咳き込みながらソキは息を吸い込み、ようやっと、その名をくちびるで紡ぎ上げる。

「――ロゼアちゃんっ!」

『ロゼア、くん?』

 どうしたの、と慌てた様子で入ってきたのはナリアンだった。ロゼアは夢から醒めた様子で瞬きを繰り返し、どうしたって言われても、と首を傾げてみせた。

 ナリアンが傍までくる僅かな間に、手はソキの首から外れ、また髪を撫で梳かしていた。

「……なにが? そんなに慌てて、どうしたんだ? ナリアン」

『……ソキちゃんが、泣いてた気が、して。……声が』

「ソキが?」

 慌てて『宝石』を凝視するロゼアの顔を、横からひょいと覗き込んでナリアンは意志を揺らした。

『……気のせい、だった、かな』

「なにが?」

 ひょい、とさらにナリアンの上からソキを覗き込みながら告げた男に、ロゼアはぎょっとして身を仰け反らせ、口をはくはくと動かした。咄嗟に、声も言葉も出てこない。

 半分圧し掛かられている為に、上手く振り返れないナリアンは、誰かも分からないらしい。

 えっえっなに誰寮長なの寮長だったら俺はとりあえず拳を顔面にぶちこめばいいのそうなのそうだよねよしやるね、と大慌てで決意して手を握るナリアンに、わああああっ、と叫んで、ロゼアはソキの髪を撫でていた手を外し、その腕を掴んで止めた。

「違う、寮長じゃない!」

 直後、部屋の入口付近でぶふおっ、と笑いに吹き出す音がした。それをうんざりと振り返り、ナリアンの上から退きながら、砂漠の王はちょいちょいと手招きをする。

「なんだその愉快な人違い……フィオーレ、笑ってないではやく来い」

「だ、だって、そこでなんで寮長……! え、ナリアンどうしちゃったの? 常日頃寮長からどんな扱いされてんの? そういう感じに可愛がられてんのぶふっなにそれ面白い」

「フィオーレ。俺は同じことを二度言うのが嫌いなんだが? ……笑ってないで、はやく、来い」

 あとお前は邪魔だからちょっとこっち来てろ、とナリアンの首根っこを引っ張って部屋の入口へ向かう砂漠の王は、黄金の瞳でロゼアを一瞥したのち、なにも言葉をかけずに距離を開けた。

 部屋の入口付近で王とすれ違い、えっなに俺今どうなってるのこの人教科書とかで顔を見たことがあるんですけれどもいやまさかそんな、と混乱しきった顔のナリアンにまたおかしげに笑ったのち、フィオーレは軽やかな足取りで、寝台に寄り添うように座りこむロゼアと、眠るソキの元へやってきた。

「やー、半年に一回の視察が今回砂漠の国でね、陛下と一緒に来てたんだけど、なんかソキが自家中毒起こしてるっていうからお見舞いにね? この状態、いつから?」

「……朝から、です」

「そっか、そっか。よく頑張ったな、ロゼア……そのまま、手は繋いでおいで。絶対離さないで」

 言う間に旅装を脱ぎ捨てたフィオーレが、ぐるりと肩を回して寝台に身を伏せる。口付けるように額を重ね、顔の距離を近くして、フィオーレはうっすらと微笑んだ。

「慌てちゃったんだな。大丈夫、だいじょうぶ……そんなに急がなくても、誰もお前を置いて行きやしないよ」

 ぱきん、と音がした。壊れる音だった。それでいて、硝子の花が蕾をひらく、そんな優しい音にも聞こえた。ふふ、と優しく笑みを深めたフィオーレが、静かに息を吸い込んだ。

「……ひかりは口付け、癒しの花が咲く。その透明な花びらを、風は運んで行く。遠くへ、遠くへ。指で指し示す青空、瞳が追いかける地の果て、その先へ、遠くへ」

 魔術詠唱だ、とすぐロゼアは気が付いた。戸口で居心地が悪そうにしていたナリアンも、はっと息を飲んで白魔法使いを見つめる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る