桑楡は野薔薇の冠に 02

 背の高い書架が明りを遮る薄闇の中、開いた本と手元に向かってまっすぐ降りる一筋の黄金こそ、王に捧げられたこの世の祝福、福音そのものだった。

 場にある魔術師たちがなにもしていないことは、室内の魔力がなにも歌っていないことからも明白なことだ。ひかりは、彼の王を愛している。

 それが彼の治める国でなくとも、輝きは常に存在を選んで天から降り、王の手元をほの明るく輝かせるのだった。

 魔術師には紡げぬ王の真名を声には出さず口唇の動きだけで呼び捧げ、フィオーレは己の王へ差し出す忠誠を、喜びと共にそっと深めた。

 時間は一方向にしか流れないが、もし、過去の己へ言葉を届ける術があるのなら、学園を卒業する間際の己にひとつだけ、言ってやりたい。

 大丈夫だと。砂漠の王の元へ行くことを、必ず、心から喜び、彼の人を愛し慈しむことが出来る日は必ず来るのだと。今では砂漠の国王こそが、フィオーレの唯一の王。

 膝を折り頭を下げ礼を尽くし、心身なにもかも傷つけず守りたいと思う、唯一の。王。魔術師たちが忠誠を捧げるもの。熱心に見つめてくるフィオーレの視線に、根負けしたのだろう。

 会話が聞こえぬ距離を保ち、目の届く範囲にはいろ、という命令を忠実に守っていることは評価する苦笑で顔をあげた砂漠の王が、白魔法使い向かって手を持ち上げ、人差し指を口唇の前に押し付け、目を細める。

 静かに、いいこで、俺が呼ぶまではそこで待機していろ。声を出さず、口唇の動きだけでそう命ぜられ、フィオーレは満ちた吐息と頷きで、その意志を受け止めた。

 砂漠の国王は従順な白魔法使いに気を良くした様子で、その足元にしゃがみこんでいた星降の国王に、なにかを囁き落としている。

 星降の国王はなぜか戦慄した表情でぶんぶんと首を振り、俺はなにも見なかったし聞かなかったことにするんだからなっ、と言い張っていた。声が聞こえてしまったものは、もうどうしようもない。

 意識を集中して、響いてくる声を音として捕らえ、言葉として認識してしまわないようにする魔術師たちのただなかで、フィオーレは全く緊張感のない、へにゃりとした満面の笑みを浮かべていた。

 図書館の書架の隣、読書の為に備え置かれた椅子に腰かけ、机に突っ伏しながらくふくふと笑う。

「俺のへいか、ちょう、かっこいー……! な、な、ラティ? そう思うだろ? しー、って、しーって! なにあれ! ちょう! かっこういい!」

「うふふあははうちの陛下が超絶格好いいのは分かり切ったことだから一々言うまでもないわうちの陛下が格好いいのは! 当たり前のことだもの! ね! というかお願い私を巻き込まないでちょっとやめて放して服引っ張らないで私今忙しいの。空気中に漂う埃の数を数えるのに超絶忙しいの! だから他のひとに、他の人に話しかけなさい他のひとに! 私じゃない! 誰かに!」

「ええぇー……いいじゃん、ラティ? お話、しよ?」

 服をくい、と引っ張って、ねっとばかり首を傾げて問いかけてくるフィオーレの頭を両手でがっと掴み、その額をためらいなく机に打ち付けながらラティは涙ぐんだ。

 ふぎゃんっ、と叫ぶフィオーレの頭に遠慮なく力をかけながら立ち上がり、イケメンが憎いっ、と涙声で叫ぶ。

「ちくしょうイケメン爆ぜろっ! ちょっと顔が良いからってなんでも許されると思ったら大間違いなのよばかああぁあっ! あっ、でも陛下は違いますから陛下は別腹っていうか私の陛下今日も格好いいです眼福です本当にどうもありがとうございますって毎日! 思っていますから! でもフィオーレはほんとに……! アンタ自分の顔の使い方分かっててやってるでしょ! そうでしょ! そんな顔でお願いされたら断る方が罪悪感っていうかああもう分かったわよ話せばいいじゃないの聞いてやるわよしょうがないから!」

「いたっ、いたたたたラティお願いだから、手! 手を離してから、に、し、て、ほしっ……! ひたい、額が割れっ……!」

「額くらいで一々! ぎゃんぎゃん! 騒ぐなっ!」

 解放した頭を再度掴んで机に叩きつけ、ラティは腕組みをしてふんっと鼻を鳴らした。

「額が割れたら、治せばいいじゃない?」

「……お前俺のことなんだと思ってんの?」

「あなた、フィオーレ以外のなにかにあったことあるの? ないでしょう? あったら言ってみなさい。今すぐ、ここで」

 とんとん、と机を指先で叩きながらの物言いに、フィオーレはそっと体を遠ざけ視線を落としながら、ないです俺はいつでもフィオーレです、と半泣き声で言った。

 よろしい、とばかり頷いて、ラティが立ち上がった椅子に座り直す。

「それで? なに? なに話すの? 暇なら『扉』がなんで繋がらなかったかとか、考えなさいよ。魔法使いでしょ? 最高位でしょ?」

「俺がいくら魔法使いだからって、そういう無茶ぶりするのはどうかと思う……」

「はぁん?」

 額を割るぞ、と言わんばかりの表情に、フィオーレはうろうろと視線を彷徨わせた。

「ラティ、なんでそんな、機嫌悪いんだよ……」

「メーシャの顔が見られる機会を失ったからに決まっているでしょう?」

 砂漠の国から学園へ繋がる『扉』が起動しなくなったのは、今朝のことである。原因は分からず、対処できる者もいない。

 昼過ぎには使用が可能になったものの、その頃には連絡を受けた白雪の錬金術師、エノーラが安全策として当面の使用禁止を要請してきた為、現在は封印が成されている。

 他国経由で学園に向かう『扉』まで不安定な状態に陥った訳ではない為、完全に閉ざされた訳ではなく、行けないということでもない。

 しかし主に砂漠の国王の身辺警護を行っているラティとしては、養い子の顔を見に行くくらいの理由でそう砂漠の国を離れる訳にはいかないのだった。

 今日を楽しみにしてたのになぁ、と息を吐くラティに、フィオーレは猛獣に手を伸ばすような心もちで、恐る恐る指先を伸ばした。

 ちょいちょい、と髪に触れるように撫でられて、ラティは深々と息を吐く。

「……メーシャは、元気でいるのかしら。私のことをたまには思い出してくれたりするのかしら……」

「前から思ってたけど、メーシャとラティってどういう関係? 血縁じゃないよな?」

「もしも血が繋がっていたとしても、私にはそれは分からない。あなたも知っているでしょう、フィオーレ。メーシャの魔力は暴走を起こし、その結果として、メーシャという存在を知る誰もがその記憶を失った。……ルノンを除いて」

 妖精は、世界全てからかき消え、断ち切られるその暴走に巻き込まれることがない。彼らは純粋なる魔力そのものに最も近い生き物であるから、ひとと魔術師に影響するそれに食らわれることはなかったのだ。

 ふぅん、と面白そうに笑みを浮かべ、フィオーレはじっとラティを見る。

「それは俺だって知ってるよ。でも、ラティ?」

「……なによ」

「じゃあなんで、ラティは、メーシャの名前を呼べたんだ?」

 記憶を失い、繋がりの全てを消されたそれの名を、どうして。警戒の眼差しに意識して笑いかけてやりながら問うと、ラティは本当に嫌そうな顔をして眉間にしわを寄せた。

 ああなんでそこに気がついちゃうのかしらこの男、メーシャだってルノンだってそこに気がつきはしなかったのに、と語る瞳でしばらくフィオーレを眺めた後、ラティは誤魔化しのない表情で唇を開いた。

「私が、その前から、メーシャを知っていたからよ。……あの日、あの時、失われると。知っていたからよ、知ったからよ。私が……たった一度きり、使うことのできた魔術で。それを知ったから、行ったの」

 今はもうできないけれど、と語るラティの使いこなせる魔術は、ひとつきりだ。ひとを眠りに誘い、望む夢をみせる。それだけ。昔から、入学してきた時から、今日に至るまで、ラティはそれだけしか使いこなせなかった。

 けれども、入学式のその時、ラティは祝福によって告げられたという。お前がその生涯で正しく起動できる魔術は二つきり。

 ひとつは起動すればもう二度と使えず、もうひとつはいつか、なにもかもと引き換えにする選択を迫られるだろう。使えなくなったひとつが、恐らく、未来視だ。

 いくつもある未来の中から、もっとも可能性の高いそれを手元まで引き寄せ、『視認』し、実現させる為の魔術。占星術師の最も基本的で、初歩的な魔術だった。

 それを失ってなお、ラティは占星術師として在り、魔術師として存在する者のままだった。夢が。眠りの中描く夢だけが、今も彼女を魔術師として形作らせている。

「私がメーシャの名前を覚えていたのは、もう二度と魔力が、私からなにかを奪うのを許したくなかったからよ」

「……ラティのその想いが、メーシャの名前を守り切ったんだな」

「すごいでしょう?」

 誇らしげに笑うラティに、フィオーレは目を伏せ、しっかりと頷いた。すごい、と思う。強い、とも思う。ラティの入学は、十七歳。魔術師のはじまりとして遅い方ではないが、ラティに言わせてみれば『手遅れ』であったらしい。

 ラティは十五で妖精を視認した。この星降の王宮で。新入生を導いてきた案内妖精を視認し、それから二年間、王宮に在った。

 少女は、王の護衛騎士であったという。十五にして、王の最も傍で身を守る役を任せられる程の、才であったという。妖精の視認は少女から約束された将来を奪い、断ち切り、希望を失わせ、ただ魔術師としてやり直すことを義務とした。

 それも、最も才能のない魔術師として影で囁かれるような未熟な存在として。与えられた魔力は少なく、使える魔術は片手の数より少なく、祝福によってその数はすでに定められている。

 何度も何度も、泣いていたのを知っている。それでも、前を向き続けたことを。

 諦めて、思い直して、諦めて、立ち上がって、諦めて、諦めて。それでも泣きながら、ラティは何度でも前を向いた。すくない魔力量で、一回か二回、魔術を行使しただけでも枯渇してしまうようなそれで。

 不安定な起動しかしない魔術で。それでも、きっとなにか、できることがある筈だと。信じ続けた。諦めるたび、もう一度、と思い直した。その強さを尊敬してやまない。

 ラティはすごいよ、とだからこそフィオーレは、心からの想いでそう呟く。うふふ、と嬉しそうに笑ったのもつかの間、そのメーシャに会えなくなったことを思い直し、ラティは落ち込んだ息を吐きだした。

 落ち込みが思考を妙なところへ飛ばしたらしく、机にばたりと伏せたラティは灰色の声で囁く。

「……メーシャ、私の魔力量にびっくりしたりしないかなぁ。いや、驚くとは思うんだけど、あんまり少なくて」

「ラティはさぁ、メーシャのこと好きなの?」

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