桑楡は野薔薇の冠に

桑楡は野薔薇の冠に 01

 透明な水にひたひたと晒され、繊細に編み込まれた光の帯だけが口付けるように触れて行く珊瑚の、桃花色の瞳が深く闇の中を見つめていた。

 星のない夜にはほの淡く漆黒を宿し、薔薇色にも染まる瞳の普段の色合いは、薄紅や紅梅、時に桜にも似ている。けれどもその男のまことの瞳の色は桃花を宿した珊瑚であると、知る者は学園にも、その外にも数少ないだろう。

 感情によってほんの僅か、瞳の濃淡を変える体質は、幼い時分より中間区の空気に触れたことによって形成されたものなのだと聞く。

 それ以外は、誰も知らない。本当に知りたい、大切なことばかりを誤魔化してしまうのが、しかもそれを相手に悟らせもしないのが酷く上手い相手だからだ。

 彼は常に多数の思考を同時に動かしていて、一つきりに集中しきってしまうことは、滅多にない。過去五年程の記憶を遡ってみても、その色彩を見たのは一度きりだった。

 現在はソキの担当教員として数日おきに学園に来ている彼の魔術師の身に、またなにかあったのかとも思うが、そうであるなら男はこんな場所にはいないだろう。

 空気を張り詰めさせているのは思考にふけるが故の緊張ばかりで、敵意や殺意めいた衝動はひとつも感じ取れなかった。さてそうすると、なにが起きたというのか。溜息をつき、ロリエスはまた一歩、男の元へ足を踏み出した。

「シル……寮長?」

 名ではなく。その役職で呼んでいた時代も、確かに存在はするのだ。懐かしい気持ちで戯れに呼びかけてやれば、寮長は驚いた様子で振り返り、麗しき魔術師の名を囁いた。

「ロリエス……。窓から差し込む光が淡いと思っていたんだが、そうか、俺の女神の輝きのせいか……!」

「いいから、純粋に今日の天気が曇りだという現実に辿りつけ、シル。……こんなところで、なにを?」

 こんなところ、と告げる声にひときわ訝しさが混じったのは、普段なら寮長の姿がある場所ではなかったからだ。寮の一階、南側の廊下、その一番奥に位置するこの場所にあるのは物置部屋と、そして砂漠の王宮へ繋がれた『扉』だけだった。

 清潔に保たれている場所だから埃はなく、かび臭さもないのだが、それでも普段は使われぬ、人気の全くない場所であるからか、独特の空気感があった。時の流れていく空間であるのに、不思議と停止しているような。

 流れが奇妙に滞っているような。濁ってはいない。透き通るまま流れを変える川の、中州付近を見ているような気持ちになる。押し流され、何処へ運ばれて行く砂や、石。手の指の間をすり抜けてしまう、不安な感覚。

 ロリエスは唇に力を込め、指をぐっと握り締めた。魔術師たるもの、言葉にできない胸の不安などに、意識を預けるなんてことはしてはいけない。理性的であれ。常に、常に。

 流され、朽ち果てゆく同胞に、それでも手を伸ばし。この世へ引き戻す存在であれ。

「シル」

 怒りを、熱く、叩きつけるように。しっかりとした声で名を呼び直すロリエスに、寮長は苦笑気味に首を傾げてみせた。心配性、ともからかうように。なんだ、と労わるような声で問われて、ロリエスは思わず一歩、前に出た。

 不用意に男との距離を近くしようとは思わない。けれど、今は。その涼しげな首元を掴んで、乱してやらなければ気が済まなかった。

 服を掴んで、下へ引っ張る。忌々しいことにロリエスより長身の男であるから、そうしなければ、望む近さで視線の位置が重ならなかった。不意のことだったのだろう。

 へ、と間の抜けた声をあげてあっけなく体勢を崩したシルは、ロリエスの望む通り、瞳の高さを水平にした。瞬きを二度、繰り返して。ほの暗く、薔薇色の瞳がやんわりと微笑む。

「なんだよ、ロリエス。……この近さは駄目だ、口付けたくなる」

「触れるな」

 はいはい、と苦笑しながらロリエスを抱きこむシルは、言いつけ通りにその身に触れようとはしなかった。ただ、手を組み腕でゆるい輪をつくり、その中にロリエスを閉じ込める。

 じっと、ロリエスだけを見つめる瞳が、振り払われないことを確信してほっと安堵に緩んだ。そして、視線が伏せられる。

 己から反れた瞬間、再び桃花の珊瑚色に染まった瞳を忌々しく睨みながら、ロリエスは幾度目になるかも分からず、男の名を厳しく呼んだ。なにがあった、と問いを叩きつけられると、寮長は一度、ゆっくりとした仕草で瞼を降ろした。

 一秒、二秒。数えて五秒で、思考をまとめてしまったのだろう。再びロリエスを覗き込んだ色は明るい桜の色をしていて、もう二度と、ひとつきりの思考に囚われるつもりはないようだった。

「……なにを考えてたんだ? シル」

「んー……?」

 ロリエスが近くて幸せだな、とかそういうことを。そう、半ば本気で囁いてくる寮長の頭を容赦なく平手で叩き、ロリエスは凍土を思わせる眼差しで男を眺めやった。

「私は頼りないか。お前の……悩みや、考えを分かつ相手に、私では……誰を」

 呼んでくれば、助けになる、と。紡ごうとした唇が、撫でるような眼差しに、止まる。息を飲む、そのさまをじっと見つめて。

「ロリエス」

 歌うように、ただ、シルは囁いた。

「……ローリ、お前意外の誰が、俺に、必要だって?」

「では、話せ。……離せ、いい加減に」

 私以外が必要ではないと、他ならぬお前がそう告げるのであれば。それに従い、私に従え。激しい意志でもってそう求めるロリエスに、シルは苦笑しながら組んでいた手を解き、ゆるやかな円から麗しき魔術師を開放した。

 弱っている間はそれなりに甘やかしてくれるくせに、立ち直りかけたとみるや引き剥がす、その甘くほろ苦い優しさが、愛おしい。好きだ、と告げると舌打ちがひとつ。

 いいから、はやく、話せ、と苛々と繰り返されて、寮長は笑いながら背後を振り返った。視線の先に『扉』がある。砂漠の王宮と寮とを繋ぐそれは、冷えた静けさで沈黙したままだった。

「今朝、砂漠の国から連絡が入った……『扉』が使えなくなったそうだ」

「使えない?」

「王宮から、学園に直通する『扉』が上手く起動しないと。……他の王宮へ移動するものや、国境へ行くものは使えるそうなんだが、学園へ来られないらしい。調べてはみたんだが……その時だけの異変だったのか、他に理由があるのか、目立った変調は見つけられなくてな」

 今はもう普通に使えるようになってる、と『扉』を見つめるシルの視線を追いかけ、ロリエスもそれを注視した。他の『扉』と同じく、それは一見、部屋に入る為に取りつけられたものとなんら変わらない形状をしている。

 古い木で作られた扉。必ず一本の木から作りだされた一枚扉でないと作れないというそれには、夥しいほどの魔術式が組み込まれ、眩暈がする程繊細に編み込まれた魔力が、空間と空間を繋ぎ合せている。

 設計図はとうの昔に消失し、どれだけの式が術を支え、構築しているかは未だもって不明のままだ。現存する魔術師の中で唯一完璧な複製を作りあげることが出来る天才、エノーラですら、理解は六割で留まっているのだという。

 分からないけど残りの四割は勘で行けた、と真顔で申告したエノーラの発言は魔術師たちの伝説に残っている。

 錬金術師でも、空間魔術師でもないシルは、半分ほどの理解で限界なのだという。

 普通なら二割も読み解けないそれを半分理解するだけでもおかしいのだが、寮長は普段から違う意味でちょっとおかしいのが常なので、あまりその偉業は注目されないままだった。

 それでも有事に報告が飛ぶくらい信頼されているのは確かであるので、ロリエスは静かな気持ちで、思い悩む寮長の横顔を見つめた。

「シル」

 なにを告げるでもなく、告げる言葉を持つでもなく。名を呼ぶロリエスに、振り返ったシルは眩しげに笑う。その存在がまるで、光であるかのように。輝きを見つめるように目を細め、そうだな、と呟き、『扉』に背を向けて歩き出した。

 行く先の廊下は、窓から差し込む淡い光で満ちている。硝子越しに仰ぐ空は、灰色。ぶ厚い雲が降りる光を濾過したがるよう、一面に広がり、座していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る