君ありて幸福 03

 硝子の大瓶にざらざらと入れられたクッキーは、ざっと確認しただけで四種類あるようだった。これをソキが寝てる間に作ったんですねぇ、と妙な所に感心しながら、少女は視線を持ち上げてナリアンを見た。

 ナリアンは幸せそうに笑いながら、好きなのをお食べ、とソキにクッキーを促してくる。

 ソキは昨夜ロゼアから受けた注意と約束のひとつ、食べすぎておなかを痛くしたりしません、を思い出しながら、瓶の中にそーっと、そーっと手を差し入れた。

 選んだのは、赤い乾燥果実が練り込まれたクッキーだった。ふわりと苺のような、甘酸っぱい香りがする。やや大きめのいびつな丸に焼かれたクッキーを両手で持ち、ソキはナリアンにぺこん、と頭をさげた。

「いただきますです」

『はい。召し上がれ』

 ソキはクッキーをためつすがめつ観察した後、端にちいさく歯を立てた。もぐもぐ、ほんのすこしだけかじって食べて、不思議そうに首を傾げる。

「ナリアンくん」

『おいしく、ない……?』

「ナリアンくんがつくったです? ほんとう?」

 不安げな眼差しをまっすぐに見つめ返し、ソキはうすぼんやりとした記憶を手繰り寄せようとした。これと同じ味がするものを、どこかで口にしたことがあるような気がする。

 それはとても温かくて、そしてなんだか、泣いてしまいそうなくらい優しい印象ばかりが残る、いつ、どこで、だれと、どんな時に、がまったく思い出せない記憶だった。確かに、なにかの覚えがあるのに。

 また一口、ほんのすこしかじって、ソキはだんだん泣きそうな顔つきになってきたナリアンを、安心させるように笑った。

「おいしいです。ソキ、これ、とっても好きですよ」

『……ほんとう?』

「ほんとです。ナリアンくんは、お菓子がつくれるですね……! ロゼアちゃんもね、時々つくってくれるんですよ。でも、それとは違う味がしますです。ナリアンくんのクッキーは……なんだか、やさしい味がします」

 料理も、同じものを作ってもひとによって味が違うものだ。人柄が出るのだろう。ソキはちまちまとクッキーを端からかじりながら、安堵のあまり椅子の上でぐったりしているナリアンを見やり、ちょこんと首を傾げてみせた。

「ナリアンくんは食べないです? 休憩中です? お勉強おしまいです?」

『……もうすこししたら、勉強、するよ』

 ふわりと、貴婦人のまとう衣が足元で揺れ遊ぶように。優雅に、室内で風が動くのをソキは感じ取った。ナリアンは特に気が付いていないらしいその動きこそ、彼を愛する『風』の、喜びなのだろう。

 よかったわね、と喜ぶように。やわやわと揺れ動く風は、ソキの頬をも撫でて行った。ソキはちまりちまりとクッキーを丸の半分くらい食べ進め、それを白い皿の上に置いた。

 指先を布で拭い、ソキはあれ、とナリアンを見て目を瞬かせる。真正面の椅子に座るナリアンは、なんだかすごく眠そうに見えた。おりしも、温かな陽光が室内を満たす午後三時過ぎ。お昼寝には良い時間だった。

 ソキもすこしばかり眠くなってふぁ、とあくびをしながら、ソキはそーっとナリアンに声をかけた。

「ナリアンくん。寝ちゃうですか?」

『ううん。……寝ないよ。勉強、したい』

「ナリアンくん。昨日はちゃんと眠ったですか? ソキが寝てる時にクッキー焼いてたです?」

 ナリアンは椅子の上で、もそもそ、眠たげに身動きをしたのち、ぐったりと頷いた。

 すでに半分眠っているとしか思えない仕草に、ソキはぴかぴかの笑顔で会話が通じている気がしないです、と思うと、己の椅子から床に体を滑り落とした。

 半分落っこちるような形で床に降り、ソキは机をぐるりと半回りして、目を擦るナリアンの腕に両手を伸ばした。腕にじゃれつくように甘くひっぱり、ナリアンくん、と呼びかける。

「おひるねです。ナリアンくん、お昼寝ですよ。ソキとアスルと一緒に寝るですよ!」

 昨夜、ちょっと夜更かししてしまったソキは、眠くなったらちゃんと寝るんだぞ、というロゼアの言いつけをしっかり実行できるように、勉強道具と一緒にアスルを部室まで運んで来ていた。

 部屋にはふかふかした大きなソファがあり、枕とブランケットも置いてある。ソキ用なのでナリアンにはちいさいかも知れないが、ないよりはましだろう。

 ロゼアちゃんがお昼寝の用意してくれたですよ、眠るですよ、と腕をぐいぐい引っ張ってくるソキに、ナリアンはなぜか心から癒されているような眼差しを向け、うっとりとした様子で意志を紡いだ。

『俺は、大丈夫。ソキちゃんはおやすみの時間なら、眠らないといけないね』

「ナリアンくんが寝ないなら、ソキは起きてることにするですよ。今こそソキのガッツと根性の出番です。ソキ、ねむたいのがまんできます。がまんなんですよ!」

 すでに半分くらい眠気を我慢できないほわんほわんした声で、それでいて気合いに満ちた宣言をするソキに、ナリアンはこれはいけない、と思ったのだろう。

 俺がちゃんと眠らせてやらなきゃ、と使命感に満ちた顔つきで椅子から立ち上がると、じゃあ一緒にお昼寝しようか、とソキに腕をひっぱられるままにソファへ移動する。

 もちろんナリアンは、眠るソキを守る騎士よろしく、起きているつもりだったのだが。ソファに辿りついたソキがちょこん、とそこへ腰かけ、ぽんぽん、と膝を叩いた時点で目論見は水泡に帰した。

 あれこれまさか、とぎこちなく笑むナリアンに、ソキは容赦のない満面の心から楽しげな笑みで、はいどうぞ、と言った。

「ソキねえ、ひざまくらとくいなんですよー」

 それに得意と不得意が合ったという事実を今初めて知ったんだけどそれはともかくロゼアくん助けて今すぐに迅速に、という眼差しでふっと遠くを眺めたのち、ナリアンはぎこちなく、首を左右に振った。

『……えっと』

 しかし、言葉が続かない。どう断れば傷つけないで済むだろうと悩むナリアンに、ソキは身を乗り出して服を両手でほんの僅か、摘んで下へ引っ張った。じー、と下から見上げる眼差しに、ナリアンの心が叩き折られる音がした。

 失礼します、とそろそろソファへ横になるナリアンの首辺りに手を伸ばし、ソキは容赦なく、青年の頭を膝の上へと導いた。そして、ひどく優しい仕草で髪を手で撫でてくる。

 やわらかく、ゆっくりと。するすると髪と肌に馴染む指先の体温は、眠りへ導く魔法をかける術を知っているようだった。適当な所で眠れないから、と体を起こす気でいたナリアンの意識が、あっけなく解けて夢へ沈んで行く。

 やがて深く寝息を響かせ始めたナリアンの頭を撫でながら、ソキもまた、眠そうに長く、あくびをした。他人が傍にいる場合、ソキは簡単に眠ったりしない。どんなに眠くても。

 ロゼアが傍にいれば話は別で、旅の間は、ソキにとっては案内妖精がそれに該当した。んん、とすこしばかり不思議そうにむずがり、ソキは眠たくて目を擦りながら首を傾げた。

 ここには、ロゼアちゃんも、リボンちゃんもいないです。どうして、と寝声のような発音でふわんふわん呟き、ソキはソファにおいておいたアスルに手を伸ばした。

 ナリアンの顔に当たらないように注意しながら、アスルをぎゅぅー、と抱きしめて顔を擦りつける。アスルはおひさまのにおいがした。

 二人分の寝息が響く部屋に。風がくるくると、踊るように吹いていた。愛し子の幸福を愛でるように。そのささやかな眠りを、守るように。




 ロゼアくんごめん俺ソキちゃんの膝枕で眠っちゃった、と懺悔するようにナリアンから言われて、数日後。

 ロゼアくんどうしようソキちゃんといると俺気が緩むみたいで眠くなるんだよねこれじゃなにかあった時にソキちゃんを守れないと思うんだ、と真剣な顔つきで、ロゼアはナリアンに相談された。

 なにかあった時って例えば、とロゼアが首を傾げる隣で、メーシャがナリアンはなにと戦ってるんだ、とまっとうな突っ込みをはなつ。ナリアンの返答は早かった。

『寮長』

 真顔である。

『寮長から、俺がソキちゃんを守らなくちゃ……!』

「ソキだいじょぶなんですよー、ナリアンくんはソキよりじぶ」

「ソキはもうちょっと眠ってような」

 膝の上でむくりと起き上がり、ほわんほわんした声でずばっと正論を言いかけるソキの口を素早く塞ぎ、ロゼアはおやすみ、と言い聞かせた。

 ソキははぁい、と頷くとまたロゼアの膝の近くへまるくなり、アスルを抱きしめてすうすうと寝入ってしまう。ほんとうに、ちょっと起きただけだったらしい。

 胸を撫で下ろすメーシャの持ち上げた視線の先、ナリアンはソキの発言に気が付いた様子もなく、眠る少女をやさしい眼差しで見守っていた。

 それは兄が、いとけない妹を守ろうと決意しているような。あたたかく、穏やかな感情のゆらめきだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る