君ありて幸福 02

「だめなんですか?」

 聞かれても、ナリアンには分からない。どうかな、と怖々ノートを受け取り、純粋な好奇心で、ナリアンはそこへ視線を落とした。

 書かれていたのは、綺麗に整えられた印象の強い文字だった。少女特有の、可愛らしいくりくりとしたちいさな文字ではなく。

 それは記録に長けた者の文字だ。後世へ残す為の記録を転写する時、写本師たちは努めて、筆跡を整える。ソキが書くのは、そういう文字だった。

 内容よりもその文字の意外さに目を瞬かせ、ナリアンはしみじみと、心からの感想として告げた。

『ソキちゃん……きれいに、字を書くね……!』

「ロゼアちゃんもねえ、こういう風に書けるんですよ!」

 褒められたことへの喜びより自慢げに、ソキはえへん、と胸を張って言った。それから、ひょい、とナリアンの手元を覗き込んで来た。

「ナリアンくんの文字も、とっても読みやすいです」

『ありがとう。でも俺は、写本師だったから……』

 職業柄だよ、と苦笑するナリアンを、ソキはまじまじと見つめた。光を抱く鉱石めいた瞳が、不思議そうに揺らめいている。

 しょくぎょうがら、です、と未知のものに突き当たった、たどたどしい響きでそれを口にして、ソキはこてん、と右に首を傾げた。

「ナリアンくん、しゃほんしさん、です?」

『う、うん』

「……本を、書く、おしごとのひと、です? 数がすくない本を、書きうつしたり、する……?」

 記憶を手繰り寄せて難しげに眉を寄せながら、ソキはナリアンを注視し続けていた。なにかおかしいことを言ってしまっただろうか、とどぎまぎするナリアンに、ソキはやがて、心底感心したように息を吐きだした。

「ナリアンくんは、お仕事をしていたひとなんですね……!」

 十五の成人を迎える前後に学業を終え、親の庇護を離れ、働きだすのが一般的な在り方だ。けれどもソキは、本当の意味で、そうしていた者に会うのがはじめてなのだろう。

 やたらきらきらした目で見つめられて、ナリアンは居心地が悪そうに身じろぎをした。いつもなら、だいたいこれくらいでロゼアがソキをたしなめてくれるのだが。

 『寮の窓を拭く。窓という窓を拭く。ひとつ残らず拭く。覚悟しろ窓という名を持つ窓どもよ! ぴっかぴかにしてやる! 格好よく、そして華々しく、かつ効率を忘れず、そしてスタイリッシュに! エクストリームに!』という本日の狂宴部に参加しているロゼアが、この場に現れる気配はなかった。

 よって、好きなだけナリアンをきらきらした目で眺め倒し、ソキは満足したそぶりでうん、と大きく頷いた。

「ナリアンくんのおてては、文字を書く人のおててなんですねぇ……!」

『そう、だね』

「……あれ?」

 ソキはナリアンの手を見つめ、己のそれに視線を向けたあと、もう一度ナリアンのてのひらに目をやった。きょときょと、せわしなく見比べる視線に、ナリアンはほんわかした笑みを浮かべる。

 なにがしたいのかちっとも分からないが、ともあれ、ソキの動きは見ていて愛らしい。砂漠の花嫁。ほの暗い事実がナリアンの気持ちを薄く陰らせるより早く、机に身を乗り出したソキが両手を伸ばして来た。

「ナリアンくん、ナリアンくん! て、て! みぎて、かしてくださいですよ」

『右手? ……えっと、こう?』

 伸ばされたソキのちまいてのひらに対して、おて、をするようにぽむりと右手を貸し出したナリアンに、ちょっと違うんですよぉ、とむずがるように口にして。

 ソキはナリアンの右手と、己の右手を机の上でぺたりとくっつけて、しばし沈黙した。えっと、とナリアンが困惑に首を傾げる。どうしたというのだろう。

 考える間にソキはふるふると体を震わせ、じわぁっ、と涙を浮かばせて。心から衝撃を受けた声で、言い放った。

「ナリアンくん……!」

『……うん?』

「おてて、おおきい、です……!」

 それでソキもしかしてちっちゃいのではないですか、と完全に今気が付いた者の声で涙ぐまれるのに、ナリアンはそーっと、ソキから手を離して。上手く慰める術を持たないが故に、よし、と力強く決意した。お茶を淹れよう。

 いや決して現実逃避とかではなく。温かいお茶は気持ちを宥めてくれる筈だし、美味しいし、うん、それがいい、よしそれでいこう。

 椅子から立ち上がり、ナリアンは茶葉の入った小瓶を眺めがてら、やぁんやぁんっ、とむずがるソキに、飴玉の入ったそれを手渡した。

 ソキはくすんくすん、鼻を鳴らして悲しがりながら小瓶を受け取り、飴をひとつぶ取り出すと、はくんと口の中へ入れた。ぱぁあっ、と顔があかるくなる。

「ぶどうあじ! です!」

『ソキちゃんはもしかして、飴、すごく、好き?』

「ソキねえ甘いのしあわせなんですよー」

 うふふ、と幸せにとろけきった笑みで告げられて、ナリアンは覚えておこう、と思った。そして、紅茶の入った小瓶の蓋をあけ。立ち上る芳しい香りに、やわらかく目元を和ませた。




 ナリアンがそれに思い至ったのは、二回目の部活を開く前日。火曜日の夜のことであった。慌てて部屋を飛び出せばちょうど、湯上りのほこほことしたロゼアが濡れ髪を布で拭いつつ、廊下を歩いて行く所だった。

 ちょっと待ってっ、とばかり駆け寄り腕を引っ張って、ナリアンはうわっと声をあげて驚くロゼアの瞳を、どこか切羽詰まった様子で覗き込んだ。

『ロゼアくん……俺、お願いがっ、あって!』

「う、うん? ナリアン、落ち着いてくれて大丈夫だから」

『明日の部活でもしよかったらなんだけど、俺がお茶菓子を用意してもいいかな。お茶菓子というか、俺がクッキー焼いてもいいかな……!』

 そうだ、クッキー、焼こう、とナリアンが思いついたのはほんの五分前。就寝前に授業で書いたノートをまとめていたら、夕食を食べた筈なのに口とおなかがさみしくなり、甘いものが欲しくなった時のことだった。

 幸い、自炊室には生徒が自由に使っていい設備が整っており、バターや砂糖、卵、乾燥果物なども二十四時間、申請すればいつでも使用可能な環境が整っている。

 その昔、真夜中におなかが空いたとある黒魔術師が朝まで食料がない腹立ち紛れに片っ端から同輩に地味な呪い、柱の角に小指をぶつける、水を飲むと必ずむせる、目の前を黒猫が横切りかつ馬鹿にしたような目で見て立ち去って行く、などを魔力の限界までかけ続けた為の、二十四時間体勢なのだった。

 黒魔術師たちの生活する三階の廊下には、今も『八つ当たりでの呪い、だめ、絶対』と張り紙がされている。

 クッキー、とロゼアは呟いたのち、考え込むように視線を巡らせた。やがてぽつりと、雨だれのように言葉が向けられる。

「……ソキがなにか言った?」

『ソキちゃん? ううん。……ソキちゃん、焼き菓子はあんまり好きじゃない? だったら、無理にとは言わないけど』

「ソキは別に焼き菓子嫌いなんじゃないよ。あんまり量が食べられないから、好んで手を伸ばさないだけ。味は好きなんだ」

 歯とあごが疲れるからねえソキもういいんですよ、とほにゃりと笑って告げるソキの声が、ナリアンの中で再生された。そういえばソキはヨーグルトやプリンなど、あまり噛まないで食べられるものを好んで口に運んでいる。

 飴も同じような理由で好きなのだろう。そっか、と頷き、ナリアンはやや思案顔になった。

『じゃあ、柔らかいタイプのクッキーにしようかな。……作っても、いい?』

 ロゼアは己の記憶を探るような眼差しで視線を地に伏せ、しばし沈黙したのちに、一度、静かに頷いた。

「うん……。あ、ただ、ソキが口にする前に、俺、味見してもいいか?」

『もちろん! ロゼアくんのも、メーシャくんのも、たくさん作るね』

 それじゃあおやすみなさい、また明日ね、とロゼアと別れ、ナリアンはそわそわとした足取りで自炊室へ向かった。階段を下りて行くその背を見送り、ロゼアも身をひるがえす。

 自室の扉を開けながら、ソキ、と呼びかける声はまろやかに、夜の静寂へ消えて行った。

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