彼女には友人という概念が存在しない 12(終わり)

 地平線の向こうに、太陽が沈もうとしている。目に強い光が入りすぎないように、硝子は魔術で調整されているのだが、額のあたりに片手をかざして目を眇め、ラティは暮れゆく砂漠の風景にこころから息を吐きだした。

 王宮から眺められる景色はこの国の砂と、都市と、緑をちょうど三等分に、余すところなく視界の中へ納めてくれる。

 強すぎる日差しからようやっと逃れることの出来る木の緑は、瑞々しく冷たい夜の風を受け、ようやく息を吹き返したようだった。梢が心地よく揺れる音と共に、水と緑の匂いが空気中のどこまでも染み渡るように広がって行く。

 天空に瞬き始めたのは気の早い星々だった。半透明の金と銀、赤や黄の光点が、まだ白く光に染め抜かれた空間にきらめき、夕刻の先触れとして喜んでいる。

 感度の高い占星術師であるなら、その星の声に魔力を揺らし、なにかを感じ取ったことだろう。あいにく、ラティは滅多に星の声など聞こえない為、それを見て感じるのは純粋な美しさと憧憬で、開かれた唇からは溜息が零れるばかりだった。

 空は夜の風に幕を連れてこられたかのように、彼方からだんだんと藍色に染まっていく。一日の、終わり。最後の光は炎のような燃える紅で、街を、木々を、空気を、全てを朱に染め上げて行く。

 朱と藍の混じり合った空は菫のような紫にけぶり、そこから息を吹き返したように、星々がその数を増やして行く。

 夜だ。夜が来る。暗闇といのちと、静寂の夜。砂漠の夜が来る。一日の恵みの終わり。明日へ続いて行く夜が、ようやく、またこの砂漠へ訪れようとしている。

 誰かに声をかけられたような仕草で振り返り、ラティは視線を外から、王宮内へ戻した。王の執務室の一角。開け放たれた窓の外に立つラティの視線は、まっすぐ、部屋の主の元へ向かう。

 きちんとした執務机は相変わらず物置きのように放置されていてた。立派な机のすぐ傍に、大小様々なクッションが敷き詰められている。

 砂漠の王はその中心に腰を下ろし、長旅の途中、泉でまどろむ渡り鳥のような、どこかへ行こうとするような視線で、ラティのことを眺めていた。視線が絡み、出会う。

 首を傾げて走り寄ろうとするラティに片手をひらりと振り、傍に来なくて良い、と告げた王は暇そうなあくびをひとつして、膝上に置いていた本を取りあげ、読書へ戻ってしまった。

 読書家の王は読む本がなければ辞書でも読むが、今はなにか物語でも嗜んでいるのだろう。遠目に見た本の表紙には見覚えがあり、ラティはその内容を思い出すべく、記憶を辿ろうとした。

 呼ぶ、声がした。ふ、と息を吸い込んでまばたきをしたのち、ラティは首を傾げ、唇に指先を押し当てる。魔術師としての彼女の判断が、空気が震える音はなかった、と告げていた。

 では魔術的な呼びかけであるのかと問われれば、それも違う、と答えることができただろう。

 具体的なことは可哀想だしなんていうか哀れな気持ちにもなるから現存する魔術師の中で一番魔力の量がないかもしれないとかそういう確定は避けておこうか、という理由のみで魔力の総量計測を、恐らく唯一逃れている程にアレなラティであっても、さすがに、声と『魔術』の違いくらいは分かるし、それを察することもできる。

 だが、そのどちらでもない、という気がした。空気が震えるのではなく、魔力が伝わって響くのではなく。

 それはもっと内側から、染みだすように広がった。夜のように、紙を染め行くインクのように。黒く。暗闇の訪れと共に瞬く星のように。目の届かないところにされた、署名のように。

「陛下ー! へいかへいかー! なになにー?」

 ばーんっ、と清々しいまでに無礼な音を立てて王の執務室の扉を開き、走り込んで来たのはフィオーレだった。

 なにってお前がなんだよ、とばかりうろんな目を向けてくる砂漠の王の前にしゃがみこみ、フィオーレはきょとん、と目を瞬かせる。

「へ? だって今呼ばなかった?」

「誰を、誰が?」

「陛下が? 俺を?」

 音を立てて本を閉じ、砂漠の王は麗しく笑みを浮かべてみせた。本の角がフィオーレの頭にめり込むように振り下ろされ、いたああぁあっ、と涙声が響く。

 ラティはややうんざりしたような、安心したような気持ちで王と白魔法使いの傍らに歩み寄り、お前さあ俺の読書の邪魔すんなって言ったよなそれともなんだ構って欲しかったなら最初からそう言えよほら頭だせ頭、と本を素振りしながらお説教している主君に対し、安全圏からものすごく控えめに声をかけた。

「陛下……本当に呼んだり、しませんでした?」

 お前もか、とうろんな目を向けた砂漠の王の視線はいったんラティを注視したのち、魔術師を通り過ぎ、その背後へ向けられた。

 窓の向こう。鮮やかなまでの朱はすでに鈍く消え去り、紫と藍の混色が這いずるように空を塗り替えようとしていた。

 夜になるな、と呟き、王の視線は再びラティを見る。睨むように、それでいて、無感動に。陛下、と声を出さずに呼んだ己の魔術師から視線を外し、男は痛みを無言で癒していた白魔法使いにも目を向けた。

 見つめる視線はなにかを探るようで、考えている者のそれだった。陛下、とフィオーレは声に出して主君を呼ぶ。それに頷くことで応えた王は、口唇をひらき、薄く息を吸い込んだ。

「俺の魔術師全員に、俺に呼ばれた気がしたかどうか、ちょっと聞いて確かめて来い。で、一時間後に報告持って来い。一時間後な」

「なんで一時間後なの、陛下」

「その一時間でこの本読み切るからに決まってんだろ? ああ、ラティはこの部屋にいろよ」

 お前は引き続き俺の護衛、と言い渡したのち、すぐ本を開いて文面に視線を落としてしまった王に、フィオーレとラティは目を見交わし、ねえなんだと思うこれ、俺にもよく分かんないごめんとりあえず言ってくるから一時間後にね、と意志を交わし合った。

 もー、陛下は時々分かんないことするー、と文句を言いながらも命令を忠実に実行すべく部屋から出て行ったフィオーレを見送り、ラティはそわそわと室内に視線を彷徨わせた。胸の奥が、ざわざわする。

 良くない予感だ。悪い、とはまだ言い切れない。けれど、良くはならない。そんな気がする。唇を噛むラティに視線を向けず、砂漠の王は魔術師の名を呼んだ。

「ラティ。……いいから、普通にしてろ。大丈夫だ」

 俺の言うことが聞けるだろう、と目を細めて笑う王の、瞳の色は金。光の色だった。夜に輝く星より強く、月よりも鋭い。砂漠の、巡る朝に地平線から世界を染め抜く、太陽の光の色だった。

 ほっと肩から力を抜き、ゆっくり息を吸い込んだ。

「はい、陛下」

 夜が来る。砂漠に夜が巡ってくる。夢に微睡むやさしい夜が。

「……大丈夫です」

 一時間後。戻ってきたフィオーレが王に告げた、『呼ばれた気がしていた魔術師』の数は、実に半数以上。でも別に呼んでないんですよね、と不思議がるフィオーレに、砂漠の王はうんざりとした様子で息を吐きだした。

 指示、あるいは言葉を待つ魔術師を通り過ぎ、王の視線が向けられた街並みはすでに暗闇に沈み。光はなく。彩なす色彩も、黒の中へと溶け消えた。




 ウイッシュが真剣なまなざしで見守る先、ソキの手の中で白い花が魔力に震えている。ん、んぅーっ、と一生懸命集中している声をもらしながら眉を寄せたソキは、そろそろと瞼を持ち上げ、すっと息を吸い込んだ。

「えい!」

 ぽんっ、と弾けるような、軽い音がした。優美な芳香をくゆらせながら、白い花が散る。その、がくだけが残った花の、ほんの数センチ、上の空間に。赤い翅の蝶が具現し、息をするようにゆったりと佇んでいた。

 いち、とソキが半泣きの声で数を数える。に、さん、とウィッシュはこころもち早口に、その数を増やして行った。目標は十秒。叶えられず散らした花の数は、もう二人とも数えたくない。四、五、六。

 二人は声を揃えて数えて行った。七、蝶の輪郭がぐにゃりと歪む。八、動かす翅が半透明に、さらに透き通って行く。九、いやなんですよっ、とむずがるような声でソキが数えて。

「じゅう……!」

 声を揃えた十秒目。ふたたび、ぽんっ、と音を立てて蝶が消え去り、ふわりとした風の名残が二人の頬をくすぐって行った。ぱちぱち、ぱちぱちせわしなくまばたきをして、ソキがそーっとウィッシュを伺う。

 予知魔術師の担当教員は感激した面持ちで一度頷き、それから息を吸い込んだ。

「十秒!」

「……です? ほんと? ほんとっ?」

「本当ー! わー! やったなソキ! やったー! 十秒おめでとう! 風だけだけど! まだ風だけだけどー! 先がちょう長いけどでもとりあえず一個はできるようになったなすごいすごいっ! 頑張ったー!」

 うわぁいおにいちゃん褒めてるのか水をさしてるのか分かんないですーっ、と舌ったらずな声できゃっきゃはしゃぎながら言うソキに、褒めてるよでも俺のことはちゃんと先生って呼んでな、と言い聞かせ、ウィッシュはきらきらの笑顔で何度も、何度も頷いた。

 はしゃぎすぎた二人が部屋の扉を開けられ、図書館ではお静かに、と怒られるのは、それから十数秒後のことである。


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