彼女には友人という概念が存在しない 05

「毎日愛を囁かれてるのに、毎日うんざりした顔してるの、ソキ知ってるんですよ」

 ロゼアと同じく、ナリアンにもほぼ毎日実技授業が行われている。その為、毎日決まった時間になるとロリエスは花舞の王城へ続く『扉』から現れるのだが、そこで待ちかまえているのが寮長そのひとである。

 ある時は花、ある時は本、またある時は髪留め、ある時は砂糖菓子など、一日として同じではないささやかな贈り物を手に跪き、会いたかった愛しいロリエス俺と結婚してくれないか、と囁くのに一瞥を投げかけ、断る、と告げて立ち去る女性の姿は、もはや名物を通り越して習慣じみていた。

 寮長からの贈り物は、その場で受け取られることもあり、受け取られないこともある。けれども捨てられたりすることはなく、その場で手にされなかったものも、ロリエスの講師室の中にきちんと納められていた。

 だから別に、ものすごく嫌いな訳ではない、とソキは思っているのだ。贈り物に罪はないので、それはそれとして受け取り、保管しておくのもソキには十分覚えがあることなので、理解できる。

 けれども、蛇蝎のごとく嫌っている訳ではない相手に対する言葉にしては、ロリエスがソキにかけた声の響きはやさしく、なんらかの想いに満ちていた。苦笑い、とするには甘さの勝る表情で笑み、ロリエスは綺麗な仕草で立ち上がる。

「シルを、本当に嫌える者などいやしないよ」

「……ソキも?」

「苦手なのも、怖いのも、慣れるまでだろうとも。さ、そろそろお行き……私が話したことは内緒にしておくこと。特に、寮長には」

 言ったら最後、とてつもなく面倒くさい反応をするだろうから、とくすくす喉を鳴らして笑うロリエスに、ソキはよくわかんないですよ、と首を傾げながら立ち上がり、すこし歩いた所で振り返った。

「それで、ロリエス先生は。ほんとは、寮長のこと好きです? きらいです?」

「……ないしょ、だよ」

 女性は笑みを刻んだ唇に人差し指を押し当て、好きとも嫌いとも告げず、ソキの前から立ち去った。薫風のようなひとだ、とソキは思う。鮮やかに立ち去るひとだ、とも。




 ゆっくり、慎重に歩いて行けば、ソキはもうそんなに転ばずに歩けるようにはなっていた。そんなに、である。転ばない訳ではない。

 その日、授業棟から図書館へ移動するまでにソキが転んだ数は二回だけで、それはちょっとした新記録でもあった。今まで、片道三回は確実に転んでいたからだ。

 ソキは成長しているんですよっ、と嬉しい気持ちになりながらてちてちと歩き、図書館の前で足を止める。体力はさほどついたわけではないので肩を大きく上下させながら息をして、ソキはふらりと木の腰かけに歩み寄った。

 先日、白い猫がまるくなって眠っていた場所である。もしかしたら、とどきどきそわそわ視線を向けて、ソキはきゅぅっと切なく眉を寄せた。

 いないのである。毎日そこへいるとも限らないし、寝場所として定めている訳でもないだろうから、いなくても仕方がないことなのだが。それは、なんだかとても、残念なことのように思えた。

「……にゃんこちゃん」

 今日、もし会えたとしても、撫でることができたかどうかは分からない。してもいいこと、して良いと、自分で決めていいことだと分かっても、それを実行することには、なんとなく勇気が行った。

 それはずっとしてはいけないことで、これからも、変わることがない決まりである筈だったからだ。いい、と言われても、いけない、と言われていたことだから、罪悪感がある。

 ううん、と思い悩みながら腰かけにちょこりと座ると、気持ちいい風が吹き抜けていく。晴れた日には、日差しが強くなりすぎない日には、ここで本を読んで白い猫を待つのもいいかも知れない。

 触れなくても、見ているだけでも、可愛いししあわせな気持ちになるのは本当のことだからだ。

 ざく、と誰かが草を踏む音が響く。通り過ぎて図書館へ向かう者、あるいは寮へ帰る者はたくさんいるのに、なぜだかそのひとつの足音だけが、不意にソキの耳へ忍び込んだ。ふと顔をあげる。

 そこに、ひとりの少女が立っていた。まあるい眼鏡をかけた、紅玉の瞳を持つ少女だった。鮮烈な印象のその色は、少女を勝気にも、逆に気弱にも見せていたが、意志の強さが垣間見える輝きを灯している。

 肩で切り揃えられたはしばみ色の髪はふんわりと、風が吹くたびおだやかに揺れた。白くほっそりとした印象の腕が、強く抱いているのは数冊の本だった。あ、と思ってソキは慌てて腰かけから立ち上がり、服をぱたぱたと手で叩いた。

「あの、あの、ソキ、もう行くです」

 本を読みに来たのだ、とソキは思った。こんなに気持ちいい場所だから、そうしたいと思う者はソキの他にもいるだろう。なにか言葉を探している風な少女の隣を通り過ぎ、ソキはあっと気がついて立ち止まった。

 ソキよりすこし年上で、ロゼアやメーシャより年下の少女の名前は、知っていた。入学式を終えた夜、ロゼアに抱かれたソキを空き部屋まで案内してくれたのは、この少女だったからだ。

「ハリアス先輩」

 えっと、えっと、あのね、と緊張しながら、ソキはやや目を見開くハリアスに、一生懸命問いかけた。

「しろいにゃんこちゃん、知らないですか? 前にここで、眠ってたです。とってもかわいかったです」

「え……えっ」

 白磁の肌に朱が灯った。驚き、照れたように本を抱く腕に力を込めながら、ハリアスはそっと視線をうつむかせ、ぷるぷると首を横に振って囁く。

「私……いえ、えっと。どうして?」

「にゃんこちゃん、かわいかったです。とっても、とっても、可愛かったですから、ソキ、撫でてみたいんですよ……」

 しろいにゃんこちゃんの飼い主さんのことでもいいです。知らないですか、と問うソキに、ハリアスはぐっと言葉に詰まりながら、飼い主はいないと思うわ、と告げた。

 それから、しばらく、その白い猫には会えないと思う、とも。その言葉に、あんまりソキが気落ちした様子だったからだろう。一歩、距離を歩み寄って、ハリアスは静かな声で言った。

「次の……次の、満月の、次の日……一週間後に、なら、もしかしたら」

「にゃんこちゃん?」

「会えないかも、しれないけど」

 この場所にいると思うわ、と告げるハリアスに、ソキは分かりました、と急いで頷いた。もしかして、普通の猫ではないのかも知れない。飼い主もいないようだし、だいたいからして『中間区』にいる猫なのである。

 妖精や、『向こう側の世界』に去った幻獣にも近いのかもと考えつつ、ソキはそのまま、図書館へ足を向けた。予知魔術の勉強になる本を探しに来たのだが、世界を去った生き物についての図鑑が、あったら借りたいな、と考える。

 重そうなので、持ち運びできるかはともかく。いざとなったらロゼアちゃんに持ってもらうです、と気持ち小走りに立ち去り、図書館の扉を目前にびたんっ、と転んだソキを、はらはらした目で見守り、見送り。

 ハリアスは木のベンチに腰かけ、赤くほてった頬を冷やすよう、両手を押し当ててちいさく溜息をついた。




 お待たせしました授業だよソキ、と満面の笑みで談話室まで迎えに来た担当教官に対し、予知魔術師の少女はにっこり笑顔のままごく冷静に、そんなことよりその腕いっぱいに抱えたお花はどうしたんですか、と問いかけた。

 のち、おにいちゃんと呼びかけて口をはくはくと動かし、誤魔化すようにこてりと首を傾げてウィッシュ先生、ときちんと呼び直した。

 そんなソキをめいっぱい甘やかす笑顔で、えへへソキは俺の言うことちゃんと覚えてて偉いなぁっ、と弾んだ声で言い放ち、ウィッシュは踊るような足取りで少女の座るソファの前まで歩み寄り、腕いっぱいに花を抱えたまま、両膝を折って丁寧に座りこんだ。

 どこか冷えた印象の花の香が、甘く空気を染めていく。

 それぞれ微妙に色味の違う、白い花ばかりが抱かれていた。じぃっと花と、ウィッシュを交互に見つめてくるソキに、『花婿』は良い香りだろう、と目を細めて上機嫌に歌う。

 ことば。囁き、呟きとするより歌じみた、上機嫌なきらめきの声。

「陛下にお願いして、中庭に咲いてたのを切ってきたんだ。白雪の国に咲く花だよ。……なに?」

 どうかした、と淡く微笑んで問いかけてくるウィッシュに、ソキは胸の奥深くまで息を吸い込んで、それを留めたままぎこちなく口を開いた。

 抱いた気持ちは砕けて洗われた川底の砂に、水で冷えた指先でざらりと触れる印象に、とてもよく似ている。

「あのね」

「……うん?」

 どしたの、と重ねて問い返し、言葉を促すウィッシュの表情は、先程よりずっとやさしいものだった。

 教員と生徒ではなく、兄として妹を甘えさせてやっている表情に、ソキはきゅぅ、と難しげに眉を寄せてあのね、とたどたどしく繰り返した。

「この間、ストルせんせいにね、ソキね、好きなことして良いってね、言われたです」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る