彼女には友人という概念が存在しない 04
水のようなひとだと思った。透明な、それでいて底の見えない、ひたひたと湧きいずる水の。透明な、澄み渡りすぎて恐ろしいくらいの、水のひと。
「……ソキ。どうかしたのか? こんなところで」
「あ……」
「ん? ああ、きちんと話したことはなかったかも知れないな。すまない」
硬質な靴音を立てて歩み寄るそのひとを、ソキは息がつまる思いで見つめた。こわい、こわくない、けど、こわい。
目の前でしゃがみこまれると、ぶわりと感情が溢れていきそうになるのを感じた。息がつまる。息が難しくなる。
このひとは、だって。このひとが。きっと、いつか。
「俺は、ストル。メーシャの担当教官だ」
いつか。
「……ソキ?」
不思議がる。心の底から不思議がる柔らかな声で問いかけられて、ソキは混乱した意識から抜け出した。ふっと夢から醒めたように、意識が楽になる。
ぱちぱちと瞬きをして首を傾げれば、目の前にしゃがみこむストルも同じようにして、ソキをじっと見つめていた。じーっとその視線を見つめ返してから、ソキは唐突に、ぱん、と手を打ちあわせた。
「あ! ソキねえ、追い出されちゃったんですよ!」
「追い出された?」
「ソキね、ソキねえ、ロゼアちゃんがなにしてるのか、ちょっと見ていたかっただけなんですよ?」
ぷぷーっ、と頬を膨らませてソキが振り返って睨んだ扉を、ストルはなるほど、と納得した様子で眺めやった。
ソキが立っていたのは、とある訓練室の前である。数ある実技授業用の部屋の中でも群を抜いて防音と衝撃、対魔力の効果が強く、そして広い部屋だった。
主に複合属性の黒魔術師が使用することの多いその訓練室が、ロゼアが担当教官であるチェチェリアに授業を受けている場所である。
鍵までかけられてしまった扉を拗ね切った顔つきで見つめ、ソキは不満でいっぱいの様子で首を傾げた。
「危ないって言われたです。ロゼアちゃんがいるのにですよ? ロゼアちゃんがいるのに、危ないことなんかいっこもないです。ソキが、ロゼアちゃんの傍にいるのに危ないってどういうことなんです? ソキ、全然分からないです。なにが危ないですか?」
だってロゼアちゃんですよ、ロゼアちゃんがソキの傍にちゃぁんといてくれるですよ、と無垢な瞳で首を傾げ傾げ考えているソキに、ストルはなにをどう説明してやったらいいものか、考え込む表情で黙りこんだ。
しかしストルが言葉をまとめてしまうより早く、あ、と声をあげたソキがくるくる表情を入れ替え、にっこりと笑った。
「ストル先生! ソキ、聞きたいことがあったんでした!」
「うん? 俺で分かることかな」
「しろいにゃんこちゃん知らないです? ソキねえ、飼い主さんを探してるですよ。チェチェリア先生は知らないって言ったです……」
そもそも、それを聞くために、ソキはロゼアにくっついてこの訓練室までやってきたのだった。基本的に毎日、実技授業をしているロゼアと違って、ソキのそれは不定期である。
今日は授業がない日だった為、じゃあソキはここでロゼアちゃんがやっているのを見ていることにします、と言ったら追い出されたのが衝撃的すぎて、すっかり忘れていたのだった。
それにしても、ロゼアちゃんがいるのに危ないとか本当よく分からないです、としみじみ不思議がるソキに、ストルは眉を寄せながら口を開く。
「すまないが、心当たりはないな……。その猫が、どうかしたのか?」
「とってもかわいいんですよ! ソキねえ、撫でてみたいです」
「飼い主に許可を取らなくとも、撫でるくらい、して良いと思うぞ。餌をやりたいなら聞くべきだと思うが」
そういうことか、と微笑ましそうに頷くストルに、ソキは、なにを言われているのか分からない様子で瞬きをした。
「……撫でてみたいんですよ?」
「ああ。……その猫が怪我をしていたのであれば、治るまでは控えるべきだとは思うが?」
「だから、飼い主さんにお願いして、ロゼアちゃんにお願いして、撫でてみたいですよ?」
どうしてソキの言ってること分かってくれないですか、ともどかしそうなソキに、ストルが言葉に詰まった様子で口唇を閉ざした。男にしては細く、長めのしなやかに動く指先が、ぐっと力を込めて額に押しつけられる。
「それは、許可が、必要な……ことなのか」
「ソキ、ひとりで動物触っちゃいけないですよ」
「家で、そう?」
言われたのか、とかすれる声で問いかけられて、ソキはすこしばかり悩んだ末に頷いた。言われたというより、教育された、とする方がしっくりくるのだが、事実は事実だからである。
それは徹底的に遠ざけられる。
そうか、と呻くように呟き、開かれたストルの目がまっすぐにソキを見た。
「それは、君が好きにしていいことだ」
「すき? です?」
「自由に。君が考えて、行って良い、ことだ。それはもう、許可が必要なことではないよ」
したいこと、なんでもいいよ。包み込むように響く言葉が、耳の奥で蘇る。ロゼアも、そういう風なことを言っていた。
『花嫁』じゃなくてもいいんだよ。好きなことをしても、怒るひとは誰もいないよ。もう、怖いことなんて、ないよ。
「……あれ?」
「うん? どうした」
「えっと、あの、それじゃ、あの、もしかして……も、もしかして、ですよ?」
やわらかに。心を包み、守り、背を押すような気持ちに動かされるように、ソキはおずおずと唇を開く。
「ソキは」
「うん」
「にゃんこちゃん撫でても、いいです……?」
よく出来ました、と言わんばかりに笑ったストルは、一度しっかりと頷き。良いと思ったことをしなさい、と言って、戸惑うソキに飴玉をくれた。
なんでも、来ないと分かっているのについ常備してしまうもの、らしい。誰かの為のものですか、と問うソキに、ストルはしっとりと笑って。
ちいさい子は甘いものが好きだろう、とだけ言った。
ストルと別れて図書館へと向かう途中、ソキはナリアンの担当教員、ロリエスと遭遇した。
ソキの目からは始終不機嫌そうに見えてすこしばかり怖い女性なのだが、ロリエスはちょこちょこと歩いて行くソキに目を止めると案外優しい笑みを浮かべて大股で歩み寄り、体調が辛いことはないか、と問いかけてきた。
学園時代のウィッシュがすこしの無理でもすぐに体調を崩すことを知っていたので、ソキが同じ育ちであると知り、気にしていてくれたらしい。
ソキはびっくりしながらも、ソキねえお兄ちゃんよりもうんと丈夫なんですよ、だから大丈夫なんですよ、とたどたどしく言い返し、ちょうど良かったのでロリエスにも件の白い猫、その飼い主のことを聞いてみることにした。
ロリエスは、茶色い猫なら知っているが白いのもいるのか、とひとりごち、申し訳ないが、と飼い主の心当たりがないことをソキに告げた。
分かりました、としゅぅんとするソキに、申し訳ないと思ったのだろう。ロリエスはさっと周囲を見回して人影のないことを確かめると、身を屈め、ソキの耳元でそぉっと囁いた。
「その手のことなら、シルに聞けばいい。寮内、学園内のことならだいたい把握しているから」
「……シル? さん? です?」
聞き覚えのある名前なのだが、ソキの本能が思い出すことを拒否したので、いまひとつ誰のことを言っているのか分からない。首を傾げ傾げ考えるのに、ロリエスは苦笑いをして、言った。
「寮長だ」
「ソキ、ロリエス先生がなに言ってるのかちょっとよくわかんないです」
「寮長に、聞けば、飼い主のことが分かるぞ?」
灰色の声で早口に告げるソキに、ロリエスはいかにも楽しそうに首を傾げてみせた。嫌がっていることなど、分かっていて言っているのだろう。
ロリエス先生もしかしていじわるさんなんです、と疑惑の眼差しでじりじり距離を広げて行こうとするソキの、ローブの端をひょいとばかり摘みあげて引っ張り、女性はまあまあ、と宥めるように口を開いた。
「いいか、ソキ。シルは自由という単語の意味を最大解釈しながら生きているような男だが、悪い奴ではないんだ。ソキには、もしかしたらすこしばかり厳しいことを言うことがあるかも知れないが、それだって別に嫌って言っている訳じゃない」
「うー……ううぅー……ソキ、ねえ、ソキねえ。寮長、ちょっぴり、苦手、なんですよ。怖いんですよ、すぐ怒るですよ」
それも、今までソキがされたことがないような怒り方なのだ。そもそも、怒りという感情をそのまま向けられる経験自体が、ソキにはあまりにも少ない。やです、こわいです、とたどたどしく告げるソキに、ロリエスは場にしゃがみこみ、ふむ、と考えながら視線の高さを合わせてくれた。
「理由なく、怒られたことはないだろう?」
「……はい」
「なら、怖がらないでやってくれないか。理不尽に感じることもあるだろうが、あれはあれなりに、ソキのことを想って言ったのだろうから。もちろん、個としての好き嫌いはあるだろう。それを強要しようというのではないよ。分かるね?」
それとは関係なく、嫌いというのであれば、嫌いであって私はかまわないよ、と。あくまで穏やかに、そっと言い聞かせてくるロリエスを、ソキは真正面からじっと見返した。
視線が重なると、ごく軽く、親しげに笑いかけてくれるロリエスに、ソキはこてん、と首を傾げる。
「ロリエス先生、寮長のこときらいではなかったのです?」
「おや、どうして?」
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