彼女には友人という概念が存在しない 03


 魔力は揺れ動いただけで、決してソキという容れ物を壊してしまう風に荒れることはなく、あふれ出てしまうくらいに持て余すこともなかった。存在を知らせるように、動いた。それだけだった。

 指輪は、ちゃんと、ソキのことを守ってくれている。ほっと胸を撫で下ろして部屋から出て歩き、ソキは階段の手前でべちんっと音を立てて唐突に転んだ。

 なんだか、ひさしぶりに転んだ気がする。悲しい気持ちになってすんっと鼻をすすりながら立ち上がり、ソキは慎重に階段を降りることにした。

 階段で転ぶと、それはもうものすごく痛いのだ。

 ソキねえ丈夫だからあんまりお怪我はしないんですけどでも痛いんですよ、痛いのはヤなんですよ、と誰に聞かせるでもなく呟き、そろそろ階段を下りて、通路を歩き、ようやく図書館の外へ辿りつく。

 出入り口のぶ厚い木の扉をいっしょうけんめい押し開いて外に出た時、すでにソキの体力はつきかけていた。

 肩で息をしながら立ち止まり、ソキは寮の方角へ視線を向けた。図書館から寮までは、ソキの足で五分くらいかかる。今歩いて行くと、たぶんもうすこしかかるだろう。

 加えて、途中何回転ぶかも分からない。ううん、と首を傾げて考え、ソキはすこし休んで行くことにした。図書館の中で考えつけばよかったのだが、ぶ厚くて重い木の扉をもう一度押す気にはなれず、ソキはあたりを見回した。

 どこか、なるべく綺麗な、服が汚れそうにないところ。図書館と寮、あるいは他の建物へ続いて行く道の端に腰かけが置かれているのを見つけ、ソキはそこへ歩いて行ったのだが。

 そこへ先客が丸くなっているのを見つけ、ソキは目をぱちんと瞬かせ、その前にしゃがみ込んだ。

「にゃ……!」

 感動で、思わずこぶしをぎゅぅっと握りながら、ソキは目を輝かせた。

「にゃんこちゃん、です……! 白いにゃんこちゃんです! にゃんこちゃん眠ってるです……!」

 白い艶やかな毛並みをした猫が、腰かけの上で丸くなって眠っていた。さんかくの耳がへたりと伏せられ、頭の乗っかった手の先から、ほんの僅か桃色の肉球が見えている。

 一定距離を保ったまま、そわそわそわそわ猫を眺め、ソキは高揚した頬に両手を押し当て、溜息をついた。

 にゃんこちゃん、ものすごく、かわいいです。ソキねえ、にゃんこちゃんだいすきなんですよ、だいすきなんですよっ、と声にもだせずにぷるぷると震え、ソキは疲れていたことも忘れて白い猫を見つめていた。

 手を伸ばしはしない。触ろうとも、しなかった。それが猫でなくとも、ソキは手を伸ばさなかっただろう。

 ソキは、『花嫁』は、動物に触ってはいけないのだ。怪我をしてしまうかも知れないから。それでも、随分と昔に一度だけ、ソキは猫を撫でたことがあった。ロゼアが抱いた猫を、一度だけ、そっと。

 撫ぜるとするより、指先ですいと触れたくらいだが、それでも嬉しかったのを覚えている。

「……にゃんこちゃん、誰かのにゃんこちゃんなんです?」

 見た所、首輪はしていないようだった。けれども、野良猫には見えない。もし寮の誰かが飼っているのだとしたら、ロゼアちゃんに頼んで、触ったり撫でたり、抱っことか、できたりしないだろうか。

 そう考えるといてもたっても居られなくなって、ソキは勢いよく立ち上がり、寮へ向かって走り出し。びたんっ、と音を立てて、転んだ。




 興奮しきったソキの、ほにゃほにゃふわふわ響く声から丹念に情報を拾い上げ、つまりソキは白い猫の飼い主を探してるんだろ、とまとめてあげたロゼアに、その両側から感動と尊敬のまなざしが送られた。

 感動しているのはナリアンで、尊敬しているのはメーシャである。

 ナリアンは、およそ五分に及んだ、身振り手振りを交えながら脱線しまくったソキの訴えをごく正確にまとめたロゼアの情報処理能力にすごいすごいと感動し、メーシャは途中でソキがなにを訴えたくなってたのか分からなくならなかったことがすごい、俺はなんか先生にもらった飴がおいしくって幸せだったことをおしゃべりしてるんだと思ってたけどそういえば猫だった、と会話の終着点が正確であったことに対してロゼアを尊敬していた。

 そんな二人の眼差しに、そうでしょうそうでしょうロゼアちゃんはすごいでしょうさすがはロゼアちゃんですっ、とこころゆくまで自慢げにふんぞりかえり、ソキはにこにことロゼアに向かって両腕を伸ばした。

 ううん、と猫について考え込みながらソキに両腕を伸ばし、ひょいと抱きあげ半ば無意識の仕草で背を撫でてやりながら、ロゼアはソファに深々と身を沈めた。

 ぽん、ぽん、と撫でながら『花嫁』の身に怪我がないかを確かめる仕草に一区切りをつけてから、ロゼアはゆるく息を吐き、乱れたソキの髪を手で整えながら告げる。

「ソキの言ってる白い猫っていうのは……図書館周りの木陰で本読んでると、膝に乗ってくるあの猫か?」

「白くて、ほわほわで、おみみがさんかくでへにゃってしてて、かわいいにゃんこちゃんなんですよ! お膝に乗ってくるかとかはソキは分からないです」

 ロゼアちゃんは昔から動物さんに好かれますねえ、と我がことのように嬉しがるソキに、ロゼアはこくりとあどけなく頷いた後、申し訳なさそうに目をすがめた。

「ごめんな、ソキ。飼い主は知らないんだ」

 あ、そういえばそういう話だった、とナリアンは手を打ち合わせ、メーシャはロゼアすごいなぁ、としあわせそうに微笑んだ。

 むむー、とすこしだけ唇を尖らせたソキが、そんなメーシャを下から覗き込んでくる。

「メーシャくん、メーシャくん。メーシャくんは? メーシャくんはにゃんこちゃんの飼い主さん、知ってるです? とぉってもかわいいんですよ! とってもですよ!」

「うーん、俺も知らないなぁ……首輪はしてた?」

「……くび、わ?」

 なんでそんなものをあんなにかわいいにゃんこちゃんにつけないといけないんですかソキにはちょっとわからないですソキねえそういうのきらいなんですよ、と瞬間的に意志を瞳に走らせ、消し去り、ソキはものすごく嫌そうに眉を寄せながら言った。

「なかったです」

「う、うん……? えっと、そうすると飼い猫じゃないのかも……ソキが気になるなら、俺がその猫の面倒見てもいいよ」

 委員長だからね、と幾分落ち着いた笑みを浮かべるメーシャの、所属している部の活動内容が未だもってちっともさっぱりソキには分からないのだが、その言葉にはなんとなく納得と、安心を感じることができた。

 入部した時にはやや世を儚む風だったメーシャが、すこしばかり居場所を見つけて落ち着けたように見えるのも、幸せなことだった。

 よかったですねえ、とにこにこ笑って頷き、ソキはナリアンに目を向けた。ねえねえ、と手を伸ばし、服を摘んでちょこちょこと引っ張る。

「ナリアンくん、ナリアンくん?」

『うん?』

 なぁに、と微笑むナリアンは、まるで年上の兄のような慈しみでもってソキのことを見つめている。そんなナリアンの服の端を、意味もなく摘んだり引っ張ったりしながら、ソキはちょこりと首を傾げた。

「ナリアンくんは、知らないです? しろいにゃんこちゃんの、飼い主さん。だぁれー?」

『俺も知らないや、ごめんね。猫が居たのも、ソキちゃんの話で気がついたくらいで……』

 ソキ、ひとの服で遊んだりしない、とロゼアが少女の手を包んでそっと言い聞かせているのに、ナリアンは申し訳なさそうに意志を響かせた。

 ソキはロゼアの注意を半ば聞き流している態度でこくんと一度だけ頷き、心底残念そうに肩を落とす。

「にゃんこちゃん……」

「先生に聞いてみるのはどうかな」

 視界の端に、今というこの輝ける時に俺の助けが必要なようだな、と椅子に片足を乗せて背を仰け反らせるやたらと芸術的な印象の姿をした寮長が映っているのだが、四人全員がそれを無視していた。

 あんまりしつこいので一度だけソキが、いえ寮長には助けて欲しくないですなにか悪化する気しかしないです、とびしりと言い放ったのだが、その日は静かになっただけで継続的な効果は望めなかったのだった。

 新入生にかまいたいお年頃なので適度にかまってあげてくださいね、とは副寮長であるガレンの言葉だが、入学して早半月、新入生は誰もが知っていた。寮長の辞書に適度などという言葉は存在しない。

 せんせいですか、とすこし気を取り直した様子のソキに、メーシャはでも今日はもう遅いからまた明日にしような、と言い添えた。

 はーい、と返事をするソキに、ロゼアがややほっとした様子で先輩に聞いても良いし、と囁く。

「ソキも、よく話す先輩、いるだろう? あの説明部の女の人と、その人といつも一緒にいる男の先輩と」

「ロゼアちゃんが言ってるのは、もしかして、ルルク先輩と、スタン先輩のことなんです? ……ソキねえ、ソキねえ、どうしても先輩に聞かなきゃだめなら、ユーニャ先輩がいいですよ。ユーニャ先輩になら聞くですよ!」

 あのひとたちに聞いたら最後、交換条件で夢と浪漫なんですよっ、と必死に訴えてくるソキの言いたいことがよく分からない様子で、ロゼアがあいまいに首を傾げている。

 名前を出された二人は談話室の端でソキをちらちら見守っていたので、その発言に残念そうに肩をすくめ、チェスをしていたユーニャの、椅子の足を蹴飛ばしていた。

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