もうすこし、同じ速度で 07
「そんなことないよ。そうじゃないけど、でも」
困惑して、言葉に困るロゼアの目をじぃっと観察したあと、ソキは己を抱く腕にそっとてのひらを乗せた。
ぺちぺち叩かれて離して欲しがるのに力を抜けば、ソキはするりとロゼアの腕の中から抜け出し、よいしょ、と気合いを入れた声でソファから立ち上がった。両脚がぎこちなく震え、ぐぅっと力が込められる。
どこか危なっかしい様子で立ち上がり、ソキは大丈夫ですよ、と言った。
「ソキは、ひとりで歩けますです。転んでも、怪我しないですよ。ソキねえ、丈夫なんです」
己も意図しないなんらかの言葉が、ロゼアの口から零れ落ちそうになった。まさにその時だった。
『ロゼアくん。ソキちゃん』
やわりと春の花、その葉を優しく揺らし、過ぎゆく風のように。穏やかでしっとりとした印象の意志が、二人の名を呼んだ。振り返ればナリアンはちょうど談話室の扉をくぐった所で、二人の元へ歩み寄ってくる。
その姿をしげしげと眺め、ソキはちょこん、と首を傾げた。
「ナリアンくん。寮長から逃げ切れたです?」
『俺は誰にも会ってないよ』
「えっ、でもじゃあなんで」
そんなに髪がぐしゃぐしゃで服がよれよれになってるですか、と問おうとするソキの口を、ロゼアは後ろから手を伸ばして塞いだ。
目をぱちぱちさせて不思議がるソキにうん、聞かないであげようなと言い聞かせ、ロゼアはそっと視線を地に伏せる。
「頑張ったんだな、ナリアン」
『俺は、誰にも会ってないよ、ロゼアくん』
手指で乱れた髪を整えながら、ナリアンはふうと息を吐いてソキと目を合わせた。
『ソキちゃん。新しい部活作るんだって?』
「そうなんですよ! ソキねえ、茶会部するんです」
えへんと胸を張るソキが新部を設立するという情報を、なぜナリアンが持っているのか、ロゼアは慎ましく問わないでやることにした。ただ、メーシャは逃げ切れたのだろうかと、そのことだけが心配になる。
先程から、遠くで走り回る複数の足音が響いていた。探せっ、どこかに潜んでいる筈だっ、と響く声があり、さあどうしてこうなったか説明しようっ、と弾む笑い声などが聞こえてくる。
それとメーシャに、関連性があると思ってやりたくはない。思い悩むロゼアに時折心配そうな目を向けながらも、ナリアンはきゃっきゃと茶会部の説明と、そこで勉強をするのだと張り切って言ってくるソキにそうなんだと頷き、どこかほっとしたように切りだした。
『ねえ、ソキちゃん。俺もその部、入っていいかな』
「ナリアンくんが? ソキと一緒に?」
『うん。俺もね、じつを言うと勉強したくって。でも、そういう部活はないみたいだから、どうしようかと思ってたんだ』
もちろん、ソキちゃんが嫌じゃなければなんだけど、と尋ねてくるナリアンに、ソキはロゼアを振り返ってみた。顔色を伺うようにロゼアをじっと見つめ、だめ、と言われそうではないことを確認してから、満面の笑みで頷く。
「大丈夫なんですよ! じゃあ、ソキ、許可頂いて来ますです。ナリアンくん、ロゼアちゃんと一緒におるすばんしていてくださいね」
『俺も行くよ?』
二人で行こう、と申し出るナリアンを、とてもとても不思議そうに見上げ、ソキはなにを言われたのか分からない風に目を瞬かせた。
「お部屋から出ると、寮長に見つかっちゃうですよ?」
ぐっと言葉に詰まりながら、ナリアンが忌々しそうに、未だ騒々しい気配を振りまく方向を睨みつける。ナリアンが上手く隠れたのか、それとも意図して見逃してくれたのかは分からないが、探す者たちの意志はくじけていない。
だからねえ、とソキはにっこり笑った。
「おるすば」
「お困りのようですね?」
ソキの言葉を響かせず、ひょい、と横から顔を覗かせたのは副寮長だった。反射的に周囲を警戒するナリアンに、寮長は先にメーシャを捕まえることにしたようですのでいまは安全ですよとさらりと告げ、ガレンはむくれた顔つきになるソキに、にこりと笑いかけた。
「ひとりで行きたいんですか? 駄目ですよ、危ない」
「……あぶないです? なんでです?」
ぷくぅーっと頬を膨らませ、全身で不満を主張するソキに、副寮長は、恐らくは寮長になにかある以外ではこのひとは決して動じないのだろうなぁ、と誰にも悟らせてしまうきよらかな笑顔を浮かべてみせた。
「寮長がなにもしないと思いますか?」
いいえ、思いません。ソキとロゼア、ナリアンのみならず、談話室で会話が聞こえてしまった者は即座にそう思った。凍りつく新入生にくすくすと笑い、副寮長はだから、と殊更言い聞かせる声で言った。だからね。
「せめて、ふたりで、行きなさい」
しかたなく。本当にしかたなく、ソキはこくりと頷いた。
ロゼアが残ったのはソキが説得しきれたからではなく、結局部屋の掃除や、シーツ以外の洗濯、物品の整理などが残っていることを思い出した結果だった。ナリアンが一緒に行ってくれる、ということで折り合いも付けたのだろう。
それでも、行ってきますと言うソキに知らないひとに声をかけられたらという細々した注意事項をひと通り吹き込み、ロゼアは少女の手をナリアンに受け渡した。手を繋いで、ゆっくり歩いて行くこと。転倒防止の為である。
寄り道しないでまっすぐ行くんですよ、とうきうき弾んだ声で言う通り、ソキはちまちまとした足取りで『学園』から、まずは星降の王宮へ繋がる『扉』を目指して移動している。
出発前に遅めの昼食をとったからか、気分はどこか散歩めいていた。『扉』へ続く森の中の道を歩きながら、ソキは気持ちよさそうに息を吸い込む。緑の匂いがしますねえ、と吐息と共に零された声は幸せに満ちていた。
きょろきょろあたりを見回して歩く瞳が、物珍しそうに輝いている。
「砂漠とは全然違うです……あ、お花! お花咲いてますですよ、ナリアンくん!」
『
「あっち! あっちにも咲いてるです!」
言うなりそっちに行きたがろうとするソキの手を、ナリアンはやんわりと握ってやった。その手を振り払ってまで行きはしないが、ソキはずっとうずうずした様子で森を見回し、花を見つけては楽しそうにはしゃぐ。
ソキがお花、と見つけるたび、ナリアンはやさしくその名を教えてやった。あれはランタナ。あれはバーベナ。あれが夕顔で、あれは千日草。
ソキは聞いているのか聞いていないのか、分かっているのか分かっていないのかもあいまいな態度で、こくこくと頷くことだけはしていた。
やがて『扉』の前まで辿りつくと、ソキは持って来た新部設立許可証を落としていないかを確かめ、全く脈絡もなく、ナリアンくんはものしりさんです、と感心した。
「見ただけで、すぐ、お花の名前分かるですねぇ……」
『俺の家の庭に、たくさん咲いてたからかな』
そういえばナリアンは、花舞出身であるのだということを思い出し、ソキは深く頷いた。花の咲き乱れる、祝福の国。気候はほぼ一年を通して温暖で、激しく荒れることはなく、作物の実りは常に約束されている。
清らかな水が湧き、それは都市の隅々にまで平等に行き渡るのだという。砂漠とは全く違う。平和で、穏やかな印象の国だった。その国へ『花嫁』が嫁ぐことはあっても、同じような存在が生まれることは、決してない。
『花嫁』は砂漠の花だ。乾いた砂と、強い日差しの中で咲く。
『ソキちゃん』
ナリアンは、いつも、そぅっとソキの名を呼ぶ。『扉』をくぐって現れた星降の中庭で、手を繋いだまま立ち止まって。ナリアンは内緒話でもするようにしゃがみこみ、ソキの目を見て笑った。
ほら、あっち。みてごらん。指差した先に、黄色い花が太陽を向いて咲いていた。
『向日葵。たくさん咲いてる』
「はい」
『……あと、見間違いじゃなければ、あの中に陛下がいた』
はい、と返事をしかけて、ソキはしげしげと王城を仰ぎ見る広々とした中庭の一角。向日葵ばかりが植えられた花畑を見つめた。けれども、身長の関係なのか、ソキにはちっとも分からない。
不思議がって首を傾げていると、ナリアンがすこし考えながら、ソキに両手を伸ばして来た。触れる前に、ナリアンは問う。
『抱っこする? そうすればきっと、ソキちゃんにも見えるよ』
というか陛下、気がつかれたみたいだからいまこっちに来ると思うけど、とナリアンの言葉通り、はしゃぎきった星降の国王の声が中庭に木霊し、何処かに潜む王宮魔術師が落ち着きと威厳ーっ、と絶叫している。
落ち着きとか威厳とかそういうものを、星降の国王、その側近たちはいっそ潔く諦めるべきなのではないかと思いながら、ソキはじっとナリアンを見つめ返し、ふるふるとしっかり首を横に振った。
「あのねえ、ナリアンくん。ソキを抱っこしていいのは、ロゼアちゃんだけなんですよ」
『……そうなの?』
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