灯篭に鎖す、星の別称 23
談話室にいる寮生の殆どが、生温い笑みを浮かべながらなにやら頷いている。王宮魔術師は、当たり前の事実であるが全員が『学園』の元生徒で、寮生である。誰が来たか、彼らにはすぐ分かったに違いなかった。
『いい? 私は起こしたの。ちゃーんとね! でも四回の、その四回とも! 四回ともよっ? 寝ぼけて、ふにゃふにゃふにゃふにゃした声で、ねむいもうだめ俺もうすこしだけねるね……とかなんとか! 言って! 起きなかったのはそっちでしょうが!』
『そっ、そこで諦めんなよ! たった四回で諦めんなよ! どうしてそこで諦めたんだよ! お前の意志はもっと強い筈だろっ!』
『決まってるでしょう! 兎ちゃんのお守を言い渡されていたのに遅刻させちゃった罰として! 陛下に踏んで頂くためよっ!』
私がこの機会を逃すと思うアンタがいけないっ、と言い放ったのち、悦に入った高笑いを響かせてむせてひとしきり咳き込んで落ち着いた所で、女性は談話室の前に辿りついたらしい。
それまでとは違う達成感の滲む声で、ほら背を伸ばしてちゃんとして、と青年に言い聞かせながら、女性はそれじゃあね、と帰ろうとしている。
『陛下が、なんでか扉の前まで送り届けたら決して中を覗いたりせずに帰って来なさいねって言うのよね? うーん、なんでだろう。言うことちゃんと聞けたら、踏んでくださるって珍しく約束してくださったから、私はもう帰るけど。気になるなぁ……理由知ってる?』
『ああ、うん……他国の王宮魔術師に迷惑をかけたくない、我らが女王陛下のやさしさかなぁ』
『なぁに、それ』
分かんないの、と呟く女性の声に、なぜか談話室内の寮生の視線が、チェチェリアに向けられた。いたわりと同情に満ちた視線に、チェチェリアはげっそりとした息を吐きながら、白雪の女王に向けて感謝の言葉を口にしている。
まったくもってよく分からない、と首を傾げながら、ソキはロゼアを見てあ、と声をあげた。ロゼアはなにか信じられないものを目の当たりにした顔つきで、談話室の扉を見つめ、しきりとなにか思いだそうとしている。
それを見て、ソキも思い出した。そう、朝食の時に、ソキはこれを聞こうと思っていたのだ。あのね、ロゼアちゃん、とソキが声をかけたのと同時、談話室の扉が慌ただしく開かれ、女性に背を突き飛ばされるように、青年が不安定な足取りで入ってくる。
振り返り、ソキは満面の笑みで、青年のことを呼んだ。
「あ、やっぱり!」
「……ソキ?」
「おにいちゃんです!」
問いかけるロゼアに嬉しげに頷きながら、ソキは入ってきた青年を指差した。立っていたのは、白雪の国の王宮魔術師。前歴に『花婿』として他国に嫁いだ経歴のある、ソキの兄。ウィッシュがそこに立って、はにかむ笑みでソキたちを見ていた。
ゆっくりと歩いてくる青年の手に、杖は持たれていなかった。彼の武器がその形をしていないにしろ、歩くための補助具が必要ないのだと分かる。ウィッシュはソキよりはしっかりした足取りで談話室を横断してきた。
のんびりと、余裕のある風に見えるのは足の運びが穏やかだからだろう。せかせかと急いで歩くことや、走ることは、きっと彼には出来ないのだ。エノーラが叫んだその通りに、彼は恐らく、走ると転んでしまう。
ソキがおにいちゃんと呼び、寮生がウィッシュと呼びかける青年のことを、ロゼアはよく知っていた。とてもよく、覚えていた。二度と会えない筈のひと。他国へ嫁いで行った『花婿』である以上に、彼は死んだとされていたからだ。
事故で。
そうだ、事故。ああ、とロゼアは深く息を吐いて思い出した。詳しくは知らされなかった。なにも。事故であることと、死んだこと。それだけが屋敷にもたらされた報の全てで、後は風の噂が囁き告げた。
まるで、魔術が紡がれたような、そんな事故であったと。
「おにいちゃんです。おにいちゃん、こんにちはですよ」
コツ、と静かに足音が止まる。ソキの目の前で、茫然とするロゼアの手が届く場所で。声も出せない様子で、ウィッシュを凝視したままのロゼアの服を引っ張り、ソキは嬉しそうにはしゃいでいた。
ウィッシュはソキの前に辿りついたことで一仕事終えた、とばかり息を吐きだすと、ゆっくり、ゆっくりした仕草でその場にしゃがみ込んだ。片膝をつき、ソキのことを見つめる。
浮かべられたのは甘く、芳しいばかりの微笑み。ソキ、と優しい声で名を呼ぶ響きが、ロゼアの記憶をなお鮮やかに色付けた。ああ、彼は、彼が、確かに、間違いなく。
「うん、こんにちは。ソキ。……遅くなってごめんな、俺が、ソキの担当教官だよ」
「ソキの?」
「そう、ソキの……改めまして、魔術師のたまご。俺は白雪の国の、女王の王宮魔術師。風の属性を持つ、黒魔術師です。星降の国王陛下の指名を受け、我が女王陛下のお許しを得てこの場所まで来ました。これから、君が卒業を決めるその時まで。君の魔力の導きとなり、君の魔術の助けとなり、共に学んで行く力になるよ。どうぞ、よろしく」
きょとんとするソキにやわやわと言い聞かせるように、ゆったりとした響きでウィッシュは言葉を告げて行く。ソキはじっとウィッシュを見つめたままでこくんと頷き、手を伸ばしてロゼアの服の裾をきゅぅと握った。
そして、感心しきった声で言う。
「おにいちゃん、今日はこのあいだよりずぅっと美人さんです」
「……昔からそんな気がしてたけど、うちのこホントひとの話聞かない。ソキ、こら、違うだろ。言うことあるだろ? 他に」
「にゃ? ソキですよ。よろしくお願いしますです。ソキねえ、一生懸命頑張りますですよ!」
呆れた顔つきで頬をぷにぷに指で突きながら叱るウィッシュに、ソキは不思議そうに声をあげた後、元気よくそう言い放った。
うんまあいいかな、いいのかなぁ、いいことにしちゃえばいいのかな、うんなんかそんな気がしてきたからいいことにしようっと、と悩みをそのまま口に出して結論を出し、ウィッシュはソキの頭を親しく撫でながら立ち上がった。
そこでようやく、ロゼアを見る。浮かべられたのは申し訳なさそうな、それでいて愛おしそうな笑顔だった。言葉に悩む僅かばかりの沈黙をへて、ウィッシュがすっと息を吸い込んだ。
「ソキは……ちいさかったから、俺のことを見てもすぐには思い出せなかったけど。お前はどれくらい覚えてる? ロゼア」
大きくなったな、と笑いながらロゼアに手を伸ばし、指先を頬に触れさせる青年の爪先は未だ『宝石の君』であると告げられても納得してしまうくらい、うつくしく整えられ艶めいていた。
記憶の中のおぼろげな形と、恐ろしいくらい一致するのに、見上げる視線の角度だけがそれを裏切っている。あの時。最後に会って会話をした時、ロゼアはまだウィッシュより身長が低かった。
ロゼア、とやさしくウィッシュが名を呼んで来る。それに、胸がいっぱいで上手く応えることができずに。ロゼアはじわじわと浮かんで来る涙に、目を強く閉じて息を吸い込んだ。思い出すのは、彼の死の報。
その生も死も、嫁げばなにも伝えられない筈の傍付きの元にまで知らされ、届いてしまった彼の。死んだという、知らせ。
「……生きて、いたんですね」
「うん。……うん、死んだことにしてもらったんだ。迎えに来てくれた案内妖精と、相談して……もう二度と、俺があの家に戻らなくてもいいように。死んだことにして、学園に来たんだよ。卒業して、今は白雪の王宮魔術師をしてるけど。……ロゼア、ロゼア」
また会えたことを喜んでくれると嬉しいんだけど、わがままかな、と苦笑する気配に、ロゼアは目を開けて青年をまっすぐに見た。そのロゼアを見たソキが、びくんと驚きに身を震わせて、目をまんまるくする。
ロゼアちゃん、とちいさく呼びやう声は不思議がって、訝しんで、ただ純粋に驚いていた。ウィッシュも、ロゼアの瞳にある強い意志のひかりに、やや戸惑ったように首を傾げている。息を、吸い込んで。ロゼアが問う。
「……シフィアは、あなたが、生きていらっしゃることを……知っているんですか? ウィッシュ様」
「フィア?」
シフィア、というのが『花婿』としてのウィッシュと共にあった傍付きの名前だ。赤く咲く花のような名を、ウィッシュはきよらかな響きでフィア、と呼んでいた。今でも舌に馴染んでいるその名を紡がれ、ロゼアは無言で頷いた。えっと、と困ったようにウィッシュの視線が空を泳ぐ。
「言ってない。というか……魔術師関係者以外は、誰も、俺が生きていることを知らないよ」
砂漠の陛下にだけはさすがにお話してあるけど、と付け加えるウィッシュに、ロゼアはぐっと下唇を噛んで息を吸い込んだ。向ける視線を強く、睨みつけるようにして告げる。
「おれは、いいです。おれは、いいけど、なんで……なんで、あのひとに、生きてるって、伝えてないんですか? なんで、伝えることが、できなかったんですか……っ!」
怒りで染め上げられた声は、容赦ない真夏の日差しのよう、空気を裂くように叩きつけられた。ロゼアちゃん、と呼ぼうとして動き、声を発さずにソキはくちびるを閉じる。
よく分からない、と言いたげに少女が首を傾げたのを、彼らの近くに居る者のうち、チェチェリアだけが見ていた。愚かなほど、哀れなくらいに、宝石と呼ばれる彼らには分からないのだ。
ロゼアの怒りと悲しみの理由が、宝石には上手く受け止められず、理解ができない。傍付きと永久の別れを経験していないソキにはなお、分からないのだろう。
ロゼアとウィッシュを見比べ、おろおろとしてさらに視線を彷徨わせるのに、チェチェリアは腕を伸ばした。少女を腕に抱きとめ、ぽんと頭を撫ででやる。終わるまで静かに聞いておいで。
わたしのいうことが分かるだろう、と囁く女性の声に、ソキはふたりを心配しきった顔つきでこくんと頷いた。息をつめて見守る視線の先で、宝石が瞬きをする。
だって、と途方に暮れた迷子のような顔でウィッシュは言った。
「フィアが、その……い、いやがるんじゃないかと思って……」
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