灯篭に鎖す、星の別称 22
声と呼んでいいのか定かではないあの妙なる響きは、恐らくこの本が奏でたもので間違いはないだろう。本は己を、写本と言った。ソキの武器なのだと。どきどきしながら表紙を開き、中身に目を落としたソキは、無言で瞬きを繰り返す。
そこに閉じられていたのは、白い紙だった。罫線も引かれず、ただ白いばかりの紙だった。一枚目も、二枚目も。閉じられている全ての紙は白いばかりで、なにも書かれていない。書きこむ為の、本のようだった。
日記帳、あるいは物事を記す帳面を思わせる本だ。これを、どう武器として活用すればいいのか、ソキにはちっとも分からない。表紙を閉じて、ソキはゆるく息を吐いた。
やっぱり、これは角で殴るとかそういう方法でアレするものなのだろうか。そういえば副寮長が、楽音の国の予知魔術師、リトリアも同じ武器だと言っていたから手紙を出すことが許されれば、聞いてみるのもひとつの方法かも知れない。
念のために砂漠の国の物理系魔術師、ラティにも尋ねてみることにして、ソキはふっと手元に落としていた視線を持ち上げた。そういえば、ソキの担当教員はどこでなにをしているのだろう。
窓辺では変わらず寮長が女性に愛を囁き、ナリアンが道端に落ちた蝉の抜け殻を眺めるのと同じ目をして男を見つめている。室内を探すと、メーシャが背筋をまっすぐに伸ばした、きれいな印象の男と会話をしているのが見えた。
寮生と王宮魔術師の区別をつける方法がソキにはまだ分からないが、なんとなく、彼がメーシャの担当教官だと思った。男と、ナリアンの担当教官に共通するものがあるとすれば、それはなぜか、非常に眠たそうだという一点だろう。
担当教員というのはまさか、寝不足の魔術師の中から選出されてくるものなのだろうか。いえそんな訳ないとは思ってるですけどね、とひとりごち、ソキはふと傍らにあった筈のロゼアが、すこしばかりソファから離れた位置に立っているのを見つけた。
距離にして、ソキの歩幅で三歩くらい。離れた、とも言い難い、ほんの僅かな距離の先で。
ロゼアが、うるわしい女性と、なにか話しているのが見えた。ソキの目は、彼女をロゼアの担当教員だと判断した。旅の間に出会った王宮魔術師たちと、なにか共通する雰囲気を女性が持っていたからだ。
担当教員と顔を合わせているだけ。そうと分かっていながら、ソキは息ができない気持ちで立ち上がった。ロゼアの表情には驚きと、喜び、親しさがあった。どうして、と思う。
どうして、どうして、ロゼアちゃん。そのひとのことを、ソキは知らないのに。なのに。なのに、なんで、ソキの知らない間に。誰かと出会って。誰かと笑って。誰かと。
『――ロゼアクンがいいの?』
そきをおいていこうとするの。
「……ソキ?」
一瞬、意識に忍び込んでかき消えたその声を記憶にとどめることなく、ソキは無言でロゼアの袖口を引っ張った。体を、ロゼアの背に隠すようにしながら顔だけを出して、目の前の女性を見上げた。
身長が、ソキよりも高い。均整の取れた体つきを持つ、女性の目から見てもうつくしい、麗しい印象を受ける美女だった。女性は、その足でしっかりと立ちながら、どこか驚いたようにソキを注視している。
ロゼアちゃん、とソキはなんとか息を吸い込み、言葉を探しだして告げた。
「前から、お知り合い、だった、です……?」
「ソキ」
ロゼアが苦笑して、柔らかな声でソキを宥めるように囁く。
「こっちに来る途中に世話になったんだ。チェチェリアさん……先生、だよ」
ぎゅぅ、とちからをこめて、ソキはロゼアの服を握り締めた。なにを言えばいいのか分からない。ちゃんと、挨拶をしなければいけないのに。そんな簡単なことくらい、ソキにだって分かっているのに。
昨夜、メーシャに手を離されてしまった時よりずっと強い恐怖が、ソキの内側からせりあがってくる。おいていかないで、ろぜあちゃん。おいていかないで。ろぜあちゃんを。とらないで。
「君がソキか」
ふと近くから、冷えた氷のような声がした。不思議と柔らかく、温かく響く声だった。ふと視線を持ち上げたソキと同じ目の高さに、女性がしゃがみこんでくれている。
嫌な音を立てていた心臓が、穏やかに静まって行くのを感じて、ソキは息を吸い込んだ。今、なにを考えていたのか分からなくなる。なにを、考えさせられて、いたのか。分からなくて、息を吸い込んで、目の前の女性を見て、ソキは素直にしょんぼりした。
女性はチェチェリアと名乗り、ソキにやさしい声で挨拶をしてくれている。頷いて、ソキも離そうとした時、やや強引に握手を求められ、そのまま腕を手繰るように引き寄せられる。
胸元に抱き寄せられると、ふわりとした熱と、いい匂いを感じた。ソキは、まだ声がでない。その耳元に、ひっそりとした笑い声が、内緒話を囁いた。
「大丈夫、わたしはロゼアを取らないよ」
「……ん、と?」
「本当。だから、そんな不安そうな顔をしてひとを見るものではないよ、ソキ。笑っていた方が可愛いよ」
ぽんとソキの頭を撫でてから離れたチェチェリアが、立ち上がってロゼアと会話を交わしている。それを、今度こそ落ち着いて耳にすることができながら、ソキはようやく、体から力を抜いた。
「えっと、チェチェリア、せんせい?」
「うん?」
呼んだか、と言わんばかり、チェチェリアがソキに顔を向けて微笑んだ。それに思わず笑い返して、ソキはしっかりと頭を下げた。
「ご挨拶が遅れました。はじめまして、ソキと申します。よろしくお願いいたします。……ロゼアちゃん! ソキ、ご挨拶できましたですよ」
「うん」
ちゃんと見ていたよ、とばかり頷き、ロゼアが微笑む。そんなロゼアに手を伸ばして抱きあげてもらおうとしながら、ソキはふと気が付き、腕を下げてきょろきょろと辺りを見回した。
抱きあげてもらった方が視線が高くなるので分かりやすくなるかもと思いつつ、ソキは再び、ロゼアの服をひっぱる。
「ねえねえ、ねえねえ。ロゼアちゃん?」
ソキの担当の先生、どこかで見ませんでしたですか、と。ソキがそう問おうとした瞬間だった。彼方から、がたんばたんっ、ずるっべしゃごんっ、と想像しい音が連続して響き、いたああああっ、と苦痛に満ちた涙声が続いて奏でられる。
思わず音のした方、談話室から離れた、どこかへと続いて行く廊下の方を注視して沈黙してしまうソキの耳に、呆れた声が届いたのはその時だ。
それは、恐らく騒音の発生源の傍らで紡がれた声だというのに、いやに通りよく、談話室まで響いてくる。
『だーかーらー、足元を見て歩きなさいって言ったじゃない? 歩けって。走れとは誰も言わなかったでしょう? 転ぶんだから』
『だって、だって遅刻っ、遅刻しちゃ……しちゃった! う、うわああああ、遅刻! 遅刻しちゃったじゃんかよおおおおおばかああああっ!』
呆れかえった女性の声と、半泣きの、どこか聞き覚えのある青年の声だった。恐らく、転んだ所から立ち上がり、こちらへ向かって来ているのだろう。じりじりと声が近くなって行く。
『だいたい! なんで起こしてくれなかったんだよ!』
『はああああぁっ? ちょっと言っておきますけど! 私は! 兎ちゃんを! 四回も! 起こしたっ! 起こしたのよ私はーっ!』
『うるさいばかエノーラのばかぁーっ! 兎ちゃんって呼ぶなーっ!』
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