灯篭に鎖す、星の別称 16
それは災難だったね、と心から同情した表情でメーシャが言った。こくりと素直に頷きながら、ナリアンはおずおずと椅子を引き、腰を下ろす。ナリアンがようやく寮長と別れられたのは、数分前のことだった。
結局、食堂まで好き勝手にナリアンを引っ張ってきた寮長は、どうしていいのかも分からない新入生に説明をすることもなく、はいこれ持って、と四角い木製の盆を手渡した。
ちゃんと両手で持つんだぞ、と言い聞かせる寮長の目にはいったいナリアンが何歳くらいの幼子に見えているのかと、疑問に思うくらいである。木盆で寮長の頭をひっぱたかなかった忍耐を、ナリアンはひそかに誰かに褒めてもらっても良いくらいだ、と思っていた。
けれどもその時には反応をするのも疲れていたナリアンは、言われるままに木盆を床と平行になるようにしっかりと持ち、満足げな寮長に頭を撫でられて眉間に青筋を浮かべていた。
そんなナリアンに笑みを浮かべるだけでやはり説明をせず、寮長は食堂をぐるりと見回した。食堂はちょうど正方形を描く作りになっていて、天井が高く、開放的な印象を与えるつくりになっていた。
全体の印象は、白である。床と壁、柱が真っ白に塗られていて清潔感があり、四人がけの円の机や六人、八人が座れる長方形の机も、白一色で塗られている。
古い木をそのまま使った机が食堂の端に置かれているものの、そのひとつを覗けば全てが白い机だった。彩りを与えるように、椅子は様々な色をしている。赤、青、黄、桃、茶、黒、灰、碧緑、水色、黄緑、橙、紫。
ありとあらゆる色の椅子が、空間の端からゆるりと変化していくように配置されていた。その色彩を床に影として滲ませる朝のひかりが、窓から差し込み、部屋をきらめかせている。
壁の一面はそのまま硝子をはめたつくりになっているので、外の景色がよく見えた。そこには、ただ森が広がっている。木々の間によく目を凝らせば、いくつか建物が見つけられるだろう。
そこが魔術師の学び舎。『学園』の一部で、校舎のひとつだった。
ざわめく空間をよく見渡せば、一角に二階へ上って行くらせん階段があることに気が付く。一階の空間上部の半分ほどに迫り出した天井は、その床であるようだった。
階下を見下ろす形で設置された机と椅子は、七割程度が埋まっている。二階の倍近い広さを持つ一階の席が、やはり半分程度の埋まり具合であることを考えると、上階の方が人気があるようだった。
そこからも、また一階からも、ちらりちらりとナリアンに視線が向けられていた。新入生だから、どうしても気になるのだろう。興味を持つ視線と、純粋に手助けをした方が良いのか考える視線は、けれどもすぐ傍に寮長の姿を認めると、一様にほっと安堵した様子で散らばって行った。
彼の人がそこで世話を焼いているのなら、大丈夫だろう。そう言わんばかりの無言の信頼を肌で感じて、ナリアンはあまりの意味の分からなさに頭痛がした。
あの、このひと、ひとの部屋に無断で鍵を開けて入って添い寝して頭を撫でてきてひとが不機嫌になっても反省しないどころか謝りもしないで世界が囁いたとか俺が輝く為にそうしなければいけなかったとかちっとも意味の分からない発言ばかりを繰り返していて、あんまり意味が分からなさ過ぎて、あれ、意味が分からないってどういうことだっけ、分からないってつまりどういうことを意味しているんだっけ、とかいう混乱状態に陥らせるようなひとなのですけれど、その信頼はどこから来るのですか洗脳ですか、と全世界に向かって発作的に問いかけたくなったが、それがものすごく疲れる作業であるような気がして、ナリアンは深々と息を吐くことでやめにした。
これは思考停止や思考の放棄ではない。
戦略的な、あるいは前向きな放置であって、それ以上でもなくそれ以下でもないのである。だから耐えろナリアン、大人として、と自らに試練を与えている新入生の内心なぞどこ吹く風よと、寮長は機嫌良さげに鼻歌を歌いながら、ぐいぐいと腕をひっぱって歩いて行く。
その引っ張り方が、間違えてもナリアンが体勢を崩し、転ばない絶妙な力加減と速度であるからこそ妙に苛立ちが募った。あああああああ本当になんなんだこのひとっ、と何回考えてもちっとも答えの見つからない問いを内心で響かせるナリアンが、引いて連れて行かれたのは食堂の端。
細長い机がいくつも並べられ、その上に所狭しと大皿が並べられ、料理が盛られている。大皿にとりわけ用の器具が置かれているものもあれば、あらかじめ一食用に小鉢に取り分けられているものもあった。
見覚えのある料理もあり、食材の名すら分からない、見たことのないものもたくさんある。
す、と寮長の指先が机のひとつを指し示した。
「左から、右に。星降、花舞、楽音、砂漠、白雪の料理」
それが食堂に入ってはじめての、説明らしい説明だった。きょとん、とするナリアンをやや振り返り、寮長は慈しむような表情で、そっと笑みを深めてみせる。
「新入生がはいって一ヶ月は、五カ国の料理が用意される。慣れない食事で体調を崩さないように、慣れた食事ですこしでも、心が落ち着き、穏やかに、楽しくなるように。一カ月が終わるとその週ごとに国が入れ替わる。あまりに口に馴染まないようなら、別途で作ってもらえもするから、その時は相談していい。まあ、将来、どこの国へ出されるかも分からないから、どの国の料理も食べられるようになっておくのが一番だが、好き嫌いは誰にでもあるから、そう気にすることでもないな。さて」
ひょい、と寮長が小鉢を取りあげたのは、説明を信じるのであれば、花舞の料理が並ぶ机からだった。ナリアンの家でもよく食した生野菜のサラダが、小奇麗な陶器の器に盛られている。
それを無造作にナリアンの持つ木盆の上に置いて、寮長は考えるそぶりを見せつつ、好き勝手に食事を追加していく。
カリカリに焼かれたベーコンに、焦げ目のついたソーセージ。透き通るコンソメのスープには葉物野菜と粒のとうもろこしとえのき、しいたけ、ふわふわの溶き卵が入っている。
食べやすく切った果物は三種類、林檎とオレンジとグレープフルーツ。あとこれも、と別の机から、さらにそこに桃が加えられた。まだ温かさを感じさせる焼きたてのパンは、二種類。
ふわりとバターの香りを漂わせるバターロールと、甘い黒糖の香りを広げるロールパンだ。それを三つ、なぜか縦に詰みあげて満足げに深々と頷き、寮長は最後にそれぞれ牛乳と水の入ったグラスをとんとんと乗せ、これでよし、と言った。
「いっぱい食べて大きくなれよ、ナリアン」
『……俺はもう十八ですが?』
ほかに言うことはあった筈だ。山のように。千とも億ともつかぬほど。無数にあった筈なのに、ぐるぐる廻ってナリアンの口から零れ落ちたのは、疲弊し切った響きの問いひとつきりだった。年齢を告げ、暗に成長期は終わっていると主張するナリアンに、寮長は晴れやかな笑みで頷いた。
「いっぱい食べて大きくなれよ、ナリアン!」
『……十八ですが』
「いっぱい食べて、大きくなれよ? ナリアン」
もうこのひとと会話するのをやめよう、とナリアンは心の底から思った。断固としてそう決意した。ぷい、と身を翻して離れて行く背を、寮長がぽん、とてのひらで押す。やさしく、送り出す仕草だった。
思わず。本当に思わず立ち止まって振り返ったナリアンの目に、歩き去る寮長の後ろ姿が見える。見ている間に食堂から出て行ってしまった寮長は、一度として振り返ることがなく、また、立ち止まることもしなかった。
あんまりあっさり去られて行ったので、ナリアンはしばし呆然としたのち、かぁっと腹の奥が熱くなってなんなんだあのひとっ、と思った。メーシャがナリアンを見つけたのは、ちょうどその時である。
ぼんやりと肘をついて食堂を見回していたら、なんだかぷるぷるしているのを見つけて、思わず声をかけて呼びよせてくれたのだ。捨てられたみたいで放っておけなくて、というのは疲れたナリアンの幻聴に違いない。
メーシャは、ひととして、普通にやさしい。その優しさにしばらくぶりに巡り合った気がして、ナリアンはちょっとだけ泣きたくなった。
はぁ、と溜息をつきながらロールパンに手を伸ばした所で、ナリアンは真正面からじぃっと見つめてくる視線に気が付き、ぱちぱちと瞬きをした。メーシャはナリアンの隣に座り、正面をやや興味深そうに見つめている。
「こら、ソキ」
ナリアンに向けられる視線を遮るように、声がやんわりとたしなめて行く。
「先に言うことあるだろう?」
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