灯篭に鎖す、星の別称 15

 人生の中で最悪の朝の目覚めを述べなさいという問題があったとするならば、ナリアンは今後十年、『学園』に入学した次の日の朝と即答するだろう。今後十年どころか、こびりついた記憶が抹消されるまで同じになりそうではあるのだが。

 あるいは更新がかかり、上書きされれば別回答にもなるだろうが、最悪な目覚めというものに望んで巡り合いたい者は稀だろう。ナリアンはその稀な部類には含まれない。決して。よって、今後、すくなくとも十年のとある回答が決定されてしまったナリアンは、当然のことながら不機嫌だった。

 こんなにも感情を荒れさせるということが、久しぶりすぎて疲れると思うくらいには不機嫌で、ふらりとかしいだ体を廊下の壁に手をつくことで支え、軽く目を閉じて深呼吸する。

 ざぁ、と耳元で血液の流れる音が聞こえる。貧血だ。怒りが貧血を誘発するかどうか確かめたことはないが、不機嫌は不調の理由のひとつであるので、あながち間違っている訳でもないだろう。ああ、ほんとうになんなんだ、あのひと。

 目覚めてから幾度となく繰り返した言葉、罵倒にすら近いそれを心の中で繰り返し、ナリアンはぐっと唇に力を込めた。これくらいの不調、乗り越えられないでどうする。浅く早い息を繰り返し、瞼を薄く開くと、ナリアンは歩みを再開しようとした。

「はい、そこまで」

 確かに、そうしようとしたのだが。唐突に背後から響いて来た言葉と腕を掴む手に留められ、ナリアンの体がぐらりと揺れ動く。後ろに引っ張られて倒れるかと思いきや、その肩を支えるように温かな手が添えられた。

「無理して出歩くな、と言っただろう? 横になっててよかったんだ。朝食なら運んでやるし」

 まあ、今日はどうしてもやってもらわなきゃいけないことあるから、時間になったら起きて貰わないと困るけど。苦い笑みのような感情を声に滲ませ、叱りつけるような響きでナリアンにそう告げるのは寮長だった。他ならぬ、ナリアンの最悪な目覚めの原因である。

 このひとに支えられるくらいならば、倒れて痛い思いをした方がよかった。心の底からそう思いながら貧血でぐったりとするナリアンは、不意に、呼吸が楽になって目を開いた。その顔を、ひょいと寮長が覗きこんでくる。

「ん? 楽んなったか? でも、まあ……いいこだから、もうすこしだけじっとしてな」

 とん、とん、と指先がナリアンの肩を支えながら、あやすように触れてくる。あからさまなこどもあつかい。怒りと、それとは別のむずがゆい感情で腹の奥がかっと熱くなるナリアンに、寮長はやわりと目を細め、いかにも楽しそうに笑うばかりだ。

 その表情は朝、ナリアンが寝起きに見たものとよく似ている。あろうことかこの寮長は、鍵をかけて眠った筈のナリアンの部屋に無断侵入し、ぐたりと寝台に沈み込んで目覚める様子のないナリアンに、何故か添い寝して頭を撫でてきたのだ。

 なんか眉寄せて寝てたから撫でてやろうと思って、というのがびっくりして目を開き、硬直するナリアンに向けて放たれた寮長の言だが、ちょっと意味が分からないので呼吸しないでくださいお願いします、と魂の底から思った。

 ナリアンの出身国である花舞をはじめ、五カ国の成人年齢は十五とされている。ナリアンは、十八である。成人してから、もう三年が過ぎた。仕事もしていた。

 ナリアンが魔術師の卵として学園に迎え入れられた以上、もうあの仕事は出来ないだろう。確かめたことはないが、それがかすかな心残りだった。『学園』での生活にある程度慣れたら、先輩か王宮魔術師の誰かに改めて問いあわせてみるつもりだったが、ナリアンの行っていたそれを、王宮魔術師が手掛けたという記録は無い。

 恐らくそれは、彼らには許されていない仕事なのだ。ナリアンだけがその職についていた訳ではない。けれどもナリアンには大切で、大好きな仕事だった。稼ぐ、ということを知っていた。

 立派な、とはいかないまでも、十分に大人であるつもりだった。その筈だった。こんな風にこどもあつかいを受けるだなんて、想像をしたこともなかったのだ。

 頭を撫でられる、だとか。倒れそうになって抱きとめられる、だとか。心配そうに顔を覗きこまれること、辛い時に感情に寄り添うように隣で寝てもらうこと、その全てを。考えたこともない。

 はじめてされたとは決して思わないが、その記憶は遠く遠くにあるもので、今という現実に現れるものでは決してないのだ。触れる男の手が、じわじわと魔力を流し込んでくるのも気に入らない。

 離してください。意志を響かせると、寮長は無言で笑みを深め、ナリアンの求めるままに手を離してくれた。それが、寮長が満足して大丈夫だと思うまでナリアンが回復していたからで、決して言うことを聞いてくれた訳ではないことを、なんとなく感じ取る。

 体が楽になっているのが忌々しかった。フィオーレさんに治療してもらった時にはそんなこと思わなかったのに、と苛立ち、ナリアンはふるりと首を振る。あれは治療、これは一方的な施し。ナリアンが望んだものではない。

 半ば睨みつけるような緊張した顔つきで見てくるナリアンに、寮長は親しげな笑みを浮かべている。

「確認するが。寝ているつもりはないんだな? ナリアン」

 気安く名前を呼ばないでください、と意志を叩きつけそうになり、ナリアンは服の胸元をぎゅっと手で握り締めた。あんまりこどもっぽい感情に、自分自身で困惑する。そんな、呼ばれたくらいでなにが代わる訳でもないのに。

 恥ずかしいようなむずがゆい気持ちを持て余しながら、ナリアンは視線を持ち上げ、寮長の目を覗きこんだ。春に咲く花のように鮮やかな、珊瑚色の瞳。

『ありません。……どこまでついてくるつもりですか。暇なんですか』

「俺は説明した覚えがないんだが」

 暗に、ついてくるなあっち行け、と求めるナリアンの意志が分かっているだろうに、寮長は悪戯っぽく首を傾げた。目覚めてから交わす何度目かの会話だが、声に出せ、と言われなかったことがナリアンの緊張を無意識に緩める。

 寮長がナリアンに発声を求めたのは、昨夜の一度きり。それ以降は気が向くのを待っているかのように、咎めることもなく、言葉を交わしていた。

「お前、食堂の位置とか知ってんの? ああ、心配しなくてもいいぞ、ナリアン!」

 両手を広げて高らかに宣言する寮長に、ナリアンはじとりとした視線を向けた。このひと、動作つきじゃないと会話もできないんだろうか。ナリアンの視線を感じていない訳でもないだろうに、寮長は広げた腕をそのままに、希望に満ちあふれた声で言った。

「ナリアンは俺が案内するから、聞かれても誰も教えるんじゃないぞって言っておいたからな!」

『なんでそんなことしたのか教えて頂けますか』

「決まってるだろう?」

 これは一応上級生というか寮長、そして先輩。だから怒るなナリアンお前は大人だろうそう大人、大人だから深呼吸、とかなり追いつめられた精神でナリアンは己に言い聞かせ、視線を反らして堪えている。

 そんな新入生と寮長のやりとりを、他の生徒が遠巻きに眺め、ひとつの方向に向かっているので、彼らについて行けばほぼ確実に食堂へ辿りつけるのだが。それが分かっていて寮長を無視して行けないのが、ナリアンの受けた教えだった。

 会話の相手を放置して何処へ消えることなかれ。ねえばっちゃん、こういう場合でもだめなのかな、と彼方へ意志を投げかけて問うナリアンの目の前で、寮長はやたらと楽しそうに、問うた理由を教えてくれた。

「世界が俺にそうしろ、と囁いていたからだ……!」

 もうやだこのひと、とナリアンは真剣に思った。寮長と初遭遇してから、実に九時間後のことである。

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