灯篭に鎖す、星の別称 07

 彼らに声をかけるのは、それが唇を動かし音を発して空気を震わせるものではなかったとしても、言葉を向けるということは、ナリアンには勇気が必要なことだった。遠く、思い出の中に眠る痛みが心を歪ませる。

 口にしたこと、言葉にした願い。それらは全て風によって叶えられてきた。今もナリアンの不安を慰めるように、ふわりふわりと大気が動くのを感じる。けれどもそれは、ナリアンが覚えているものよりぐっと穏やかだ。

 談話室へ戻る前、食堂で食べ物を分けてもらうよりも前、検査が終わったナリアンを迎えに来て、そのまま保健室へもう一度引きずり込んだフィオーレの、笑いをかみ殺した穏やかな声が記憶の中で蘇り、囁く。

「メーシャにも言ったけど。……ここに、お前が怖いものはなんにもないよ、ナリアン」

 いいこいいこ、と頬を両手で包み、まるで幼子に告げるように甘く甘く愛おしげな声で。白魔法使いは目を細めて微笑み、かそけき不安を消し去った。

 お前は幸運にか不幸にか風にとても愛されていて、己の言葉が彼らを動かす引き金になることを、学園に来る前の数年間で嫌というほど知ってしまったのだろうけれど。

「大丈夫。お前の風は、もう誰のことも傷つけない。そこまで荒れるようなことにはならないよ。……声を出すのが怖いなら、意思だけでも伝えてごらん。魔力を媒介に、お前の意思は声なき言葉として、魔術師には伝わるからね。うん? うん、俺にも分かるよ。……そうだね。目を合わせれば意思が相手に伝わったのは、お前に備わった魔術師としての魔力。風を動かさない為、声を発さない為に、言葉ではなく……それでも、意思を伝えることを諦めなかったお前の想いが、魔術師としての能力を起動させ、魔力の形で編みあげた技だよ。俺はそういう風に感じてる」

 だぁいじょうぶ、誰にも悪い影響がでるような式ではないよ。優しい魔術だ。本当に丁寧に組みあげられたものだよ。やさしい子だね、ナリアン。いいこ、いいこ。本当に、これまでよく頑張って来たね。

 よしよしよし、とナリアンの髪をくしゃくしゃに撫でて、フィオーレはそぅっと囁いた。

「メーシャも、ソキも、ロゼアも。お前が怖いことはいっこもしないよ。痛いことも、しないよ。……ナリアン、まだ分かんないかも知れないけどさ。あの三人は、お前と同じ魔術師なんだよ。俺もだけど。俺も、お前も、あのこたちも、皆。魔術師。……仲間なんだよ。特に、俺なんかは先輩だからさ。お前が怖がってるようなことが起こったらちゃんと止めてあげられる。痛いことあったら、癒してあげるよ」

 さあ、行っておいで。ナリアンの心にそっと触れ、内側を蝕む病の痛み、そのことごとくを眠らせ、封じ込めて癒して冷えた体温を温めて。白魔法使いはナリアンの背を押し、この部屋へと送り出してくれた。

 時間も時間だし、話すきっかけが欲しかったら食堂へ寄ってご飯もらって行きな、と言ってくれたのもフィオーレだ。そろそろラティが怖いから帰る、と言って砂漠の国へ繋がる扉へと消えた魔術師は、すでに学園内には居ないのだが、その存在がくれた支えは今もナリアンに寄り添ってくれている。

 自分でも驚くくらいあっけなく、簡単に、ナリアンの意思は内側から解き放たれ、伝わって行く。手招くてのひらのかすかな震えは、ロゼアの腕の中でくつろいでいた少女の、とろける笑みで消え去った。

「ろぜあちゃん、ろぜあちゃんっ。ナリアンくんがご飯持ってきてくれたですよ!」

「うん、そうだなー。ありがとうな、ナリアン。重くなかったか? ごめんな、気が付けば手伝ったんだけど」

「ソキも、知ってれば応援くらいはしましたですよっ」

 手伝うとかそういうんじゃないんだ、と向けられたメーシャからの視線に、ソキはロゼアの太股の上に座ったままで、えへん、とばかり胸を張っている。

「ソキが手伝うと邪魔になっちゃうですよ。ソキ、ちゃあんと知ってるです」

「うん、転ぶもんな」

「そうです。ソキはなにもない所でも転びますです。運んだりしたら大惨事なんですよ」

 ものすごく真面目な顔で言うソキに、ロゼアがごく自然に同意している。そうなんだ、と今ひとつ分からない様子で頷きながら立ち上がったメーシャが、どこか強張った様子で三人を眺めるナリアンに歩み寄ってくる。

 ひょい、と顔を覗きこむ、瑠璃の瞳。

「ナリアン? ……年上だから、ナリアンさん、か。えっと、ありがとう。俺もおなか空いてたから、すごく嬉しいです」

『ううん。どういたしまして……それと、普通に話してくれると、嬉しい。メーシャくん』

「……ナリアンは、くんって、呼ぶのに?」

 すこしだけ不思議そうに、それでいて柔らかにくすくす、と笑いながら、メーシャはナリアンの緊張をほぐして行く。からかってる訳じゃないんだ、と静かな囁きが、相手を傷つけることをひどく恐れているような、そんな印象をナリアンに与えた。

 あ、と息を吸いこんで、気がつく。同じだ。怖いのも、緊張しているのも、傷ついてしまったことが、あるのも。たぶん、一緒で、そして同じだ。一瞬だけ伏せられたメーシャの視線が、再び持ち上がる。

 言葉を探して迷う唇が声を出すより早く、ナリアンは大丈夫だよ、と告げたがるよう、己の意思を視線へと乗せた。伝わりますように、受け取ってくれますように。風が動いて望みを叶えてしまうのではなく、ただ、この気持ちが、どうか。

 想いだけがまっすぐ、届きますように。

『慣れるまで。……そう、呼んでいて、いい? メーシャくん、って』

「……慣れたら?」

『くん、取れる……かも』

 言い切れないのが申し訳なく思いながらも、ナリアンは正直な気持ちでそう告げた。どうしてだか、ほんの僅かな誤魔化しすら、メーシャに対しては持ちたくなかったのだ。

 裏表などなく、ただひとつだけの意思で。向き合いたい。向かい合いたい。そう、思わせてくれる相手だと思った。不安げに付け加えられた、かも、という意思に、メーシャはぱちぱちと瞬きをする。

 言葉を口の中で転がすように繰り返してから、メーシャは心から楽しげな笑みを浮かべ、くすくすと肩を震わせた。

「分かった。楽しみにしてるな。……ロゼア、ソキ。なにしてんの?」

「今行く。ちょっと待って」

「やー、やーっ!」

 いつまでもソファから立ち上がる気配のない二人を不思議がって振り向けば、ソキがロゼアにひしっとしがみついていた。ロゼアちゃんはソキを抱っこして行けばいいと思うですよ、と言って離れようとしないソキに、ロゼアが困った顔で額をこつりと重ねている。

「抱っこしたら、食べ物持てないだろ?」

「ソキねえ、おんぶでもいいですよ?」

「……あのな、見えるトコにいるだろ? すぐそこだから。すぐ戻ってくるから。いいこにしてられるよな?」

 ぷーっと頬を膨らませ、唇を尖らせて不満顔になるソキを、ロゼアはずっと撫で続けている。頭に触れ、髪を梳き、肩を叩き、背を抱き寄せて撫でながら、不満な気持ちをじっくりと落ち着かせようとしていた。

 ソーキ、と呼びかけて重ねられた視線が、蜜のようにあまく少女を覗きこむ。

「すぐだから」

「……ソキ、いいこでまってるですよ」

 拗ね切った声でそう言い返しながら、ソキの手がロゼアの服から外される。その体をひょい、と抱きあげてソファの空いた場所へ移動させたのち、ロゼアはソキの手をきゅぅ、と握り締めてやった。

 やわやわと力を込めて握りながら、ロゼアはほんのり苦笑いを浮かべる。

「まったく。……ソキ、頭痛かったりしないか? 熱はないみたいだけど」

「……のどかわいたです」

「ん、分かった。……時間はあるみたいだから、眠ってもいいんだからな?」

 こくん、と頷いて、ソキの手がロゼアから離れて行く。そのままクッションをひとつ引き寄せ、ぎゅぅ、と胸元に抱き締めるのをまた撫でてから、ロゼアはようやくちゃんと立ち上がった。

 疲れをほぐすようにぐるり、と肩を回しながら歩き、メーシャとナリアンの元へやってくる。

「白湯あるかな。スープでもいいんだけど」

「その前に」

 がしりとばかりメーシャに肩を掴まれて、ロゼアがえ、と間の抜けた声を出す。

「なんだよ」

「なんだよっていうか。ソキとロゼアって……」

「俺の仕えていた屋敷の姫君。それがソキ」

 きっぱりとした口調で説明したロゼアは、いまはそれ以上を告げる気がないらしい。やんわりとした仕草でメーシャの手を外させると、視線を食べ物と飲み物が乗った机の上で彷徨わせ、困ったように眉を寄せた。

「……硝子の湯のみってないかな」

「陶杯しかないけど……硝子じゃないと駄目なのか?」

「駄目って程でも、ないけど。……いいや。水差し、借りるな」

 室温にぬるまっていた水を陶杯に注ぎ、ロゼアはそれをひとくち、喉に通した。やや考え込む表情をしながら口をつけた箇所を指先で拭い、ロゼアはそれを持ってソキの元に戻る。

 心得た動きで差し出されたちいさな両手に陶杯をしっかり握らせ、ゆっくり飲むんだぞ、と言い聞かせた。はい、と返事をしたソキによくできましたとばかり笑んで、ロゼアはまた食べ物の乗った机の前へやってきた。

 すでに卵とハムのサンドイッチを頬張りながら、メーシャはなんとはなしにロゼアの動きを見守ってしまう。ナリアンも不思議そうに、ロゼアの一挙一動を目で追いかけていた。

 なにをしているんだろう、と言わんばかりの二人の視線に応えることはなく、ロゼアの手が卵のサンドイッチを一切れ、取りあげた。

 指先でひとくち分ちぎって、口の中へ放り込む。ゆっくり噛みながら、もう片方の手が水差しを持ち上げ、陶杯へそそぎ込んでいく。飲みこむとすぐに水を飲んで、ふ、と安堵の息が零れ落ちた。

「ソキ」

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