灯篭に鎖す、星の別称 08
「はい、ロゼアちゃん」
「どれくらい食べられる?」
空になった陶杯を取りあげ、代わりにひとくち分だけちぎられたサンドイッチを手渡しながら、ロゼアの目はじっとソキを観察している。目の動き、顔色、肌のつや、血色、表情、声の響き、手に持つ指の力の入れ方。
見つめ返す、瞳の色彩。花の色をしたくちびるの、ゆったりとした囁き。
「ソキ、これひとつで大丈夫ですよ」
「いっこで、もう食べられないか?」
「……いっこと、もう半分くらいなら頑張りますですよ」
うん、と満足そうにロゼアは微笑み、てのひらでソキの頬を撫でた。
「いいこだな。……でも、気持ち悪くなったりしたら、無理しないでいいからな」
「ソキのガッツと根性は今こそ頑張るべきだと思うです」
「いや今は別にその時じゃないから」
大丈夫です食べます、とサンドイッチをもぐもぐしだすソキをわずかばかり心配に眺めたのち、ロゼアがのんびりとメーシャとナリアンの傍までやってくる。
あんまり無理して食べさすのもなあ、と考え込みながら零された呟きに、メーシャは思わず問いかけていた。
「ロゼアって」
「うん?」
「過保護?」
まったく同じ意見だとばかり、ナリアンがこくこくと頷いている。そんな二人に訝しげなまなざしを向けながら、ロゼアは首を横に振った。
「いや、別に? 普通くらい」
『……普通?』
その単語の意味を見失った表情で、ナリアンが首を傾げて視線を彷徨わせた。なに、と不思議そうにしながら、ロゼアの手が無造作にサンドイッチを持ち上げ、口に運んだ。
ばくりと口に含んだのち、あ、ハムだ、と暢気な言葉が漏れて行く。具の確認さえしなかったらしい。ひとつを瞬く間に食べ終わったロゼアが、スープの入った保温瓶を手にする。
あー、と声をあげながら振り返り、ちまちまと食べ進めるソキへ問いかけた。
「ソキ、スープ飲めるか?」
「なんのスープですか?」
「……かぼちゃ? ナリアン、これ、かぼちゃだよな?」
先程、ソキの手から回収してきた陶杯に注ぎ入れながら、ナリアンに確認する。うん、と頷かれたのに当たったと楽しげに笑って、ロゼアはかぼちゃだって、とおうむ返しに問いかける。
ううん、と悩んだのち、ソキはこくりと頷いた。
「飲みますですよ。でも、サンドイッチはいっこでいいです」
「分かった」
ロゼアの手が水の入った陶杯を持ち上げ、ひとくちぶんだけ口の中へ流し込む。流れるような仕草でそうしたあと、ロゼアはソキの陶杯に口をつけ、湯気の立つスープをひとくち飲んで目を瞬かせた。
また、水を飲みこんだのち、ふぅ、と息が吹きかけられる。
「熱いからちょっと待って。冷めたら持ってく」
「はーい」
ナリアンが口にした感じだと、すでに火傷はしないくらいの温度なのだが。それを証拠に、ロゼアはもうひとつの陶杯に注いだ自分の分は、普通に飲んで平然としている。
もぐもぐもぐ、なんとも言えない表情でサンドイッチを口に運びながら、メーシャが確信を深めた表情で頷いた。
「過保護だな」
『うん。そうだね』
改めてよく考えれば、ソキを一歩たりともソファから動かさないあたりが、もう間違えようもなくものすごく過保護だ。それなのに、普通くらい、というロゼアの基準がよく分からない。
悩みながら見つめてしまう二人の視線の先、サンドイッチを食べ終わったソキの手指を濡れた布で拭ってやったのち、ロゼアはぬるまったスープの入った陶杯を、少女の手へと受け渡していた。
食事が終わって、一時間とすこし。談話室に現れた青年が入学式の準備が整ったことを告げた時、ソキはロゼアの腕の中で、半分夢の世界へ旅立っていた。おなかがいっぱいになって、夜も遅いこともあり、案の定眠気に勝てなかった為だ。
今も眠そうにあくびをしているソキの手を、やんわりと繋いで歩いているのはナリアンだ。ほんの五分前までロゼアに抱きあげられていた為に未だ覚醒しきっていない少女の足取りは常になく危なっかしいが、亀の方が早いくらいの進行速度である。なんとか転倒を免れていた。
ロゼアくんみたいに抱きあげてあげた方がいいのかな、と思いながら、ナリアンの回復しきっていない体力はそれを許す状態ではない。正直、ソキの歩行速度がありがたいくらいだ。
人気のない廊下を、二人はゆっくり、ゆっくり歩いて先へ進んで行く。廊下の途中で立ち止まったロゼアとメーシャが追いかけてくる足音は、まだ聞こえなかった。
どうしたのかな、と思うナリアンの内心に同調したように、立ち止まったソキが不安そうに振り返る。ロゼアちゃん、と呼ばない代わりのよう、繋いだ手にきゅぅと力が込められた。
「……にゅうがくしきは」
半分、まだ眠っているようなほわほわした声が囁き、ソキが一生懸命ナリアンを見上げてくる。慌ててしゃがみこみ、目の高さを近くしてやったナリアンにほっとしながら、ソキはもう一度息を吸い込んだ。
「入学式は」
『教会でやるって言ってたね。この先、もうすこし歩かないと』
言葉の途中でそう伝えたナリアンに、ソキがきょとん、として目を瞬かせる。あれ、と首が傾げられた。あどけない眼差しに見つめられて、ナリアンはざっと己の血が引く音を聞く。やってしまった。
告げられるより早く、言葉を形にされるより早く、意思を読みとって返事をしてしまったのだ。気を抜いていた。ほんの数時間前に出会ったばかりなのに。どくりと、心臓が嫌な音を立てる。指先が氷のように、冷たくなるのを感じた。
ゆるゆると、嫌な気配をまとって風が動くのを感じる。だめ、ちがう、とまれ、と願う意思は焦りすぎて形を成さなかった。すう、とソキが息を吸い込むのを感じる。ナリアンくんは、と響く声に、ぎゅぅと目を閉じた。
「言いたいこと、分かるですか?」
『……ごめ』
「すごいですね。ソキはすごいと思うです!」
冷たい指先に、あたたかな体温が触れている。暖めるように、寄り添うように。熱を分け与えるそれが、ソキの手だと、遅れて気がついた。目を開けたナリアンに、ソキはどこか無邪気に笑いかける。
すごいですねぇ、と心から感心した声が笑った。
「でも……だからナリアンくん、おしゃべりしないですか?」
『そう、ではないんだけど。……気持ち、悪くはない?』
なんのことだろう、とソキの意識が不思議がるのを感じ取る。だめだ、と思うのに。覗きこむ視線が反らされないから、その瞳があまりにまっすぐナリアンを見つめているから、読みとる意識を反らせない。
その術を、まだナリアンは知らない。防ぐ為の方法をソキも知らないでいるから、意思は言葉よりはやく正確に、ナリアンに触れては消えて行く。
あ、そっか、とほんわりした喜びと共に、ソキはなにやら納得したようだ。大丈夫ですよ、とソキは頷く。
「ソキ、体調悪くはないです。ソキねえ、丈夫なんですよ!」
「……俺、そろそろ丈夫とか、普通とかの意味を見失いそうなんだけど?」
「あ、メーシャくん。ろぜあちゃんっ!」
足早に歩み寄って来ながら、頭の痛そうな声でメーシャが額に指先を押し当てている。その隣で苦笑しながら、ロゼアがぴょんこぴょんこ飛び跳ねているソキに、転ぶなよ、と言った。
「もうちょっと先にいるかと思ったんだけど……どうかしたのか?」
「ナリアンくん、ソキの体調心配してくれたです」
「そっか。……頭痛くなったらすぐ言うんだぞ?」
前髪を払い、額に触れて離れて行くロゼアの指先をじぃっと見つめながら、ソキはこくんと頷いている。そして再び、歩きだす為に伸ばされた手が繋いだのは、ナリアンの指だった。
え、と視線を落とすナリアンを見上げながら、ソキがこてりと首を傾げる。
「一緒に行くですよ?」
『……ロゼアくんは、いいの?』
「右手はロゼアちゃん、左手はナリアンくんです」
よしこれで完璧ですねっ、とソキの意識がなにやら気合いを入れ直している。自然に浮かんで来る笑みに、ナリアンはきゅぅ、と手に力を込めた。頷き、歩きだす。
ふらりとかしいでしまうナリアンの体を支えるように、ナリアンの左手を、メーシャが繋いだ。
「じゃあ、俺はこっち」
「……ち、ちがうんですよメーシャくん! ソキはべつにメーシャくんを仲間外れにしようとしたわけじゃなくてですねっ!」
「分かってる、分かってるから足元っ!」
見て歩いて、とメーシャが言い終わるより、ソキがくにゃり、と体を妙に滑らせる方がはるかに早かった。転んでしまう寸前、慣れた仕草でロゼアがソキの体を支え、四人分の安堵が空気を震わせる。ゆっくり行こうね、と誰かが言った。
言葉にはならなかったのかも知れない。それでも、誰かの意思がそれに同調し、ナリアンは確かに、それを感じ取った。幸い、入学式の行われる教会までは、まっすぐ歩いて行くだけだ。
あんまり簡単な道筋すぎて、呼びに来た青年が、すみません忙しいので、と言って居なくなってしまったくらい、迷う余地がどこにもない。まっすぐ続いて行く廊下の果てに、ぼんやり、明りに照らされる扉が見えた。
そこへは誰も立っていない。恐らく、中にいるのだろう。
その扉の先に、はじまりがある。四人の手が扉に触れ、一緒に、それを押し開いた。
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