古森の末裔

見夜沢時子

その一端

 僕の家の裏には森が広がっている。

 昔ながらの佇まいを持つ木造家屋は二階建てで大きい。しかしひどく旧式だった。水道設備と電気、ガスは整えてあるものの、トイレは水洗式ではない。

 時代になんとか適応しようとして乗れていないそんな家を見透かしてでもいるかのように、森は悠然と枝を広げて何百年もそこにあった。

 二時間に一本しか利用されないバス停への近道が出来たのは最近だ。 僕はそこを通り、いつも通りバスで三十分揺られて図書館へ行く。森の中では初夏の日差しもただの木漏れ日になる。

 彼を見たのは、そんなある日のことだった。

「――ふみ?」

 そう呼びかけられた気がして立ち止まる。

 僕は息を詰め、首を巡らせた。

 木の根元に青年が座っていることに初めて気付く。さっきの声は幻聴か、それとも聞き間違いだったかと思う。なぜならあまりにも気楽に手を振られていた。

「ああ、そこの隈のひどい綺麗な顔の兄ちゃん。道教えてえな」

「……」

 僕は立ち尽くしてしまった。

 自宅の裏手、森の中で、団扇を仰ぎながら座り込みそう投げかける関西弁の男を、怪しまない人間はいない。ジーンズを履いた長い足が放り出され、それが根の延長のように見えた。サンダルが愛想程度につま先に引っかかっている。

 手加減のない金茶に染められているのに光の輪が見える柔らかそうな髪は、ちびたしっぽのように首筋でくくられている。一瞬白人かと思ったが、顔立ちは少なくとも東洋人だ。サングラスをかけて、極めつけに極彩色のアロハシャツを着ている。田舎の初夏はそこまで南国ではない。仰ぐかアロハの一択であるべきだ。

 長着の裾に手を差し入れ、僕はためらいながらも問い返した。

「どちらへ行かれます?」

「人んちなんやけどな。なんて言うたか忘れてもうた」

「それじゃちょっと。お役に立てそうにないです。とりあえずここはうちの敷地内なので、表の国道に出てもらいたいんですが」

「兄ちゃん、これから葬式か? 暑苦しい格好しとんな」

 話も聞かず、彼は団扇で僕――の服装を指した。漆黒の長着に、帯紐も草履の鼻緒も黒。確かに彼に劣らず初夏にいるべきではない格好かもしれない。

「いえ。違います」

「ああそうや! 思い出した。ミマサカや。美作。ミマサカサンチ探してんねん」

 カサカサいう耳障りの余韻が消えた後、僕は言った。

「じゃあ、間違っていないと思います。目の前にありますよ」

 そう言って来た道を引き返す。彼が立ち上がる音が聞こえた。進む先には僕の住む家の裏口がある。


 淹れたばかりの茶を客人の前に、茶菓子の水羊羹を卓袱台の中央に置き、僕は彼の向かいに座った。客人は座布団の上で片膝を立てて脚を持て余している様子だ。

 応接間の障子は開け放たれている。最近手入れをしたばかりの庭には雑草ひとつ生えていなかったが、強い日差しに誘われて再び芽を出すのもそう遅くはないだろう。樹が濃い陰を白く眩しい地面に落としている。

「ええとこやわ。うん」

 彼の斜め後ろでは扇風機が回っている。蝉はまだ鳴かない。

「この付近は避暑地ですし、別荘を置いているお家もあるみたいですよ」

「ここはちゃうん?」

「ここは本家です」

 彼は意を得て意外そうな顔をした。僕は素知らぬふりをする。

 中に入らずとも分かっただろう。ただの田舎の家だ。広いが、広いだけの家。

「失礼ですが、お名前を伺っても。僕は透と言います。当家の長男です」

「ああ、俺は如月きさらぎ

「如月さん。生憎祖母も母も出かけているのですが。ご用件でしたらお伺い出来ますし、言付けも承ります」

「うん? ぼん、いくつやの」

 手のひらの代わりに団扇が向けられる。僕は曖昧さを求めて首を傾げ、結局は答えた。

「十七です」

「あれ。なァ、自分トコ若い姉ちゃんおらんかった?」

 僕は湯呑みを持ち上げ唇へ、長い時間をかけて傾けた。

 色の濃い眼鏡越しに返事を待つ視線があるのを分かっていたが、その瞳の色までは見えないのがより答えを躊躇わせた。サングラスとは家の中でまでしてくるものだろうか。度付だったらそうかもしれない――

 湯呑みを卓に置き、視線をそちらへ伏せる。

「姉のふみなら先日、死にました」

「……あん?」

「四十九日も終わってません。……ふみの、お知り合いですか?」

 返事がない。数秒待った。

 そっと目を上げると、彼は形のいい唇から呼吸だけを微かに繰り返していた。白く固まった顔が面のように感じられる。それを悲しみだと、僕は受け取った。

「あの」

「なあ、死体、見っかっとんの?」

「ええ。交通事故でしたから」

「嘘やん」

 彼は笑い飛ばす直前でし損ねた類の、奇妙で不完全な表情を浮かべた。

「お骨も奥の座敷にあります。よかったら、お線香を上げてあげて下さい」

「なあ、坊」

 ふいと切り替わったように、その語調はどこか冷たかった。するりと入ってきた風も似た涼しさを帯びていて、ふと視線だけ外すとちょうど陽が陰ってきていた。庭が薄く黒ずんでいる。

「透です。なんでしょう」

「あの娘と示し合わせて、俺をたばかっとるわけやないな?」

「……どうしてそういうことになるんです」

 誰より彼女の死を疑っているのは僕だ。

 僕の前を歩いていた彼女が、車道に飛び出す。横合いから轟音を上げて飛び込んできたトラック。華奢な身体はバンパーにぶつかりひしゃげ、木偶のように吹っ飛んだ。その光景が、気を抜けば視界に幻影となって蘇る。鮮やかに。

 眼を閉じているのが怖かった。人はあんな風に壊れるのだ。

「ふみは人間でしたよ。トラックと正面から向き合って無傷でいるわけがない、ただの人間でした」

「おまえそれ、分かってて言うとる?」

 彼が金茶の髪に指を差し入れ首を傾ぎ、上目で睥睨するように僕を見る。そのサングラスの奥の瞳を覗いた時、招き入れるべきではなかったものだと僕は悟った。

 縦に裂けた瞳孔。純然たる闇の色。

 ――こんなときに、何故だろう。背筋に這いあがる寒気は、恐怖によるものだけとは思えなかった。

「……姉と、どういった関係ですか?」

「俺の話はせえへんかったん?」

「いいえ。全く」

 突然。

 卓袱台がひっくり返り僕へ倒れてきた。避けようとして身を引いた次の瞬間目前の板が横から真っ二つに割れた。

 中身のない声が喉から漏れた。台の形をなさなくなった卓が湯呑みや手つかずの茶菓子とともにばらばらに転がる。雨粒のような血が点々と畳に散っていた。これは誰の血だ?

 顔を上げる。その向こうに佇む男に視線が釘付けになる。

 サングラスに隠されて、視線が合ったかどうかは分からない。その手にしているのは団扇くらいだ。

「……何がしたかったんや、あの娘は」

 あからさまな苛立ちを織り交ぜた声で彼は言った。

 僕はそれに答えられない。

 如月と名乗った男は縁側へと足を向ける。そのまま素足で庭に出て、いずこかへと姿を消した。サンダルは便宜上に違いない。

 胸に手を当てる。長着の間にぬるりと生暖かい血の感触があった。そのときようやく、身体が小刻みに震えていることに気付いた。



「かまいたちだね」

 きつく包帯を巻きながら祖母は言った。いとわしげな口調で、小さな眼鏡の奥の小さな眼は如才なく動いている。

 祖母とともに帰宅した母は今、無惨な状態になった応接間を片づけている。卓袱台と畳について文句を言われるだろうか。

 出血は存外ひどいものだった。考えごとが冴えないのは頭に血が回っていないからだろうと思う。祖母の部屋はいつも煙草の匂いがする。それだけが思考について回る。

「かまいたち」

「よく言うだろ、真空で人を切り裂く妖怪。あれだよ。年数を重ねた妖怪は人に化けても別におかしかない。どうして家に上げたんだ」

 絶対的権力。祖母を言い表すのにほかの言葉はあるだろうか。美作家の連綿と連なる血やしきたりを固く重く守り続ける老いた守り神。

 言いしれぬ威圧感を常に放ち、前に座るとそれだけで押さえ込まれているような感覚さえ抱く。それが祖母だった。

 祖母が苦手だ。ふみも、彼女自身は口にはしなかったが恐らくそうだったろうと感じている。

「ごめんなさい。妖だとは思わなかったんです。あまりに、普通で」

「そうだろうねえ。ふみなら分かっただろうさ。無能なおまえと違ってあの子は見える」

 祖母の声から棘が抜ける日は来るのだろうか。僕には分からない。否、ふみが死んだ日から、もう永遠に来ることはないのだろう。

「いつも通り札は貼ってたけど、貼り方が悪かったのかね。やれ、ちゃんと見とけっつっただろうよ」

「……ごめんなさい」

「そうそう見とけっつったら見合いの写真も見たかい? 苦労して探してきたんだ、見なかったとは言わないだろうね」

「おばあちゃん。それ以上透を責めないであげて」

 応接室のほうから母が入ってきた。母だけは僕や祖母と違いシャツにジーンズとラフな格好だ。髪も無造作すれすれのアップでまとめている。同じように小柄なのに、祖母と存在感は雲泥の差だった。

「責めちゃなんかないよ。当然の責任さ、義務だね」

 祖母は包帯を結び終えると、手のひらでぱんと僕の胸を叩いた。

「弱いね、おまえは」

 衝撃に掻き出された痛みに思わず顔が歪む。身体が震えた。

「……ごめんなさい」

「もう。それにしても私たちが帰ってくる日で良かったわ。あなた薬箱の場所も知らないでしょ」

「いや、それは知ってるよ」

「あらどうして?」

 僕は沈黙した。

「それより有見子(ゆみこ)、呪符の点検をしておくれ」

「あら。ふみとは違うのよ。全部には手が届かないわ」

「おまえしかいないんだから仕方ないだろう、透を手伝わせな。何枚だめになってたかお教えよ。作り直さなきゃならん」

「もう……透、来てくれる?」

 母が穏やかにそう言ったので、頷いて立ち上がる。

 呪符というのは、簡単に言えば妖や霊を退けるためのバリケードのようなものらしい。主に祖母が念を込めて呪を記した長方形の札。風で剥がれることはまずないけれど、長く使えば効力が薄れるから、時々点検をして張り替えている。

 あとをついて廊下を歩く。

 応接間を通りかかったが、卓袱台は端に寄せられ、畳についた血も拭き取られていた。

「ここはさっき見たから大丈夫よ」

 覗こうとした僕を肩越しに振り返って母は言う。思わず首を傾げる僕にも気にせず廊下を進んでいく。その後を追った。

「そういえば、ふみの手当を毎回してたのはあの子自身じゃなくてあなただったわね」

 僕は慎重に頷いた。

「傷跡とか気にしなかったから。女の子なのに」

「そうよね。あの子、はたちも半ばになったら身にしみて分かるに決まってるから。今のうちにここぞとばかりに恩を売ってやりなさい、透」

 僕は曖昧に肯定した。母さんはふみが死んだことを分かっていない。



 母と祖母の出張はいつものことだ。ふみも学校が休みの時は一緒に行くことがしばしばあった。彼女たちは全国各地(最近は祖母の年齢もあって遠くは渋るけれど)へ飛び、除霊や妖怪が起こす怪奇現象の解決を行っている。霊能力者や退魔師とか言われるが、明確な分類は出来ない。いわば神秘的なものに対する何でも屋だ。語り継がれるほどの逸話や武勇伝も特にない。隙間で生きてきたのだろう。自分の家を見れば分かる。

 美作の家がそうやってきたのはどのくらいから昔のことなのか、僕には分からない。

 こうして日を改めて図書館に来たけれど、美作についてはトンデモ本ですら扱っていないと思う。小さな家だった。

 片隅の閲覧コーナーに人影はまばらだった。座って適当な分厚い本を広げた上に突っ伏してまどろんでいると、しばらくして声がかかった。

「今っていわゆる夏休みなん?」

 傷が疼く。このまま寝たふりを続けるか迷った。

 迷っていたら首筋に微かな息が掛かった。びく、と身が跳ね上がる。

 声を漏らさず気配のするほうへ顔を上げた。昨日如月と名乗った男が涼しい顔をして隣の椅子に腰を下ろしていた。団扇を仰がせ、今日は幾何学模様のアロハを着ている。

「学生が外におる時間帯ちゃうやろ」

「……体調が優れないので」ぼそぼそと答える。

「昨日もか? 登校拒否?」

 ずいぶんと世俗に詳しい妖怪だ。顔を上げ、彼の方向へ頬杖をつく。

「誰かさんが怪我させてくれた胸が痛むので、今日はお休みにしました」

「反射神経ないな、自分。ふみの弟なんやろ」

「美作の血は女子だけに顕現するんです。僕に、ふみのような力はありません。あなたが何であるかも後で祖母に教えてもらうまで分からなかった」

 どうしてこんなことを話さなければならないのだろうと思った。

 ――透は何も出来ないからね。軽く顎を上げて言い放つ姉の声が耳の奥で泡のように聴こえる。透のことも、私が守ってあげるよ。

 生まれつきヒエラルキーの最下層に位置していても、今思い返せばその台詞に反してふみは僕に哀れみの目を向けたことなどなかった。守ってあげる、は本当のことだったのかもしれないと改めて考える。

 血を分けた弟の目から見ても、ふみは魅力的な女の子だった。惜しいという安直な言葉では尽くせない。

 既に葬儀は済み、母は認めようとせず、僕の中もどこか麻痺しているようで悲しみが靄に包まれているけれど、確かに彼女は骨になったのだ。

 彼は黙っている。こちらが気まずくなるような沈黙のあと、顎を引いて僅かに俯きこちらを見た。昨日見た漆黒の瞳がわずかに覗ける角度。

「そうか。……ちょっとかっとなってもうた。すまん。痛むか?」

 出てきたのは姉に対する追悼や哀惜の言葉ではなく、僕は少し肩透かしを食らった気持ちになる。

「そんなに深くはなかったので。……あなたは、人間では、ないんですね」

「飯綱って知ってる?」

「イヅナ?」

「憑き物の一種や。管狐とも言う。普通は家に憑いて、よその家に悪さするために飼われる。何の手違いか制御されんかったもんは人の生き血を啜るためにかまいたちになる」

 思わず傷跡の残る胸を押さえた僕を彼は笑い、席を立つ。

 改めて彼自身の口からそう言われても、いまいち飲み下しきれないでいた。狐は狐だ。人間ではない。しかし、狐は人に化けるのだと昔から言われてもいる。

「ふみとは京都のほうで知り合うた。祓いの依頼で家族と来たあの娘に捕まえられかけて。家なしの俺に、自分に憑いてエエて言うた。そういう約束やったんや」

 悪さをするための憑き物に? ふみの行動に疑問を感じたが、制御しなければかまいたちのまま人を傷つけ続けるなら――僕には分からない。祓ったり封じたり、それが祖母と母からふみに与えられた力のはずだ。

「やから俺も一ヶ月身辺整えてここ来たんや、けどな。――人間は、もろくてあかんな」

 悲しいはずの言葉は、どこか乾いて耳に届いた。

「……ふみは、何と引き替えにそんな約束を?」

「さあ、なんやと思う?」

 首を横に振る。彼女には力があった、と祖母も言う。妖と取引をして何の利点があるのか、僕には分からない。それとも、もしかして――

 如月は椅子を押して戻した。この場から離れるのか、と思ったが、僕の肩に手をかけたかと思うと顔を寄せてくる。息のかかりそうな距離。近く、声がささやく。

「おまえから、少しだけふみの匂いがした」

 思わず首筋に手をやる。「ふみとは双子ですから」

 そうか。と、彼はものうげに顎を引く。

 広い図書館は静寂に満ちていたが、ひときわ無音を感じた。

「なァ。力が欲しいと思ったことはないか?」

「それを、僕に訊きますか」

 彼は鼻で微かに笑う。「おまえだけちゃうよ」

「ふみにも?」

 飯綱は道化るように首を傾げる。更に問いかけようとしたが、唐突にこの会話自体に興味をなくしたのか、迷いのない足取りで背を向けて僕から離れていった。

 引き留めようかとも思ったが言葉が何も見つからず、ただその背中を見送る。


 バスに乗り下車する頃には、陽はすでに山の向こうへ落ちていた。

 森を抜けて勝手口から家に入る。炊事場には母の姿があり、煮物や味噌汁の匂いに満ちていた。

「早かったわね。学校はどう?」

「問題ないよ」

「そう。さっきお客様が来てたから、ご飯の準備が遅れちゃってるの。でももうすぐ出来るっておばあちゃんに言ってくれる?」

「分かった。符、貼り直そうか? まだやってないよね。届いた?」

「大丈夫よ。どれも」

「そう」

 僕は頷こうとした。

 母が味噌汁からおたまを引き上げた格好のまま、こちらを見る。

「母さん。飯綱が――かまいたちがここに入れたのは、どうしてだと思う?」

「おばあちゃんも、もう年だからね。認めたがらないけど」

 力が弱っているのだろうと母は言外に言った。

「母さんが代わりにやればいいのに」

「おばあちゃんが自分でやるって言うのよ」

「飯綱が入れて、問題なく害を与えられるくらいなのに?」

「本当よね」

 苦笑しながら煮物の味を見ている。

 僕はそれで、おおよそを理解した。

「お客さんって、どんな人だった?」

「金髪で、もう夕方なのにサングラスを掛けていて。西の方の訛りがあったわ」

「それが飯綱だよ。母さん」

 母と再び視線が絡む。その唇は今にも声を発しそうに開いて、しかし何も言わなかった。僕は続ける。

「ふみは力が欲しかったんだって。きっと、母さんを助けたかったんだ」

 透のことも、とふみは言っていた。

 も、だ。僕だけではなかった。ではほかに誰がいたのか――父さんはすでに死んでいる。よく考えれば分かるはずだったのだ。僕が想定もしていなかっただけで。

「ふみが飯綱の力を借りようとしたのは、ふみ自身に全く力がないからだと最初は思った。でも違うんだ。ふみは飯綱を飯綱と認識出来たんだから。母さんはそれが出来なかった。彼をふつうの人間だと思ったんだ。――僕と同じように」

 母はしかし、黙って鍋の中を見つめている。軋むような不安定な感覚があり、僕は性急に続けた。

「呪符のこともほんとは分からないんでしょう。効果が切れてるかどうかなんて判断がつかない。でも、迂闊にあのひとに言ったらばれてしまうから、全部大丈夫だなんて言ったんだ。ふみはそれを全て請け負うために、もっと強い力を望んだんだと、僕は思う。あのひとの意見すらはねのけてしまえるくらいの」

「……」

「母さん、昔はそうじゃなかったんじゃないかな。生まれてからずっと実の母親を騙せるとは思えない。昔はきっと力があって、――でももう今は、きっと何も見えてない」

 小さな造作の手がコンロの火を止めた。

「透」

「なに」

「ふみの名前、どんな漢字があてられるか、分かる?」

 少し考えた。

「母さんが、有見だから。不可能の不に見る、で――不見。かな」

 母は少しだけ顎を引く。

「あの子の名前をつけるときにね。視えなければいいと思ったのよ」

「そうしたら、美作がなくなる」

「なくなっていい」

 迷いなく切り捨てた母の言葉には、しかし久方ぶりに膚へ伝わる感情に満ちていた。

「あの子の自由さえなくす小さな世界なら、なくなってよかった」

 母はふみが死んだことを分かっていたのだと、そのときようやく知った。分からないふりをするのが一番楽だっただけで。

 どんな思いをしていたのか、どんなものを見てきたのか――僕に全ては分からない。けれど、力を持たない僕でさえふみが亡くなってから急速に道が塞がったのだ。一人娘の母さんに対する抑圧は想像も出来なかった。そしてそれは更にふみへと継がれようとしていた。

 しかしその抑圧者は今、衰えつつある。飯綱が証明したのだ。

「……たぶん、もう、そんなに遠い先のことじゃないよ」

「そうね」

 母は囁くように肯定する。

「知ってる、透。管狐は憑いた家を最初は繁栄させるけど、最終的には滅ぼすの。あの子、飯綱の力を借りようとしたなんて方便で、本当は――」

「……」

 僕には分からない。ふみは僕らを守ると言った。けれどその一方で、誰にも明かさず美作が滅びることを望んでいた?

 認識できるのはそれくらいなのだ。あとは推測でしかない。

「――でも、」

 小さな呟きが落ちる。俯いたその横顔に髪がかかり、こちらからは窺えない。

「もう、どうなってもね、肝心のあの子はいないの、」

 ガス台のひねりに掛かっていた手が力なく落ちる。かと思えば、がく、と膝をついて母はその場に崩れた。

 僕は立ち尽くす。

「いないのよ。そんなの意味がない」

「……でも、母さんは……辛くなくなる」

「娘を亡くした親が辛くないわけないでしょう!」

 母さんの悲鳴を聞いたのは初めてのことだった。

 想像すら及ばない深い悲しみを前に、僕がかける言葉などない。かたわらに膝をついて、あまりにか弱く見えるその背に、そっと腕を回した。

「……姉さんが、力を持っていなければよかったのにね」

 言ったところで、どうしようもないのを知りながら。



 再び彼を見たのは、それからしばらくした夏の日のことだった。

 木の幹にもたれ掛かり団扇を仰いでいる。アロハとサングラスは初夏の頃よりも風景に馴染んで見えた。

「どうしてまだここにいるんです」

「避暑地なんやろ?」

 暑がりの妖は本当に目的を失っているようだった。

「僕と別れたあと、どうしてまた家に来たんですか」

「線香上げるの忘れとったからね」

「妖怪が? 線香を?」

「郷に入れば郷に従え言うやろ」

 それもまた人間臭い。僕はなんともいえない面持ちになった。

 彼は長い脚を伸ばして、頭上を仰ぐ。太陽の光は濃い緑に茂る葉に遮られてまだら模様を作っていた。

「坊、学校は?」

「透です。今は夏休みですから」

「そうか」

 彼にはきっと興味がないだろう。そう思いながら、僕は続ける。

「分家筋にはもう、力が残ってる人はほとんどいないそうです」

「なんやそれ。律儀に守っとるのは自分らだけか」

 団扇を仰ぎながら彼はけだるげに笑った。茶金の髪がきらきらと陽に照り返している。

「たぶん、祖母が亡くなれば、僕も母も守らない――守れないんです。力がないから。ふみが、いないから。だから、美作は潰えるでしょう」

 飯綱は答えない。窺えない眼差しをどこかへ向けている。

 そう。ふみが死んだことで僕らは解放された。美作から。

 それは、つまり、不条理な罵声からだ。ふつうのはずなのに張り付けられた落ちこぼれのレッテルからも。優れた人間が自分を見るあの眼からもだ。

 如月は顔を上げた。サングラス越しの瞳が僕を見つめる。

「――なァ。なんで、ふみは死んだ?」

 聞き覚えのある問いかけに、今度は僕が笑う番だった。



>了

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古森の末裔 見夜沢時子 @tokko

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