神父と魔女と悪魔の一夜

見夜沢時子

その一夜

 山間にある小さな村の今の話題といえば、例年より長い降雪と商人たちが都市部から運んできた種々の噂や事件ぐらいだった。

 朝になれば外には子供たちが深雪を蹴立ててはしゃぐ声が聞こえる。この村でただ一人の神父ニコラが子供の一人を捕まえて問いかけると、七歳ほどのその子供はこう応えた。

「神父様! 今魔女ゴッコやってんだ。こないだやってた騎士ゴッコ? 飽きちゃった」

 雪に足を取られながらも走り出そうとしていた別の少年が振り返り、足を止めた。

「おいなにやってんだよー。今度はおまえが魔女の番……」

 少年が半端に口を閉ざす。それに気づかず、神父は子供に諭した。

『魔女』とは神に逆らう危険な存在であり、決して口にしてはいけない。神を畏れず口にしたのを教会の聖職者たちに聞き止められたら本当に魔女と疑われて裁判にかけられてしまうかもしれないから、やめなさい。と。

 ここから先は語らなかったが、魔女の『裁判』は形式に過ぎず、一度裁判の場に連れて行かれればあらゆる苦痛を伴う拷問を受け嘘の自白をさせられて火刑に処されることもニコラは知っていた。

 子供が神妙な顔をして頷く。近くにいた少年に「だって」と投げかけ、二人は他に散らばった子供たちへと駆けていった。

 少年が今一度ちらりとこちらを振り返る。神父は目を細めて笑い掛け、見送った。

 空を見上げる。朝からずっと止んでいた雪がまた降り出してきていた。



 その夜、村人の勘と推測を裏切らず、空から降る白は村と大地を一色に変えしめやかに深々と降り続いていた。今朝方雪下ろしをしたはずの屋根屋根も重たげに層を重ねている。

 半ば欠けた月と星々が青く沈黙する真夜中。

 狭い教会の二階にある一室で書類を読んでいた黒髪の青年はふと文章から目を離した。

 耳を澄ませる。

 室内の暖炉の火がはぜる音に混じって、遠く微かに別の物音を捉えた。作業が難航していたため逡巡したが結局は紙束を置いて椅子から離れる。盗賊だろうかと、音を立てぬようにローブに袖を通しテーブル上のランタンを持ち上げ、廊下へ続く扉を開けた。冬に冷やされた夜気が肌にしみた。

 正面の階段のあちこちに積まれた本の山を跨いで越え、下りていく。

「痛っ」

 下りきったところで足元に転がっていたものに躓きかけて持ち直す。片づけなきゃなと一人ごちるものの、結局は足でそれを端に寄せるだけで、物音がした廊下の向こうへと。

 物音は礼拝堂から聞こえている。廊下の先、扉一枚隔ててその空間に耳を寄せると、その向こうにある気配が決して祈りの場を踏みにじろうとする類のものではないと理解した。

 ドアを開ける。息を呑むような微かな悲鳴が耳に届き、反射的に両手を頭上へ挙げた。

「……こんばんは。寒い中ようこそ」

フードを目深に被った小さい白い顔を視界に捉える。心許ない蝋燭が三つほど灯るだけの礼拝堂内で、信者席に小柄な姿が影のようにぽつんと座っていた。

 躊躇いがちに持ち上げられた手の余りの白さ細さに、もしやこの世のものではないのかと瞬間的に畏れた。雪片で濡れ輝くフードを取り払う動きを終えた瞬間その顔に刻まれた濃い疲労を見て人間だとようやく確認する。

 年齢が窺えない顔立ちだが、こぼれた栗色の髪も小鼻と顎の線も柔らかく、見た目より若い――少女と言えるかもしれない。明かりのせいか濃い琥珀色に見える瞳は用心深くこの空間全体を観察していた。

 夜間なりに明かりが保たれているとはいえ、子細は気づきにくい。濡れた外套をまとう少女が震えていることを遅れて感知する。

「あ、その、……すみません。勝手に、入って……しまって」

 安堵と不安と緊張でより合わされた、ふわふわした声だった。

「いえ、ええと。ご安心ください。ここは教会です、迷える子羊を追い出したりは致しません。僕のことはニコラとお呼び下さい」

 それでようやく安堵したらしい少女にじっと見つめられ、引き寄せられるようにランタンを揺らさぬ程度の静けさで歩み寄る。

「懺悔ですか。お祈りでしょうか。そのどちらでもないですか――何しろ、あなたはこの村の方ではないようだと僕は思いますので」

 深い色の双眸は彼を見つめたまま眩しげに何度も瞬きをする。

「神父様、私をお忘れですか。以前懇意にして頂いた、エリーゼ・クラルティです」

 彼は継ぐ言葉を見失った。今一度じっくりと彼女を見つめ、閉じた口を緩慢に開く。

「……エリーゼ。クラルティの、エリーゼ」

 反芻すると彼女ははじめて笑顔を滲ませた。一息にあどけなさが表出する。

「ニコラ神父様。あなたならきっと私のことを忘れてはいらっしゃらないと思いました。でも、嬉しいです」

 丁重に頭を下げるさまに濡れて重たくなった髪が追従する。

「かつてよくして頂いた恩を、私、忘れた日は一日たりともありません」

「……」

 顔を上げた彼女が首を傾げる。

「どうか致しましたか。神父様」

「いいえ、何でも。わざわざこの辺鄙な村まで……――それで本日は、一体どのような」

 冷えきった体温がようやく戻ってきたのか頬を淡く色づかせて、立ち上がった娘は長椅子から歩み寄る。細い手を伸ばして彼の手を取りもう片方の手で包んだ。

 思わず視線が余所へ逸れる。

「エリーゼ?」

「……きれい」

 吐息まじりの呟きは何の繋がりもない自然発生じみたもので、彼女も口にしてから気付いたのか瞳を揺らがせた。一拍置いてから、

「えっと以前、そう、以前お会いしたときも。だから私憧れて……神父様に、ずっと」

 うわずった声で伝えながら、彼の胸に頬を寄せる。布以外隔てるものもない頬は柔らかさと熱を近く伝えた。

 聖職者に慈悲を乞うには不必要に近すぎる距離。少女特有の甘い香りが応えを誘う。

 数秒間身じろぎすらせずに、彼は橙に照らされた蒼い瞳を細め、項を過ぎて流れる暗く濡れた栗色の髪を見つめていた。ややあってからようやく口を開く。

「――そうですか。嬉しいです、エリーゼ」

 左手に持っていたランタンを長椅子の上へ置く。微かに乱れた娘の呼気を押さえつけるよう薄い背にその手のひらを、指の一本一本を張り付けた。身体からは想像出来ない柔らかさに目が眩む錯覚を覚えて瞬きに代える。

「それで、あなたは僕に何をして下さるんですか」

 冷淡をつとめ試すよう言い遣ると、胸の中の指が緩やかに握られた。娘はぎこちなく身を引いて彼を見つめる。おとがいを上げて瞼を落とし、きつく閉じてわななく唇を彼のそれに近づけていった。

 吐息がかかる距離。

 重ねられようかとした一瞬前にその間隙へ長い指をするりと入り込ませると、金茶の瞳が夢の醒めたように開かれる。

「無謀の勇気は意志の強さの体現ではなく、無知への諦めだとご存じですか」

「……っえ」

「そうでなければそれは、計算ですよね。クラルティのエリーゼ? いや――神父をたばかろうとしたという点を鑑みると、やはりそれも無謀の勇気なのかもしれませんね。それとも、神をも畏れていらっしゃらないか」

 娘が反射的に微動したことがたやすく感じ取れる。逃れられぬよう空いた右手を素早く伸ばし、細い右肩を掴んだ。不器用な口付けよりずっと軽やかに耳朶へ唇を寄せて囁く。

「嘘をついちゃいけません。あなたは、神父ニコラとは面識すらない」

「……神父様。なにを。そんな、ひどい」

「『忘れていたことを恥じ入り相手に同調する』、そんな虚栄心は僕にはありません。『女性の誘惑に流される』のもあいにく僕にはね。ああいえ誤解なきよう、僕は女性が好きですよ。罠の気配さえしなければ」

 突き飛ばそうとする腕のしなりを感じ、左手を背から引く流れで右手首を掴んでひねりあげる。痛みを与えない程度に軽くしたつもりでも折れそうな錯覚を覚えた。小さく悲鳴を漏らす声に目を眇める。矮躯とそぐわぬ存外強い睥睨とかちあって、彼はわらった。

「頭と言葉を使いませんか、クラルティのエリーゼ。君がどんな聖職者たちに追い立てられたかまでは知りませんが、僕は意外と話が通じるんですよ」

 語りかけのどの部分に反応したか娘の目つきが僅かに緩和する。手の力を緩めるとひったくるようにして手がもぎ離され、ついで不測の膝蹴りが鳩尾に食い込んだ。

「ぐっ」

 至近距離だっただけに回避出来ず衝撃に身を折って膝をつく。肉の薄い身体のせいか刺さるような蹴りでありながら不思議なことに強靱さも伴っていたため無意味に痛かった。

 せき込みながら見上げると、一歩ほど退いた娘は敵意と困惑のない交ぜになった面持ちでこちらを見つめていた。

「やばい聖職者蹴っちゃったゴメンナサイ」

「……。形ばかりにもほどがある謝罪は要りません」

「おあいこだよね。身の危険を感じたもの」

「先にいかがわしいことをしたのはあなたですよね、どう考えても。――時流にのっとれば、知己でない遠方の聖職者と浅からぬ縁を作る理由は推測出来ます。目的は、庇護」

 遅ればせながら立ち上がる。娘は先んじてぴしゃりと言った。

「あたしは魔女じゃない。その証明が欲しいの。身体のどこを調べてもいいわ、悪魔が口づけた跡なんてないことが書類とあんたのサインになれば」

「なぜ」

「なぜって」呆気に取られた一瞬から、すぐさま眉間を寄せ「神父なんだから知らないわけないわよね、一度魔女と認定されたらもう終わりなの。それだけじゃない。真面目に実直に生きてきても、『悪魔に全て売った』なんて事実無根の烙印を押されてもう拭えないの。それがどんなに無念だか分かる……?」

「……無念。ですか」

「そうよ! ……」

 言葉を止めた沈黙の数秒。堪えきれなさが唇に滲む。やがて、

「……母は村の人たちのために沢山薬を作ったわ。生まれてくる子も沢山取り上げた。あいつら沢山感謝したのに」

 原初的な感情が少女を残した面差しと瞳に猛然とした速度で露わになる。視線でもってぶつけられる怒りと憎悪をただ見つめ返した。

「魔女の定義が普通の人間は持たないような智恵に長けた人間とするなら、母以上の魔女にふさわしい人間はいなかったんでしょうね。あいつら、告発の賞金をもらって喜んでた。これでみんな飢え死にしなくて済むって。じゃあ、母さんは?」

 娘は影を縫われたよう、立ち尽くしている。

「それでさ。今度はあたしが魔女だって」

 うつろな笑い声が混じった。

「子供を取り上げる技術が魔女の仕業だと言うなら、病を癒す技術が悪魔のものだというなら、女のはらから魔女に取り上げられて悪魔に延命される聖職者は――」

「聖職者は?」

 たわけるような声色の追求に、しかし娘は我にかえり青ざめる。

「それで。その聖職者、生臭神父に純潔を捧げても、ですか」

 彼女は何か言いかけ、結局言えぬ代わり瞬間的に頬を淡く染めながら、

「死んだらなにも出来ないわ。ていうか――」一拍の間。「聖職者の中に神に殉じるようなヤツなんているの」

「なら推測は出来なかった? 清貧貞潔を掲げるだけに、美味しいものを頂いた後に『これは身体に毒だから流通すべきではない』と言う飽食家だっていることも」

 今度こそ娘は顔を紅潮させた。女としての怒りと正義感のない交ぜになった複雑な表情に、彼はさりげなく口元を袖口で隠す。

 眺めていると、徐々に様々な感情を飼い慣らし、やがて眉間を深く刻み疑念をこちらに向けてくる一連の推移が見て取れた。

「……ねえ。あなた、本当に神父なの?」

 ランタンを拾い上げる。影が背後で長く延びた。娘が少し身構えたのを視界の端に留め、彼は笑む。

「どうしてそう思います?」

「……随分と冒涜的だわ」

 なんとなく、という言葉にも聴こえた。首を横に振り背中を向ける。

「先ほどのお話を拝借すると、あなたの中では冒涜的じゃない聖職者はいないのでは」

「それは、――ちょっと、どこいくの?」

 廊下へ続く扉を開けて肩越しに振り返る。

「外は雪です。サインはともかく寝床くらいはご案内しましょう」

 数秒の逡巡を無音に示したのち、少女の靴音がついてきた。


 明かりは頼りなく、五歩先はもう見えない。しぜん娘は真後ろを歩いているが、小走りなのを察して歩みの速度を落とした。

「散らかってるので躓かないでくださいね」

「片づけなさいよ」

「僕の領分ではなくて。先のようにへばりついたりはしないんですね」

「へばっ――あれは違うっ」

 娘は反射的に息巻いてから、

「……ねえ、理解があるなら証書を書いてくれてもいいじゃない。そしたらあたしもう逃げなくてよくなるの。村から逃げ出したら今度は旅の女ってことで怪しまれて、違う町で普通に生きるのも難しくて、……だから」

「あなたは、何が欲しいんですか?」

「え?」

 立ち止まり、振り返ると、不安を瞳の奥に湛えた瞳が如才なくこちらを見つめ返した。

「何が欲しいんです、エリーゼ」

「だから証書だって言ってるでしょ」

「証書は手段に過ぎない。そうじゃありませんか? 魔女ではないと証明し大手を振って外を歩き、ささやかで平凡な幸せを得ることがあなたの望みなのですか」

「……どういう意味」

「賢いあなたが分からない訳はないでしょう」

 ――次の瞬間。ランタンの中の蝋燭の火が激しく揺れたかと思うと、最後の煙を細く上げて掻き消えた。

「えっ」

 狭い廊下が冬の闇に落とされる。

「消えました」

「ちょっと……」

「続けましょう。僕はあなたの顔が見えない。あなたが誰だかこの一時だけは判じない。そしてここは懺悔室ではない。罪を悔いる必要も何ひとつありません」

「……」

「何が、あなたの苦悩ですか。望みですか」

 闇の中、息づかいが聞こえる。

 長い沈黙。

 訝り。疑念。呆れと困惑がない交ぜになって空気に漂っている。

 濃密に折り重なり肺へ満ちた頃――小さな唇を開く呼気が妙に鼓膜へ響いた。

「――……ころしたい」

 冷えた鉄のような声が絞り出される。

「誰を」

「母を告発したドーバントン。恩を仇で返した死にぞこないのラクロ」

「他には」

「嘘の証言をしたマルセルとシュラール……罠にはめたエモニエ……」

「もっと」

「逆恨みしたロンサール、セーヴ、……もっと、他にも、――ッ火炙りなんかじゃ赦さない、もっと……!」

 名を増すごとに声が滲んでいく。それに対し波紋も立たぬほど密やかに彼は呟いた。

「――哀れな子羊よ。人命を利と換えることこそ、あまねく無二の命を愛する神への冒涜であると思いませんか」

 鼻を啜る音だけが耳に届く。

「彼ら彼女らこそ御名において下すべき相手だと、そう思いませんか?」

「神父さ、」

「捧げられた羊の子。もし証書などではなく断罪の力こそが与えられるなら、例え何を犠牲にしたとしても雷を手に取りますか?」

「――」

 彼女の答えに彼は目を伏せる。そうですか、と呟いた口元が微かに撓んだが、闇の中ではそれを目にするものは誰もいなかった。

 手を伸ばしその肩に添え少しだけ力を加えると、軽すぎる身体がこちらへ寄りかかる。先のように不自然さはどこにもなかった。

「……大丈夫です。誰も聴いてはいません」

 辛うじてといった小さな応えがあった。

 ややあって、娘は彼の胸に手を押しつけるようにして力なく離れる。それに応じて何事もなかったかのように背を向けた。

「壁に手を沿って歩けばすぐ階段ですから、ご辛抱を。昇った先に空き部屋があります。埃っぽいのは我慢してください」

 光との落差で目が慣れないのか不安げな手が背中に当てられる。

 階段までたどり着くと足元への注意を促そうとした。が、小さな悲鳴が足元付近から聞こえた。どうやら言う前に転んだらしい。

「大丈夫ですか?」

 返事はなかった。

「エリーゼ?」

「……」

「……」

 吐息がおののいている。

 背に当たる手を離れる直前に掴む。先よりも遙かに強い力で抵抗を示すのを感じながら闇に囁いた。

「大丈夫です。もう、それは動きません」

 しかしそれは逆に神経を粟立てたらしい。恐ろしく強い力で突き飛ばされ段の上に尻餅をついた彼をよそに、激しい足音が遠ざかっていく。ものが崩れる音も何度か聞こえた。

「……正面扉を施錠しないとね」

 緩慢に立ち上がり、不要になったランタンを落とす。質の悪いガラスが目下で砕けた。

 では、彼女はあれを踏んだのだろう。粗雑なのが己の欠点だと常々彼は思っていた。


**


 遠く何かが割れる音が聞こえた。暗闇を抜けると同時、両手でドアを閉める。ノブをかたく握りしめて呼吸を整える数秒。入ってきた扉の方向へ身体を向け、後ろを気にして振り返りながらも礼拝堂を突っ切って駆ける。

 ふと進行方向を向く。目の前に後ろに残したはずの青年が立っていた。動揺と恐怖に足がまろぶ。今はその優しげに整った顔立ちも恐れを加速させる以外の何の効果もなかった。

 夜の青みを帯びた黒髪。恵み深き海の色の瞳は切れ長、低くない背は品性の薫る佇まいと相俟ってより高く見える。

 何よりも声が深く柔らかく、囁かれるたび心の中を全て覗かれるような錯覚を喚起して震えを感じた。今もまた。

「言ったのに。僕は意外と話が通じると。そう、逃げなくても」

「話が通じたら、神父、……本当の、し、神父を。こ……殺したり、しないわ」

 気勢も何もない自分の声に絶望を覚えた。彼が笑う。場違いに気恥ずかしくなり、自身でもその芯が不透明な恐れがいや増した。

 ――躓いたものに触れた感覚が今だ手に残っている。五感に響くほど冷たかった。あれはこの世と切り離され死の零下に晒されたものだ。そのときばかりはいやに冷静だった手が胸元を探り、その首に確かにロザリオがかかっていると確認した。そう、目の前の男はしていない聖職者の証をだ。

 身を寄せた時にどうして気付かなかったのかと悔やまれた。しかし、気付いたところで何が出来ただろう。

「話が通じなかったのは彼のほうです」

「……殺したのは、否定しないのね」

 青年は首を横に振った。

「言っておくと、神父ニコラを殺したのは数枚の紙ですよ。でもそんなことはもうどうでもいいんです」

「どうでもいい、……」

 彼は滑るような足取りでエリーゼの前に進み出る。思わず何歩か後ずさりした彼女へと音もなく跪いた。意表を突かれ、足が止まる。

「あの男の魂はとても不味かった。僕にはとても口に出来ない素晴らしい欲望を善悪の区別もない少年の身体で満たし、危うくなれば他の地へ赴任することを繰り返した。そのくせ自分が病によって死期が迫っていると知ると、もう捧げられるものなど何もないのに僕に助けてくれと何度も、何度も無様に足下に口づけをするのが、不快で」

「たましい、って」

「書類を踏んで階段から落ちました。それが死因になるとは僕も思いませんでしたよ。あれだけの罪をして生きていた男が、部屋を片付けない物臭を神に責められて死ぬなんて」

 その喜悦じみた声の抗い難さ。背筋を這い昇る形のないものに怯える。

 再び逃れようと身じろぎしたエリーゼを、氷と錯覚する瞳の彩が射抜いて再び止める。動くな、と本能が命じるのを聴いた。

「あなたは力を欲した。僕を欲しました。打算も悪意もない、純粋な憎悪によって」

「ちが、」

「何が違うんでしょう? 先ほどあなたが『はい』と言った声に、僕は希有にも熱を覚えるほど歓喜を抱いた。あなたの――」

 甘い声が鼓膜を貫いて脳へ至り、思考を痺れさせる。

 この男の声は危険だと感じる一方でこれこそが誘惑者のものなのだと知性を越えた最奥から知る。エリーゼは思わず耳を塞いだ。悪魔の声がただの音であることを祈った。

 確かに先ほど肯定したのだ。

 心の奈落に突き立つひとつひとつの存在の名前を告発するたび血が沸いた。激しい苦痛を伴う処罰でもって思い知らせたいと。

 自分たち母子の尊厳を家畜同然にまで失墜させ、母の肉を喰らって生きるけだものたちが、その行いを悔いながら死ぬ様を想像するだけで臓腑が打ち震えた。

 想像だけで確かな快楽すら感じたそれをまともに煽られる――拒絶出来る自信などない。

 彼は言った。

「あなたの魂を味わいたい。奥底に燻る業火をこの目に見せてほしい。僕にキスを下さい、エリーゼ。それで望みがその手になる」

「……ッ」

 それは確かに音声で、鼓膜を貫いたわけではない。

 それでも心臓から踊る血がうごめき声帯を震わせる予感を抱き、手で白い喉を押さえて口へとたどり、塞いで、なけなしの自制心に押し出された言葉を指の間から漏らした。

「あんたもあいつらと同じ……あたしを捌いて食べようとしてる。あたしの魂を食べるためだけに、都合のいいことばかり言う」

「いいえ、このに依れば復讐が果たせる。僕を困らせないで」

「囁くな! 悪魔へ口づけをするのは魔女になることで――結果的にあいつらが正しかったことになる。そんなの絶対に……」

「ねえ、エリーゼ。教えて頂けますか」

「……?」

「いったいどちらが悪魔なんでしょう?」

 脳髄へ滑り込んだ毒は思考を阻んだ。

「僕? それとも、君の母上及びその恩を金に換えた彼ら? ねえ、あなたにとってどちらが悪魔だと思いますか」

「そんな、の」

 報奨金について話し合う村人たちの顔が脳裏によぎった。

 生き延びられる――次の春が来れば――……ごめんなさい、ごめんね……――なにあの女は魔女だったんだ、本当だ――違うよ聖女だった――でもきっとフランシーヌも俺たちを憎んではいないはずさ、この村はもう限界だって分かってた――

 何という勝手な掠奪。勝手な懺悔、勝手な謝罪。勝手な追悼に勝手な憶測、勝手な解釈。

 自らが他人のために死ぬことを望む人間などいるものか。弁解も赦されず異端審問官に連行された母は、己の恐怖ではなく一人娘の身を案じる言葉だけを残した。それでも魔女裁判の拷問について耳にするたびエリーゼは狂おしい怒りと悲しみに支配される。

 こちらへ手が伸ばされる。骨ばった長い指を避ける気持ちは瞬きで萎えた。易々と小さな手を包む掌は労りじみた触れ方をしてくる。

 愛おしむような目は錯覚なのだろうか?

「エリーゼ」

 なおも囁きかけるその声に。

 エリーゼは瞼を落としていった。


***


 神父ニコラの転落死は村に小さからぬ波紋を呼んだ。

 とある幼い少年が壮年の神父が『自分だけに』してくれたいかがわしい仕業について何気なく語ると、少年の親が血相を変えて事実を掘り返し、まもなく村のあちこちから数名が忌むべき虐待を受けた上『魔術的な』巧妙さで口止めされていたことが明らかになる。

 深夜に村を訪れその明け方立ち去った娘の話題は、酔っ払いの卓にすら上らなかった。


 ――そしてその少し前、神父と一人の男の間で交わされた会話も。



 助けてくれ。僧服を着た男が何度もそう繰り返し、必死に頭を床にすり付けている。

 その前には若い男が佇み、感情の希薄な瞳でそれを眺めていた。

「ねえ、ニコラ。プライドをかなぐり捨てたお願い事もいいけれど……僕は言いましたよね。君の前職は便利だからやめない方がいいよって。どうしてこんな辺鄙な村で子供なんて愛でてるんです?」

「ひ、わ、私だって、上の階級には逆らえないんだ。め、命令には……どうしようも」

「ええ存じ上げております」

 台詞に反して青年は爪先を軽く跳ね上げるようにして男の額を蹴った。

「普段は強気なくせに、自分の命が大事と分かれば面白いものですね。それらしい人間に目をつけてお金を積めば留まれたでしょう? どうして『あえて』辞めたんです?」

「……」

「どうして」

「み、身に覚えのない人間を、拷問するのは……おぞましい。夢に出る……もう、もう限界なんだ」

「……ふうん」

 青年は冷ややかに呟いた。

「少年たちも数年したらじき夢に見ますよ。ご安心下さい、紛うかたなき悪夢です。――身に覚えがない者ばかりでも、案外なかったし。本当の聖職者どもは全く優秀ですね」

「へっ、え?」

 中腰の姿勢へと変えて男と目を合わせた。その頭を汚らわしいもののように触れながら掴み、指のすべてに力を込める。

「フランシーヌ・クラルティをどうして連れていった? 僕の可愛いフランシーヌを」

「ぎっ」

 指が頭蓋にめり込む、その味わったことのない痛みに神父が奇声を漏らす。悪魔は手を緩めない。

「輝かしい僕のフランシーヌ。僕は嫌と言ったのに人間らしく年を重ねて、それでもなお美しかった――屈辱と苦痛の拷問を経て死した彼女の魂の甘さに初めて涙するかとさえ思ったよ。聖職者たちと真正面から戦ってでも助けるべきだった。いや、どうして自分から逃げ出さなかったのか僕には分からない」

 ぺきりと指と厚い皮の向こうで軽やかな音がした。声にならない悲鳴を上げて男が逃れるのを執着なく離すままにし、悪魔は零度の瞳で見つめる。

「彼女の魂は、もう少しで僕を泣かせたかもしれなかったのに」

 恐怖と混乱に逃げまどう男が、足を滑らせたのを見た。紙が舞う。

 短い悲鳴。何度も何度も何度も続く鈍い音。

 ――静寂。

 悪魔は溜息をつき、書斎へと足を向ける。

 かつて異端審問官であった男、たった今死体となった彼の記録。その中にただひとつの名前が微塵でも残っていることを期待して。

 哀れな鈍い光が階段下から昇り、見えない糸に引かれるようその後を追いかけていった。


>了

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