第10話
「–––りく、りく!」
軽く頬を叩かれる感覚がして、りくはぼんやりと目を開いた。靄がかかったような視界の端に、見知った顔が映る。
「……パパ……あたし、なんで……?」
ぱちぱちとまばたきするりくに安堵した様子で、優人が深々と息を吐き出した。辺りを見回す。どうやらりくは自分の部屋に居るらしい。
「防波堤で倒れてたんだよ、」
「ねえパパ」
心配そうな優人の言葉を遮るように、りくはまだぼんやりと霞がかったような意識のまま呟いた。今聞いておかなければいけない、そんな気がしたのだ。
「ねえ、どうして今まで海の見えない場所ばかり転々としてきたの? なのに今更、どうして海が見えるこの土地に越してきたの?」
それは今までずっと言えずに仕舞い込んできた、否、一度だけ優人にぶつけた事のある想いだった。
優人はりくの寝乱れた髪をくしゃりと撫でると、静かに頷いて口を開いた。
「……そうだね。ママは海からりくを見守ってる、なんて言っておいて、僕は現実から逃げてばかりだった」
「逃げ、て……?」
「そう。僕は信じたくなかったんだ、ゆずりが、ママが……死んでしまっただなんて。りくにもこんな残酷な現実は突きつけたくないと思った。でも、ますますママに似てくるりくを見て、もう逃げてるばかりじゃいけないんだと思ったんだよ」
穏やかにりくを見つめて語る優人を、りくは涙で潤んだ瞳で見上げた。
「それで、今度は海の見える此処に引っ越してきたのね……」
「ごめんよ、りく。長い間僕の現実逃避に付き合わせてしまって。ねえ、りくは憶えてない? 此処はりくが生まれた時、僕とゆずりとりくの三人で住んでいた家なんだよ」
「そっか……だから懐かしい気がしてたんだ。引っ越して来てから、ずっと」
指先で涙を拭うりくに、優人は悪戯っぽく笑って見せた。
「それよりりく。りくがさっき防波堤で倒れた時、うちまで運んでくれたの誰か知ってる?」
「え?」
「実は、さ。りくの目が醒めるまで側に居てやってよって言ったんだけど。女の子の部屋に上がり込むのは不躾だからって聞かなくて」
「……誰が?」
「見当は付いてるんだろう?玄関出てすぐの防波堤の所にいます、って」
りくの頬にくちづけて、優人が「いっておいで」と囁いた。りくは優人に向かって頷くと、寝台をするりと降りて部屋を出た。見送る優人は眩しいものを見つめるように目を細め、「ゆずり、これでいいかな?」とちいさく声を漏らした。
倒れてから随分と眠り込んでいたらしい。りくが見上げた空には柔らかな菫色の天幕が舞い降りようとしていた。空の下に横たわる海は、昼間の青を閉じ込めて濃紺に染まっている。りくの視界の端で、一番星が銀色に煌めいた。
「壱之丞」
背中に向かって名前を呼ぶ。壱之丞ははっと振り返ると、そのままりくをぎゅっと抱きしめた。
「良かった」
「い、いちのじょ」
「……ごめん、今だけ」
戸惑って押し離そうとするりくを、壱之丞は尚も強い力で抱きすくめる。りくもおとなしく、しばらく壱之丞の鼓動に耳を傾けていた。
「ねえ壱之丞、あの時の約束だけど」
眠っていた間に見た夢をふと思い起こし、りくは壱之丞を見上げながら呟いた。
「思い出したんだ?」
ようやく身体を離した壱之丞が、りくを覗き込むようにして問う。りくは防波堤に腰かけると、足をぶらつかせながら言った。
「やっぱりそうかぁ。あの時の男の子が壱之丞だったんだ。可愛かったな、優しくて。……今の壱之丞、あんまり変わっちゃってたから思い出すのに時間かかったよ」
「そりゃ悪かったね」
照れたようなふてくされたような顔つきで答えて、壱之丞もりくの隣に座った。
果てしなく続く潮騒。
「でも俺、約束はちゃんと守っただろ」
お前は見事に忘れてたけどな、と付け足し、壱之丞はにやりと笑う。
潮騒が、ほんの一瞬だけ途切れて。
「憶えててくれて、ありがとう」
「どういたしまして」
りくは瞼を閉じ、唇に降る壱之丞からの微熱まじりの優しいキスを受け止めた。
-END-
波に揺れる花びら 遊月 @utakata330
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます