第9話
数日降り続いた雨がやみ、窓の向こうの空が潔く青く澄み渡った日曜の昼下がり。りくは散歩しようと思い立ち表へ出た。
防波堤に登ってみる。一段高い場所から見る世界は、いつもよりほんの僅か違って見える気がする。
りくは、ふと立ち止まって波打ち際へ視線を落とした。秋の深まりゆくこの時期、砂浜には人影もない。黒く枯れた流木や、正体不明の漂流物がちらほら打ち上げられている。夏の賑わいが幻のように思えて、りくは少しだけ淋しい気持ちになった。
「秋の海は淋しい……」
口遊むようにちいさくりくが呟いた時、そろりと秋の潮風がりくの頬を撫でて吹き抜けていった。冷たい、とは違う、柔らかな温もり。りくははっとした。
「ママ……?」
りくが幼い頃、まだ四つにもならないうちにこの世を去ってしまった、写真でしか見る事のない母親の手。その手に頬を触れられた気がして、思わずりくは呟いた。
「–––ねえママ、居るの?」
返事はない。いつもどおり、なだらかな波音が繰り返し繰り返し響くだけだ。
その時、波間にとぷんとちいさく飛沫が上がった。白く翻ったそれは、まるで花びらのようにくっきりとりくの視界に焼き付く。魚が跳ねたのだろうか? もしかして、まさか、人魚の尾鰭……?
波間で揺れる白い花びらを、りくは、ぼんやりと虚ろな目で見つめた。酷く眠たい気がする。瞼が重くなり、手足の感覚が鉛のように鈍る。りくはその場に屑折れた。
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ざざ、ざざざ、と潮騒が谺する。
日傘を差した妙齢の女性に、ほんのちいさな少年が手を引かれて砂浜を歩いている。夏の名残の陽射しを受け、砂は微かに熱を帯びている。少年は時折、女性の手をほどいて自分の関心のある方向へ走り出してしまう。女性はそれをたしなめるでもなく、日傘の下で微笑んだまま見守っているだけだ。
少年が駆け出した。
「おばあちゃん早く早く、あそこで女の子が泣いてるんだよ」
そう叫ぶ少年が指差す方を見てみると、波打ち際に膝を抱えて座り込む少女の姿があった。女性は砂に足を取られないよう、ペースを乱す事なくゆっくりとそちらへ歩み寄った。
「ねえ、どうして泣いてるの?」
前置きなしに、少年は少女に尋ねた。そうして自分も隣に腰を下ろす。
「ひとりで来たの?ママは?」
「あっち」
「あっちって、海だよ?」
少女が見つめる先は、何処までも果てしなく拡がる海だった。太陽が反射し、黄金の花びらを撒き散らしたように波間で揺れている。
「パパがね、ママは海にかえったんだって。りくのママは人魚姫だから、いまは海からりくをみまもってるんだって」
「……ふうん」
不思議な気持ちで少年は海の彼方の水平線を眺めた。そんな話は初耳だ。人魚姫から、こんな普通の女の子が生まれるなんて。そんなのありっこない、と思ったが、少女の赤く火照った瞼を見ていたらそんなふうには言えなかったのだ。
ざざざ、と波がふたりの足元に寄せては返してゆく。
「壱之丞、行きますよ」
掴み所のない少女の夢物語に痺れを切らした様子で、日傘の女性は少年を呼んだ。慌てて立ち上がった少年のシャツの裾を少女が引っ張る。
「ごめんね、僕もう行かなきゃ」
「あたし」
「え?」
「あたし、とおのりく。あしたひっこすの。だから、……もう会えないね」
泣き止んでいた筈の少女の目が、まばたきしたら涙が零れ落ちそうな程真っ赤に潤んだ。
「きっと会えるよ、いつか」
「ぜったいに?」
「きっと、だけど」
「ぜったいじゃないの?」
参ったな、と焦りながら、少年は泣き顔の少女を見つめた。柔らかそうなほっぺた、ふわふわの髪。迷った挙句、少年は少女の前髪をかきあげると、額に唇を寄せて言った。
「また会えるように、おまじない。……ね?」
耳まで真っ赤に染めた少女を背に、少年は再び女性に手を引かれて歩き出した。
潮騒の残響。少年の唇と少女の額には、それぞれ融けそうなほど甘い微熱が、確実に刻みつけられたのだった。
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