闇討ち

 突如、雷の轟きが清閑な空間を揺さぶったことで、女は浅い眠りから呼び戻される。


「……何……地震……?」



 ぼんやり視界に映るのは、漆塗りの黒天井とそれを取り囲む赤色の壁で、寝入る前に見た光景と変わらない。


 しかしながら、耳をつんざく雷鳴と格子窓から差し込む閃光が、徐々に更紗を眠りから醒ましていき。


「……どれくらい…経ったんだろう……」



 部屋では灯火が変わらずゆらゆらと揺れているが、布団横に居たはずの山崎の姿は見当たらなかった。


 襦袢の上から男物の羽織に腕を通した更紗は、気怠い身体を引き摺りながら、暗い階段を下りてゆく。


 頭が鉛のように重く、熱が上がっているようだが、脇目も振らず向かった場所は、酔い潰れた男たちが転がる松の間であった。



「……野口はん、気分はどうどすか?お冷、持ってきましたえ」


 行灯の明かりを頼りに目を凝らすと、起き上がる丁髷姿の侍に寄り添い、茶器を手渡す明里の姿が目に入り。



「明里さん、夜遅くまでお疲れ様です」


 暗がりの中、傍まで歩みを進めると、こちらを訝しそうに見上げた明里が眉を下げ、ふわりと柔らかく微笑んだ。



「…ああ、市村はんどしたか。もう起き上がらはって大丈夫どすか?朝はまだ先どす、もう少し寝はって下さいね」


「皆は、どこに…?」


「…へぇ、此処にいはらへん人は、御二階でゆっくりしてはるか、お帰りにならはったかどす」


「……あの、芹沢先生は?」



 胸の鼓動が高鳴るのを感じながら、躊躇いがちに質問を投げ掛けるが。



「へぇ、芹沢先生なら、だいぶ前に土方先生と平山先生と…あとは……平間先生やったかなぁ。一緒に帰らはりましたえ。女の人連れて」


「え、お…女の人って…?!」



 想定外の返答に更紗は深夜だということも忘れ、素っ頓狂な声を上げていた。


 男だけで屯所へ戻るだろうと踏んでいたのに、廓の女も一緒に戻ったというのは、言わば寝耳に水であり。


(……やだ…巻き込まれちゃうじゃん!)



 露骨に狼狽える更紗を見つめていた明里は、心配そうにその顔を覗き込んだ。



「市村はん、一体どうしはりましたんえ?一緒に帰らはったんは、桔梗屋の吉栄とうちとこ輪違屋の糸里どす。後、女の人が一人、駕籠で迎えに来はって…」


「駕籠で迎えに来たって……まさかお梅さんですか?!」


「すんまへん。市村はんの言うお梅さん、という女性かは分からしまへんけど……そやなぁ……このへんに一つ黒子があらはったやろか」



 思案を巡らす表情を浮かべた明里は、綺麗な指先を口元の左側へ添えてみる。


 みるみる血の気がなくなった更紗は、両の指先で自身の口元を覆っていった。



「……やだ……お梅さん来たんだ…」


「あの綺麗なお方がお梅はんいうんどすか。屯所がもぬけの殻やから、島原に来はったそうどす。芹沢先生を見た時、嬉しそうにしてはって……市村はん…?」



 明里が紡いだ言葉は宙を舞い、既に松の間を飛び出した更紗の耳には届かなかった。


(芹沢先生と約束したのに!!私のバカ!!!)



 全身がカッと熱くなり心の内が掻きむしられるような激しい焦燥を感じる。


 芹沢から梅の動向を聞いて、安心してしまった安直な思考を呪いたくなる。


(……何としてでも…お梅さんだけは助けなきゃ…!)



 玄関にあった番傘をひったくるように取った更紗は誰のものかも分からない下駄に足を通すと、脱兎の如く真っしぐらに走った。


 心臓がばくばくと打ち続け、最悪の事態を想像するたびに、底知れぬ恐怖が息を詰まらせる。


(真っ暗じゃんか……でも…行かなきゃ…)



 提灯を持たずに飛び出してしまったことを後悔するが、引き返す時間が惜しく、震える手で傘の柄を握り締めて島原大門を潜った。


 目の前には吸い込まれそうなほどの闇が広がる上に、殴りつけるような豪雨のお陰で一寸先の視界までもが危うい。


 そんな逆境の中、敵か味方か分からない稲妻が闇夜を裂いて、壬生へと向かう畦道を刹那的に照らし出してくれていた。



(……もう少し……あと…ちょっと…)


 抜かるみに足を取られ転けそうになりながらも、何とか奮い立たせて懸命に駆けると、屯所に掛けられた提灯の明かりが見えてくる。


 八木邸の門前まで到着し、ふと目線を上げた次の瞬間、黒い影とぶつかり、熱でふらつく女の身体は否応なしに吹き飛ばされた。


「……いったぁ……」



 地面に身を投げ出すように、ズシャッと水溜りに尻餅をついた更紗は、土砂降りの雨に打たれながらも必死に目を開けて相手を見入る。


「…か…堪忍え……殺生や…」



 視界に映った人影は、松の間で見かけた美しい芸妓であったが、その顔は青白く、カタカタと震えながら裸足で駆けていった。


(……な…何…どういうこと……)



 更紗は仕方なく立ち上がると、全身からぽたぽたと雨の雫を落としながら慣れた八木邸の玄関へ足を踏み入れた。


 一寸先は闇のまま、土間と繋がる和室は真っ暗で何も見えない。


 瞬間的に落雷の閃光が差し込み、一組の布団が敷かれているのが見えたが乱れた状態のまま、誰もいないことは理解したが。


(……まさか…もう終わったとか……?)



 不意に部屋を隔てる襖の向こうから、激しい雨音に混じって金属のぶつかり合う金切り音が微かに聞こえた気がして、途端に鼓動が跳ねた。


「……お梅…さん…!」



 全身に汗が流れる切迫した恐怖に襲われながらも、真っ暗闇に両手を伸ばして一歩ずつ歩みを進め、指先にぶつかった襖に手を掛ける。


 恐る恐る開けた女の視界に飛び込んできたもの───


 無残にもボロボロにされ横倒しになった屏風と、下帯だけの姿で部屋の真ん中に突っ伏した首のない男の遺体であった。


「……っ……や……!」



 壁には黒っぽい絵の具のようなものが飛び散り、既に物体と化した人間の周りを色の濃い血溜まりが浸している。


 湿気と混じって噎せ返るような鉄錆の匂いが充満しており、更紗は反射的に鼻と口元を手の平で強く覆った。


(……これは……誰…なの…)


 踏み出した足に触れたものは何かと視線を落とせば、片方の目に黒の眼帯を付けている人形の首のようなものが転がり始め。


「……きゃあ……っ…!!」



 その首が今日の昼頃、正にこの場所で梅について話しをした芹沢一派の平山五郎のものだと認識するまでに、そう時間はかからなかった。



「…其処に居るのは何者!!」


 突如、自分へ向けて放たれた怒声に更紗は肩をびくつかせて顔を向けた刹那。


 凄まじい雷鳴と共に閃き落ちた稲妻により、抜き身を手に縁側に佇む黒影と壁にくたりと寄り掛かる人影が照らされ。



「……市村…君……どうして此処へ…」


 頬被りをした人の目が見開き、いつもの優しい声色とは異なる、驚きに掠れ、切れ切れに聞こえる切迫した静音に、それが誰なのか悟り。


(……山南さん……。)



 相応の覚悟は決めてきたつもりだったが、体の奥では失望感が渦巻き、声も上げられない悲しみが心を犯していく。


 更紗は濡れた羽織りの合わせをギュッと握り締めると、生温かい液体を避けることもせず、ただ真っ直ぐに縁側へと歩いていった。


 畳に黒紅の道筋をつける内に、座り込んでいる人の様子がおかしいことに気づき、声にならない悲鳴を上げながら駆け寄り。


「……やだ!……お梅さん…!!」



 ぐったりと壁に凭れかかる梅は赤の腰巻をしただけで上半身を露わにし、明らかに弱り切った様子を見せていた。


「お梅さんしっかりして!」



 羽織を脱いだ更紗は女の肌を隠すようにそれを掛けると、梅が応えるように薄ら目蓋を持ち上げ、苦しそうに吐息を漏らす。



「……お更……はん…?」


「お梅さん、一緒にここから出よう」


「……此処…から…?」


「そう、ここから。芹沢先生に託されたの。貴女が幸せになるまで私が傍にいる。…もう、京から出よう」


「……それなら…せんせも…一緒に…」



 涙の膜が張る虚ろな瞳が壁を隔てた向こう側を見つめるため、更紗は意を決して立ち上がると、黒装束の山南の横を歩き始めた。



「……市村君、行っては駄目だ」


「離して下さい」



 大きな手が華奢な手首を捉えるものの、振り解いた更紗は、金属音の響く隣の部屋へと向かおうとする。



「山南さんよ、早くお梅さんを楽にしてやれ……って、更紗!?何でお前が此処に!?」


 背の高い黒装束の男が縁側から顔を出すや否や、慌てて立ち塞がるように駆けてくるが、更紗は臆することなく手を前に突き出す。



「…原田さん、どいて」


「…っと…危ねぇ…」



 血刀が当たってしまうことを恐れた原田は咄嗟に身体を反らすが、その隙をついて更紗は縁側に足を踏み入れると、まっしぐらに駆けた。


 刹那、捉えた光景が現実なのだと受け止めるまでに、暫しの時間がかかることになる。



「……見るんじゃねぇ。お前は関わるな」


 背後に立つ原田が自分の腕を掴んで引き摺りだそうとするが、その手を全力で払った更紗は瞬きもできないまま唇を震わせた。


「こうなることは分かってたから……私にだって……責任はある」



 立ち尽くす二人の視界の先には、文机に踵を乗せ大の字に倒れる芹沢と、それに群がる二名の男の、目を覆いたくなる悍ましい行為があった。


 無様な下帯姿で倒伏する生身の肉体に、気が狂ったように血濡れた大刀を繰り返し突き刺す黒装束の人間たち。


 深く差し込まれるたびに男の大きな身体が震え、赤黒い何かが噴き出し流れていく。


 それでも命尽きる最期の一瞬まで武士であろうと、芹沢は握られた脇差しを手放さず、目をカッと見開いていた。


 俗世で刀を振るう同士を睨み付ける侍の死に様に、更紗は決して瞳を逸らさずに、凄惨な八木邸の景色を見据え続けた。



 ───碧目、武士道と云うは、死ぬ事と見付けたりよ



 芹沢の言葉が脳内へ木霊する。


 隠せなかった淡褐色の双眸から大粒の涙が溢れ出しては、闇の世界を歪ませていく。


「……芹沢せ…ごめんなさ……」



 もし、あの時、未来を伝えていたら……今、この瞬間も違った時を共に刻めたのだろうかと、後悔の念が寄せては返す波のように次々と襲ってくるが。


(……ううん、芹沢鴨は…きっと……逃げ出すなんて、しないね。)



 武士として命を賭す覚悟をした芹沢が、己の信念や誇りを捨ててまでも生き残る道を選ぶ可能性など皆無で。


 例え、死が待ち受けていようとも、潔く、喜んで己の身を戦さに投じるだろうと、生き様に頬を伝う涙を止めることは出来なかった。


 梅を想う時だけ見せてくれた人間らしい表情が目蓋を焼くように浮かび上がっては、芹沢唯一の願いを更紗の心に熱く託し続けていき。


(……お梅…さんを…助けなきゃ…。)



 差し込んだ刀を動かなくなった肉体から引き抜いた土方と沖田が、天を切り裂く閃光によって照らされた長襦袢姿の女に気づく。


 赤い着物を纏い青白く光る肌は、この世の人間とは思えない不気味さを醸していて。


「……何故なにゆえ……此処に…」



 青年から声を掛けられたような気もしたが、女は答えることもなく踵を返し、隣の部屋へと消えていった。

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