浮生夢の如し

「…お梅さん、立てる?早くここから出よう」


 目蓋を閉じたまま、梅は生気のない顔つきで壁に凭れていた。


 更紗はしゃがんで呼び掛けたが、返ってきたのは、山南の酷く重々しい声だった。



「……市村君、婦人はもう…」


「あなたたちの目的は芹沢先生でしょ。お梅さんを助けても何の問題もないはず…」



 その背に手を回した更紗は、羽織り越しに伝わるヌルリとした生温い感触に表情を強張らせる。


 急激に鼓動が波打つ中、自身の赤く染まった手の平が震え出すのが分かり。



「……何で……血が…」


「…背を一太刀斬られている。この出血量では助かる見込みは…」


「何でお梅さんがこんな目に遭わなきゃいけないの!?誰かれ構わず斬っていい訳じゃない!!」



 頭から燃え上がるような焦燥に駆られると同時に、どうしようもない悔し涙が込み上げてくる。


(……何でもっと早く、気づけなかったんだろう…!)



 既に意識が混濁しているのか、血の気の引いた梅の顔から尋常でない量の汗が滲み出していた。


 その衰弱しきっている様は、彼女に一刻の猶予もないことを物語っている。



「…確か…壬生村の外れに……町医者がいたはず…」


 細い懐に身体を寄せ、一気に担ぎ上げた更紗は、ふらつく足取りで縁側から濡れた地面へと降り立つ。


 天から打ち付ける際限のない大雨が、虫の息になりつつある女の体温を容赦なく奪っていた。



「お梅さん、今直ぐお医者さんに行こうね」


 少しでも自分の温もりを分けたくて、更紗は掻き抱くように梅の背へ腕を回す。


 気休めだとしても止血になればと、血でぬめった背中を手の平で懸命に押さえれば。



「……お…更…はん…」


 雨音に掻き消されそうな程の小さな声を、梅は聞かせてくれた。



「……ほんま……堪忍…なぁ…」


「……うん…分かってる」


「……辛い思い…さして…御免ね…」


「…もう……喋んなくて…いいから…」



 動く度に指の隙間から流れ落ちる梅の生きる証が、涙声の更紗を追い詰めていく。


 現代であれば、救急車を呼べば数分の内に助けに駆け付けてくれる筈なのだが。


 今は、自分が諦めた時点で、腕に抱いた一つの命が消えてしまうという、非常に深刻な状態であった。


「…出来るだけ…急ぐから……頑張ろ…」



 恐怖と不安で押し潰されそうになる心を奮い立たせながら、闇深い八木邸の門へと歩みを進めていけば。


「…せんせの…とこ……行きたい…」



 消え入りそうな程のか細い声が、水の上を漂うようにゆらゆらと歩き出していた更紗の足を地面へと縫い付ける。



「……今は…我慢して…お願い……怪我の治療して…」


「……あの…人…寂しがり…やから…」


「…お梅さん…お願い…だから……一緒に…生きようよ…」


「……ずっと…傍に…居るて…決めた…んやぁ…」



 例え死が彼女を連れ去ろうと手を伸ばしても、梅は恐れに泣き叫ぶことも命を乞うこともしなかった。


 闇に向かって優しく微笑む梅は、まるで少女のような健気さを孕んでいて。


 頑なに芹沢を想う気持ちが女の心を貫き、息も満足に出来ない位に泣きじゃくる更紗の決心を鈍らせる。



「……っ…お梅…さん…」


「……お…願い…せんせの…とこ…連れてっ…て…」



 闇夜を濡らす垂直の雨が杭を打ち付けるかの如く、二人の身体に降り注いでいく。


 芹沢の唯一の願いは、刻一刻と命の灯火が小さくなっている梅の幸せであり。


 梅が命と引き換えに求める一つの願いは、芹沢の傍にいることだけ。



「…お梅…さんの…バカ……何で…」


「…我儘……きいて…くれて…おおきに…」



 想い出が走馬灯のように駆け巡り、冷静さを欠いた更紗の思考を瞬時に埋め尽くす。



「…そんなこと……言わない…でよ…」


「…お更…はん…堪忍なぁ……だいすき…や…」



 初めて会った時に見せてくれた愛らしくも妖艶な笑顔が忘れられない。


 湯屋に連れ立った時も然り、一緒に洗濯物を干しながらお喋りに花が咲いた時もまた然り。


 梅は常に優しく、自分へ愛情をもって接してくれていた。


 そんな彼女唯一つの望みが、仮に自分の恐れる最悪の出来事だったとしても。


 それを叶えるために下す決断に、己の生涯に渡って悔いる日々を強いられる事になっても。


 梅にとっての幸せなら、もう構わないのかもしれないと、ふと思った。



「……芹沢…先生……約束…守れなくて……ごめんな…さい」



 心の糸がぷつりと切れてしまった更紗は、自然と膝の力が抜ける。


 梅を強く抱きしめたまま、仄暗い水溜りの中に座り込んでいた。



「…更紗…!」


 声の方へ意識を向けると、離れた所からこちらを眺めるばかりで手を拱いていた男の一人が駆け寄って来る。


 二人の前へしゃがみ込んだ沖田は頰被りから覗く鼻の下に血を滲ませており、今にも泣き出しそうな顔をしていた。



「……お梅さんを…どうしたい…?」


「…………芹沢…先生の…傍に…」


「……分かった。それなら手伝う」



 嗚咽を洩らす更紗を見据え、頷いた沖田は、抱かれていた梅の肩と膝裏に腕を回すと一気に抱き上げた。



(……もう……誰も…助からない…)


 更紗は、呆然と八木邸へと戻っていく沖田の後ろ姿を眺めていた。


 全ては破滅の未来へと進んでいる。


 立ち上がれば重心を失ったようにふらつくものの、動く足を止められなかった。



「何しに来た。死にてぇのか」



 縁側に辿り着く頃、自分を無表情で見下ろす土方に視線を絡め取られていた。


 ここに来た理由さえも自分の判断で手放してしまった女から紡げる言葉など一つもなく。


 更紗は口を閉ざしたまま男の横を通り過ぎ、ずぶ濡れの身なりで縁側へ上がる。


 山南と原田が見守る中、沖田によって梅は血溜まりの中に寝かされていた。


 既に黄泉の国へと旅立った芹沢と仲睦まじく寄り添う姿が、涙でぼやけた視界に映り。


「……芹沢せ……お…梅さ…」



 目を見開いた状態で物体へと成り果てた男の顔を、小刻みに震える両の手の平が包み込む。


 濡れた目蓋を下ろしたまま愛おしそうに頬を寄せる梅の仕草に、嗚咽を止めることが出来なかった。


「……っ…ふぅ……」



 彼女にとっての幸せとは、本当にこの結末だったのか。


 それならもっと早く芹沢の傍へ連れて行けば───


 たとえ刹那でも温もりを溶かし合うことが出来たのではないかと、後悔と懺悔の念が更紗の心を苦しめる。


「……ごめん…なさ…い…」



 僅かに動いていた指先がくたりと落ちた時、梅は穏やかな表情を浮かべていた。


 もう開かれることのない瞳から、一筋の涙をツ、と零して可憐な花は散っていった。



「……や…だ……お…梅さ…」


 糸を切られた操り人形のように崩れ落ちた女を見やった土方は、頰被りを取り、黒装束の男たちへ声を放った。



「俺は此奴と話しをつけなきゃなんねぇから……おめえらは着替えたら直ぐに角屋へ戻れ。いいか、怪しまれんじゃねぇぞ」


「……分かりました」


「…今宵は女を抱かねぇと寝られそうにねぇな……総司、悪りぃ事は言わねぇ、お前も慰めて貰え」



 青年の肩をポンポンと叩いた原田は、踵を翻して本玄関へと歩き出す。


 血に塗れた黒手拭いを握り締めた沖田は、その場を動こうとしない侍へ濁った眼差しを向けた。



「……山南さん……行きましょう」


「…土方君、市村君に非は無いんだ。彼女を傷付けるような事だけは…」


「それは此奴の出方次第だ。新撰組の足枷になる人間がいりゃア俺はそれを始末する」


「……市村君は何も知らなかったんだよ。だからこそお梅さんを…」


「そもそも山南さんが一発で女を仕留めりゃこんな茶番にはなってねぇんだ。…覚悟が甘ぇんだよ」



 言い淀む山南を突っぱねるように、土方は淡々とした物言いで苛立ちを吐き捨てる。


 雨音が言葉を搔き消す中、その意味を理解した更紗は、身体の中から何かが落下していくのを感じ。


(……そっか……私……邪魔者…なんだ。)



 暗殺犯を見てしまった人間を生かすことは、外部の犯行に見せかけたい新撰組にとって、命取りにもなり兼ねない。


 つまり自分も例外でなく、厄介な存在でしかないのかと、空虚が心の内側に広がっていく。



「…おい、何馬鹿な事言ってんだ!更紗が足枷になる訳ねぇだろが!総司、お前も食えねぇ鬼副長に何か言ってやれよ!」


「……何かって……言われても…」



 振り返った原田が慌てて場を取り繕おうとするも、血生臭い陰鬱な空気が変わることはなかった。


 沖田は落ち込むように俯き、山南も口を噤んだまま、表情に悲しい影が走っている。



「……おいおい、何で黙ってんだよ!総司も山南さんも何とか言ってくれ…」


「そりゃア俺の言いてぇ事が嫌と言う程分かるからだろうよ。時はねぇんだ、さっさと行きやがれ」



 土方は力任せに更紗の腕を掴むと、外へと続く闇の中を歩かせていく。


 触れ合う手と手にいつもの温もりはなく、更紗は身体の一部がもぎ取られたような切実な痛みを感じていた。


 絶え間なく落ちる秋の雨音が、警告する耳鳴りのように頭の奥に響き渡っていた。

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