心からのお持て成し

「新選組は、雅とは無縁だな」


 暫しの時が経つ角屋の大広間に、苦笑混じりの芹沢の声が落ちていた。


 更紗は涙を懐紙で押さえながら、扇子の向こう側をそっと眺め入る。


 雨の飛沫のせいで庭にそびえ立つ臥龍松の姿さえ、霞み見ることは出来なかった。


 代わりに目の前で繰り広げられている光景は、今の自分の心情とは天と地ほど掛け離れたもので。


「……皆、楽しそうですね」



 仮に太夫が舞を披露したところで、礼節を持って鑑賞する人間は、ここには一人もおらず。


 芸妓と屏風越しに踊り合う隊士や娼妓にちょっかいを出している輩がいる。


 既に酔い潰れて周囲の人間に介抱されている者もチラホラ出ている有様だった。



「碧目、何か舞えんのか?」


「舞ですか…?今は、何も出来ないです…」



 筆頭局長からの唐突な問いに更紗は人に披露出来る代物ではないと、緩々と首を横に振るが。



「何だ、お梅から嗜んでいると聞いておったのに。詰まらんのう」


「……すみません」


「仕方あるまい。明日、お梅と仕切り直すか」



 わざとらしく息を吐いた芹沢は、再び盃を口元へ運び、飲み干していく。


 この男に残された時間は後僅か、どれだけ求めても彼に明日は来ないのである。


 明里より島原の芸妓の心得を教えて貰ったのに、何一つその想いを伝えられず、泣くだけの弱い自分に苛立ちが募る。


(……下手くそだって、恥かいたっていいじゃん。)



 例え、上手く舞えずに笑われたとしても、芹沢鴨が愉しい時間を過ごせたのなら本望なのかもしれない。



「…あの……ホント下手なんですけど。それでも良かったら見て貰えますか?」


「ほう、鬼に下手とでも言われたのか?」


「……土方さんには見せてもいません」


「そうか…良い気味だ。下手で構わん、儂が先に見てやろう」



 恐る恐る目線を持ち上げれば、芹沢は満足げに口元を綻ばせていた。

 

 その表情がとても和やかなもので、更紗は途端にトクトクと鼓動が早くなるのを感じた。



「三味線か笛を呼ぶか」


「…そやったら、俺もちょっとばかしお手伝いさせて貰うてもええですか?」



 不意に飄々とした声が聞こえ振り向くと、店の三味線を借りたらしい山崎が微笑みながらこちらへと近づいてくる。



「すみません、ついしゃしゃり出て。二人が良い雰囲気やから、何してんのか気になってしもうたんです」


「鬼の差し金かと思いきや、お前が悋気を起こして寄って来たのか」


「はい、芹沢先生にちょっとヤキモチ焼きましたわ」



 山崎は相槌を打ちながら三味線を試し弾きすると、真面目な顔つきで立ち上がった更紗を真っ直ぐに見据えた。



「十二月、間違ってもええから気持ち込めて踊り。心は御客はん一心に向いてます、やで」


「……はい、よろしくお願いします」



 後ろに下がった更紗は一呼吸置くと、丁寧な所作を意識しながら打掛の袖を掴み、首を微かに傾ける。


(……同じ時は二度と来ないんだ。だから…一生懸命やる。)



 瞳を閉じればどこにいるのかも気にならない程に、己の精神だけが研ぎ澄まされる。


 喧騒の全てを消し去った遊女の鼓膜が、色を奏で始めた三味線の音と艶のある男の声を捉えると、能動的に身体は動き始めた。


 一つの仕草から次へと移る刹那は、母から習った指先の運び、色香を含んだ視線の置き方まで全神経を通わせ。



「…抱いてねはんの 雲に隠るる屏風の内で…」


 無意識に小唄を口遊み始めた更紗は、目の前に座るたった一人の客を、穏やかに自分を見つめる芹沢鴨だけを想っていた。



(……芹沢先生……私、忘れないからね。)


 命の灯火が消える、命尽きるその瞬間まで、ほんの心の片隅にでも安らかな思いが残りますようにと、幻のような時間の中で何度も願い続け。



「お粗末さまでした」


 初々しい舞を披露し終えた更紗は、扇子を閉じて腰を下ろすと、ゆっくりと重い頭を垂れた。



「……酷いようなら、腹を抱えて笑うつもりだったんだがな」


 拍手の代わりに頭上へ落ちてきた言葉を受けて、女は伺うように視線を上げれば、存外優しい眼差しが一心に向けられていた。



「悪くなかった。拙い所もあるが、お前は肝が据わって堂々としておる。そうだな…約束通り一字、名を付けるなら……鶴が良いか」


「……鶴…ですか?」


「儂が鴨なんじゃ、碧目も鳥の名で構わんだろう。鶴はいいぞ、手足はすらりと長く、大空を舞う姿は気高く優雅で美しい。やはりお前には勿体無いか」



 堪らず、声を出して笑う侍の一挙一動を、更紗は決して逃さぬように淡褐色の瞳に焼き付けていく。


 こんな形で芹沢鴨から最高の褒め言葉を貰えたことが嬉しくて切なくて、自然と目頭が熱くなっていた。



「その名に恥じぬよう……これからも精進します。ありがとうございます」


「今度、お梅の前でも舞ってやれ。喜ぶぞ」



 武士であるがゆえ、いつでも命を賭す覚悟を決めている芹沢唯一の願いは、梅という女の幸せであり。


「……あの、今日はお梅さんは…?」



 彼の願いを守るためにも梅の動向を知る必要があるのだが、芹沢は背後に鋭い眼光を向けると、わざとらしく逞しい腕を更紗の腰に回した。



「山南め、吐きよったか。御遊びも此処までじゃ」


「……え?」


「お梅は西陣よ……お鶴、今宵は儂と此処に泊まるか」


「……え、ちょっと…芹沢せ…」



 唇を寄せて耳へ吹き込まれた誘いに更紗は狼狽えるが、芹沢は腰に腕を絡めたまま、近づいて来る男を薄笑いで迎えた。



「何用だ。儂はお前に用は無い」


「…芹沢さんよ、もう十分だろう。其奴は具合が悪りぃんだ。そろそろ離してやってくれねぇか」


「何を今更。散々、女郎に現を抜かしておった奴が。ほったらかしにした女に悋気を起こすなど見苦しいものよ」


「先生に挨拶しろ。部屋へ行くぞ」



 嫌味を無視して放たれた土方の冷たい物言いに、更紗はどういう反応をして良いか分からず、顔を上げてその男を見ることが出来ない。



「…土方君…もう少し穏やかに…」


「連れてってやるから早くしろ」



 ただならぬ雰囲気に見兼ねた山南が苦笑いで土方を諭そうとするも、その男は偽の遊女を睨み付けたまま、視線を外そうとはしなかった。



「立たねぇと、無理矢理にでも引き摺り出すぞ」


「………立ちますよ」



 脅しとも取れる言葉に更紗は溜め息を落として芹沢を見つめると、三つ指をついて最後の感謝を述べる。


「芹沢先生、今夜はとても楽しかったです…一生忘れません。本当にありがとうございました」



 伝えたい想いは山ほどあるのに、これ以上声を出すと泣いてしまいそうで、震えそうになる唇を引き結ぶのが精一杯であった。



 陰気を散り散りにしたような闇夜が、京の町を一息に呑み込んでいた。


 夢か現か分からない世界にいるような感覚に陥っていた更紗は、瞬きを繰り返し、張り裂けそうなほどに募る思いを必死で抑えていた。


「……はぁ…苦し…」



 格子窓の向こう側で待ち構える闇と睨み合い、部屋の赤壁にもたれながら、静寂を掻き消す激しい雨音に耳を傾ける。


 連れられて入った部屋は以前、才谷梅太郎と楽しく酒を飲み、酔い潰れて土方と泊まった二階の八景の間であった。


 湿気の匂いに混じって室内に漂う紫煙の香りが当時の記憶を少しずつ呼び覚ましてくれる。



 あの時は大好きな坂本龍馬に会えて興奮し、酔っ払った勢いで土方を通して好きだった昔の恋人の幻を見ていた。


 あれから幾つかの季節が巡り移ろいゆく中で、この想いも極自然に変化を遂げていき。


(……いつか、今日という日も過去の記憶に変わるのかな。)



 時は止まることを知らず、必ず訪れる明日へ向かって歩みを進めていく。


 自分の心だけが芹沢と過ごした時の中に置き去りにされたような、言いようのない孤独感が胸を浸していた。



 チラリと、反対側へ目線を向ければ、壁に背を預けながら膝を立てて座る土方が、ぼんやりと紫煙を燻らせていた。


 不意打ちで絡んだ視線を反射的に逸らすと、不機嫌な低音が濡れた室内へ響き渡った。



「何だよ」


「……あの、私にお気遣いなく、戻って下さいね」


「別に、おめえに気なんざ遣っちゃいねぇ……酔いを覚ましてんだよ」


「……そうですか」



 元気なく呟いた女の言葉は、雨の音に容易く掻き消されていく。


 これから暗殺に行く男に掛ける言葉など思いつく訳もなく、どうしようもない絶望に一人になりたくて、この場を立ち去って欲しいと願うばかりだが。



「……何故なにゆえ、遊女の真似事なんざしやがった。あんな媚売って…厭だったんなら、断りゃいいじゃねぇか」


 願い虚しく、立ち上がる素振りさえ欠片も見せない土方は、代わりに苛立ちを滲ませた言葉を容赦なく投げつけてくる。



「……何で私が責められるんですか。文句言うなら近藤先生と山南さんに言って下さい。私はただ、二人の指示に従っただけです」


「なら、直ぐに俺を呼びに来りゃア良かったじゃねぇか。具合悪りぃ奴が何させられてんだよ」


「……綺麗な遊女さんと良い雰囲気なのに、邪魔するようなことはしません。ずっと笑顔で……凄く楽しそうだったし」


「…あんなの愛想笑いじゃねぇか。俺があの場でむすっとしてる訳にいかねぇだろうが」


「……別に…素直に楽しかったって言えばいいのに」



 身を気怠げに持ち上げた更紗は、少しふわふわした足取りで、壁際に飾り直した紺色の打掛の傍へ歩いていく。



「……鶴、か…」


 夢から醒めた現実は残酷で、時が過ぎるのを待つという行為が苦痛で仕方なかったが。



「……おめえは俺には見せねぇのに、芹沢には舞を踊ってやるんだな」


 その心情を知らない男は煙管の煙を吐き出すと、打掛に描かれた鶴に手を伸ばしたまま硬直する女を一瞥した。



「……げ……見てたんですか?」


「…たく、可愛げのねぇ。でかくて目立つナリしてりゃ、嫌でも目に入ってくるだろうが」


「お目汚しすみませんでした、大女な上に可愛くなくて。もうこんな格好をすることもないので安心して下さい」



 返答にムッとしてしまい、いつものように喧嘩腰で言い返すが、土方は煙を立ち上らせたまま、整った眉間を寄せていた。



「嘘だよ……腹立つくれぇに綺麗だよ。…たく、下手な事すんじゃねぇよ。また変な野郎に狙われても知らねぇからな」


「……それは…すみません。でも、ご心配なく。もうしませんから……今日が最初で最後です」



 芹沢を引き止めるために作られた偽りの遊女の姿など、何の価値も見出せず、只々、滑稽で虚しかった。


(……結局、私も暗殺計画に手を貸してたって訳か。)



 知らぬ間に歴史の渦へと巻き込まれ、事件の一端を担ってしまっていたことに気づけなかった自分が情けなくて、涙が出そうになる。


 何の意味も持たない操り人形のような自分の姿をこれ以上見たくはない。


 帯を解こうと懸命に力を籠めるが、思いの外きつく締められたそれは体力を消耗している女の力ではビクともしなかった。



「やってやる。こっち向け」


 近寄ってきた影から逃れる術もなく、更紗は仕方なくそちらへと身体を向けた。


(……遊び慣れてるなぁ。)

 


 複雑な結び方をしてあるのにも拘らず、器用に解いていくその姿は、山崎のような職人気質なものとは少々異なっていた。


 けれども慣れていることには変わりなく、島原太夫との蜜月の夜をぼんやりと思い浮かべそうになり───



「何をされたんだ」


「…へ?」


「芹沢に泣かされてたじゃねぇか」



 土方の淡々とした言葉を聞いて更紗は首を傾げるが、直ぐに首を横に振った。



「……違う、私が勝手に泣いただけで。先生は何も悪くないです。寧ろ、良くしてくれました」


「…あれだけ、おめえに執着してたのにか。じゃあ、何がありゃア化粧が取れるくれぇ涙が出んだよ」



 解かれた帯が足元に落ちる中、伸びてきた骨張った指が熱っぽい白頬に触れ、そのまま赤色の目元を撫で始めた刹那。


「副長、盛るんやったら下でどうぞ。さっきの娼妓が探してましたで」



 スッと開け放たれた襖の向こう側から、意味ありげな微笑を浮かべた山崎がたらい片手にこちらへと歩いて来る。


 舌打ちを落とした土方が怪訝そうに横目で睨めば、その男は飄々とした顔つきで部屋の隅にいた二人を見やった。



「というのは冗談で。芹沢局長がお呼びです。更紗、お疲れやったなぁ。湯持ってきたし化粧落とそか。そこ座って」


「…あ、はい。お願いします」



 更紗は救世主の登場に胸を撫で下ろしつつ言われた場所に座り込むと、湯気が出ている手拭いを顔に押し付けられる。



「……あつ…」


「それにしても、振りはちいと間違うてたけど、なかなか良い舞やった。どんな心境の変化や」


「…あー…初めて真剣に踊ってみました。あれなら……合格ですか?」



 心を込めた舞が他人の目にはどのように映ったのか見当もつかず、師匠の顔色を伺うが、山崎は何か考え事をしているようである。



「まずまずやけど、あんたならもっと出来るかなぁ…一度、置屋で手習い受けた方がええと思うんや。…副長、あの文にあった喜み乃屋さんにやっぱ更紗を…」


「寝付くまで傍に居てやれ」



 言葉とは裏腹に拒絶するような気配が辺りに漂い、山崎が声を喉の奥に封じ込めるのを肌で感じた。

 

 畳を擦る侍の足音が遠ざかれば遠ざかるほど、恐怖を囁く不気味な雨音に室内は支配されていた。

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