最後の晩餐

 松の間では、相変わらず御囃子が鳴り響き、男女の楽しげな声があちらこちらで上がっている有様であった。


 ふざけ飲んでいた隊士たちがふと動きを止めて板廊下を見やれば、一人の遊女が裾から足の甲を見せ、ひたり、ひたりと近づいてくる。


 そんな彼らの前を横切る島原太夫は、どこか近寄り難い雰囲気を醸し出していた。


 女にしては高身長、しなやかで減り張りの効いた身体つきをしているが、遊女特有の媚びの姿勢は一切匂わせない。


 着物から覗く肌は陶器のように滑らかで白く、横顔を見れば、その美しさは一目瞭然。


 目尻に朱を入れた瞳は猫のように魅惑的で、不思議と意思の強さを印象付けていて。


 玉虫色に綺麗に輝く唇はぽってりと柔らかそうで、独特の色気を纏っていた。



 暗晦で色の個性をなくした更紗だったが、やはり浮世離れした肢体であることは、隠しようのない事実であった。


 しかしながら、常日頃から好奇な目で見られているせいか、正体さえバレなければ注目されることくらい、何てことはない。


 遊女は浴びせられる視線を物ともせず、凛としたまま上座へ向かって真っ直ぐに歩みを進めていく。


 動くたびにシャランと鳴る結髪の音色が喧騒を押しのけ、鼓膜を心地良く震わせてくれた。



(……芹沢先生はどこだろう…)


 景色の一つと化した人々を流し目で見やれば、鳳凰の襖絵の前に鎮座する芹沢がこちらを射抜くように見据えていた。


 痩けた頬を緩める仕草に釣られて口角を上げた更紗は、上座へ歩むとゆっくりと腰を下ろし、三つ指を付いた状態で頭を下げた。



「…芹沢先生、えらいおまっとさんどす。今宵は宜しゅう御頼もうします」


「これ以上、待たせるな。早う近う寄れ」


「へぇ、失礼します」



 母を真似た京言葉のぎこちなさに少し照れるも、目に映る芹沢は視線を上下に這わせ、耐えきれずに笑い出していた。



「しかし、碧目が此処まで化けるとは。女とは真に恐ろしいものよ」


「女など化粧一つで顔を変える化け物どす。それより…その呼び方は…」



 遊女は紅の引いた唇へ左の人差し指を当てると、右の指先を銚子へ伸ばし、ゆっくりと持ち上げる。


 芹沢は手に持っていた盃を勢い良く煽り、素っ気なく前へ突き出した。



「ならば、何と呼べば気が済む」


「……えっと……良かったら先生、うちに何か一字…名を付けておくれやす」


「そうか、一字、名を付けるか……懐かしい事を言うもんだ」



 突如、何かを思い出したのか男が珍しく微笑を浮かべれば、不思議そうに首を傾げた更紗は、その盃に酒を注ぎ入れる。



「芹沢先生、どないしはりました?私……何かおかしいこと言いましたか…?」


「否、お前が可笑しいのでは無い。儂が滑稽でな。未だ己に付けた名の働きは出来ておらん。偏にじゃ」



 しゃがれ声を漏らしながら笑う芹沢は、途端に寂しそうな表情を覗かせ盃を傾ける。


「何の得にもならん話しだが……儂の昔話を聞かせてやろう。後に一字付けてやってもいい」



 いつもと違う雰囲気を纏う芹沢の様子に反して、更紗は抱えきれない胸騒ぎに襲われていた。


 妙に穏やかな態度を向けられているのにその心中は、振り切れない不安を掻き立てられるものであった。


(……芹沢先生……今、あなたは何を考えてるの…?)



 既に自分の死期を悟っているのかの如く、最後の晩餐を楽しむように盃を傾け終えた手が、鉄扇を掴みひらひらと仰ぎ舞う。



「…芹沢先生のこと、知りたいです。あなたが何を思って生きているのか、私に教えてください」


「遊女の分際で、儂の生き様を知りたいか」


「……す、すみません。偉そうなことを言って…」


「偶には、勝気な女も一興か」



 軽薄に笑って見せた芹沢は、窪んだ双眸を目先の喧騒へと溶け込ませ、圧倒的な存在感を徐々に薄いものへと変えていく。


 周りは賑やかである筈なのに、男女を取り巻く空気が変わり、まるで二人だけが別の空間へ引き込まれたような、変な心地が更紗の体内をひた走った。



「儂は水戸の生まれでな。幼少期より水戸学と尊皇攘夷思想を学び、天狗党へと身を投じるのだが……まぁ、それはいい。


 ある日、沙汰を起こしてな。本来ならば、死罪になる身だったんじゃが……人の命たるもの奇なるものよ。心外にも生き永らえておった」



 幼子に聞かせるような声音で語り始めた芹沢を見やった女は、手に持つ銚子を畳へ置いて、寄り添うように身体を向けた。


 意味が分からなくとも聞き返さずに、只、発せられる言葉の一言一句逃してはならないのだと、全てを受け止めるために神経を研ぎ澄ませていく。



「元々、水戸藩は徳川御三家の一つ、皆が一様に尊皇攘夷派だ。それは水戸が海に面しているが故、これまで幾度と無くえげれすの船がやって来ては、我らを脅かして来た。


 お前には悪いが、夷国は憎き敵でしか無い」



 苦虫を噛み潰した顔つきで話す芹沢が恐ろしく見えるものの、言動から片時も目を離すことが出来なかった。


 会ったこともない実父の母国が、幕末の日本を脅かしているイギリスであることは紛れもない事実で。


(……胸が…苦しい…)



 どうにも抗えない自分のルーツに、更紗は収拾がつかない複雑な感情に苛まれ、堪えきれない気持ちが大きな瞳に熱を孕ませる。



「別に碧目を疎んでいる訳では無い。討つは夷国の人間じゃ」


「……ごめんなさい…。違うんです……その血が私には流れてます。私の父はイギリス人です…」


「お前にえげれすの血が…そうか」



 鉄扇を膳に置いた芹沢はその手で火照る白い頬に触れ、朱色の目尻に滲む赤い涙を掬い取る。


 存外優しく触れてきた指先は無骨で、硬くて、とても温かいものであった。



「……えげれす人とは、こんな面構えをしておるのか。皮肉なもんで其処らの女よりいいもんだな。まぁ、お梅には敵わんが」


「……はい、お梅さんには全然敵いません」


「…碧目、未だ話しは終わっておらぬ。泣くにはちぃと早いぞ」


「……はい」



 濡れた目尻に触れた折、指先に付いてしまった紅を懐紙で拭った芹沢は、穏やかに言葉を続けた。



「浪士組に参加すると決めて江戸を立つ時、儂は名を鴨にしたんじゃ。これは、常陸国風土記という神話に登場するある話しから思い付いた。


 倭武やまとたける天皇すめらみことが、船に乗って川を下る時に、空を鴨が飛び交っておったんだが。


 天皇が弓を射るや否や、弦の音を聞いた鴨は直ちに天から地へと堕ちていくんじゃ。射られても居らぬのにだ。


 例え、己の身を犠牲にしようとも天朝様の為に地に平伏した鴨のように、儂も生きてゆこうと覚悟を決めてな。


 どうだ、なかなか粋な名であろう」


「……はい、とっても素敵です」



 再び空の盃を突き出した芹沢は安寧な表情を浮かべており、更紗もまた釣られるように、強張っていた自身の顔が緩んでいくのを感じた。


 遊女は畳から銚子を取ると盃へゆっくりと注ぎ入れるが、侍はそれを飲み干すと、雫を落とすように呟いた。



「……儂はな、幕府に仕えようとも根底にある尊皇攘夷の思想は水戸徳川と同じように揺るぎないものだと、公方様を信じて此処までやって来た。


 されど、蓋を開けて見れば徳川に攘夷の思想なんぞ……在るのは夷国へ媚びへつらうばかりの情けない姿だけじゃ。


 言わば、会津の飼い犬となった壬生狼が新撰組という名を貰い懐いているのと何ら変わらぬ。余りに滑稽で哀れなもんよ」



 薄笑う芹沢から目線を外した更紗は、口を噤んだまま、彼の古傷のある手元を見つめることが精一杯だった。


(……芹沢先生。あなたが何を思って生きてきたのか、私には伝わったよ。そして……何故、暗殺されるのかも…)



 芹沢鴨は、佐幕派の人間として新撰組に身を置いているのにも拘らず、尊皇攘夷の思想が強過ぎるのである。


 それに加え、武術には長けているが無学者が多い浪士組の中で、抜きに出た政治的野心や発想力を持ち合わせている切れ者である。


 会津藩からみると、いつ反旗を翻す行動に出るか分からない、水戸徳川寄りの芹沢を新撰組の頭に置いておくメリットはない。


 それと比べても、幕府のお膝元である江戸で暮らしていた近藤勇を頭に仕向ける方が、色んな意味合いにおいて何かと都合の良いものであった。



「……お前も知ってるだろうが、一か八か賭けに出たんじゃ。これが吉と出るか凶と出るかは未だ分からんが……


 碧目、武士道と云うは、死ぬ事と見付けたりよ。


 一度は失いかけた命、尽忠報国の志を掲げた儂は、武士として何があろうとも逃げるつもりは無い。なぁに…神道無念流、免許皆伝の芹沢鴨が田舎侍如きにそう安安と負ける訳が無いがな。


 しかし…万一、儂に何かあった時には……お前にお梅を託しても良いか」



 不意に言霊の力強さがなくなったかと思えば、これまで聞いたことのない水を張ったような静かな声音で、侍は想いを紡ぎ始める。



「儂は死など一切恐れては居らぬ。されど、心残りはお梅よ。逃げ出せばいいものを……莫迦な女だ。下らない情に絆されよった。


 あれは人一倍寂しがり屋でな。会う度、お前に会いたいと泣いておるわ。会いに行けばいいものを合わす顔が無いと、犯した罪に苦しんでおる。


 ……碧目。お梅を赦してやってはくれんか?」



 自分を見据える穏やかな眼差しを前に、更紗は胸を突き上げる熱い感情を抑えることが出来なかった。


「……許すも何も……怒って…」



 言葉を返そうとしても涙が込み上げてきて、喉の奥で震える声を引き止める。


 あの日を境に梅のすすり泣く声が耳から離れたことはなかった。


 当たり前のように毎日見ていた梅の笑顔が見られなくなって、柔らかな優しい声が聞けなくなって、本当は寂しくて恋しくて仕方がなかった。


「……私も…会い…たい」



 堪えきれなくなった一筋の涙がツ、と真っ白な頬を伝っていく。


 芹沢は眉を上げて呆れたような表情を覗かせると、紅の付いた懐紙を濡れた頬へ撫で付けた。


「断髪を申し付けても一切涙を見せんかったのに、お梅の事となると泣くのか。仕様の無い」



 刹那、強引に男の肩に寄りかかる態勢にさせられると、鉄扇が目の前で鮮やかに広げられる。


 そこには、『尽忠報国之士芹澤鴨』と彫られていて。



「化粧の剥がれた遊女なんぞこの世で一番無様なものよ。儂に恥を掻かせるな」


 不器用な言葉とは裏腹に泣き顔を隠すように傾けられた扇子が、女の感情を否応なしに昂ぶらせていく。



(……芹沢先生…お願い……死なないで…)


 心から流れてくる一筋の叶わぬ想いが胸を貫いて、止まらぬ涙を誘い続ける。


 こんなことで絆されるなんて自分は弱いのだと嫌気が差すが、たった今、芹沢鴨という人間を失いたくないと、心の底から願って止まなかった。


 この男は己の志に従って、実直に生きているだけなのである。


 こんなにも温もりを分けてくれるのに、何もしてあげられないもどかしさが身体の芯を締め付けては、壊していく。


(……芹沢……先生…)



 遊女の顔を隠す鉄扇の向こう側はまるで別世界のようで、陽気な御囃子と男女の楽しげな歌声が、計らずも一秒ごとの時を彩っていた。

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